見出し画像

「自己責任社会」と入試制度

【1】日本は一億総中流社会?

▼社会学者の佐藤俊樹氏は『不平等社会日本』(中公新書,2000年)の中で次のように述べています。

 戦後社会がさまざまな点でゆきづまっているのは事実だろう。明治以来幾度となくくり返されてきた自信過剰と自信喪失のサイクルをこえて、私たちは今、あまりにも強い息苦しさと行くあてのなさを感じている。
 だからこそ、自己責任や自由競争の市場社会への転換といった標語が声高にさけばれているわけだが、実際、企業や学校の現場で、戦後の集団主義はどうしようもなく崩壊しつつある。「あんたも苦しいが私も苦しい、だからここはお互い我慢しよう」といった言葉がもはや通じなくなっている。選択と自己責任の原理にうったえるしか、収拾しようのない事態がつぎつぎに起こっている。そのなかで私たちは自己責任型の社会への移行を余儀なくされている。
 しかし、だからこそ、はっきり見定めなければならないことがある。それは選択と自己責任の臨界点である。一体どこまでが一人一人の選択し責任をとれる範囲なのか──それをなるべく多くの人々が納得できる形で決めなければ、いずれ必ず信頼崩壊を起こす。責任をとれないことまで責任をとらされれば、責任という観念自体が信じられなくなるからだ。
 自分で決める社会というのは、自分では何が決められないかを正しく決める必要がある社会なのである。
(太字は引用者による。原文では傍点。)

▼かつて日本は「一億総中流社会」と言われていました。戦後の荒廃した状態から復活し,高度経済成長期を経て一時期はアメリカに次いで世界第2位の経済大国にまでなったのですから,「上流階級」とまでは言えないまでも,多くの人々が「そこそこ豊か,中くらい」の生活感覚を持っていたということです。また,「一億総中流社会」とは「出自に関係なく努力すれば自分の才能次第で上流に入れる社会」でもありました。「親が普通のサラリーマンでも,子どもは頑張って『良い学校』に入り,『一流の会社』に勤めたり『エリート』になれる」という物語がまことしやかに信じられていました。

▼しかし,佐藤氏は,統計を用いて,戦後の日本が実は戦前よりも「格差社会」であるということを明らかにしました。佐藤氏が注目したのは「職業の継承率」です。もちろん,今の世の中は世襲制ではありません。サラリーマンの子どもに生まれたらサラリーマンにならなくてはならない,ということはありません。江戸時代の日本やインドのカースト制などは「生まれで大部分が決まってしまう社会」,つまり「努力しても仕方がない社会」ですが,日本では憲法でも職業選択の自由は保障されていますから「努力すれば上に行ける」はずです。佐藤氏の言葉で言えば,前者は「閉じた社会」,後者は「開かれた社会」となります。

▼では,日本は本当に「開かれた社会」なのでしょうか?佐藤氏は「社会階層と社会移動全国調査」(SSM調査)のデータを用いて分析した結果,次のように述べています。

 全体的な流れとしては、日本社会は六〇年代後半から八〇年代前半までは次第に開かれていったが、八〇年代後半以降、逆に閉じつつある。世代間移動は二〇~三〇年の長い時間をかけて起こる出来事なので、単純に時代時代とむすびつけるのはあぶないが、私たちの生活実感とあわせて、あえて大まかにいえば、そういっていいだろう。

▼団塊の世代(1946年~1947年生まれの世代)までは,いわゆる「エリート」とされるW雇上(ホワイトカラー/被雇用者/上層)になれる機会は「開かれて」いました。しかし,その後,その機会は次第に閉ざされていきました。それは,「ある年齢の人がW雇上なら,親もそれと同じ年齢のときにW雇上だった」率が高かった,というデータから明らかになったことです。たとえば,40歳で一部上場企業の部長になっている人は,親もその年齢で同じような地位についていた,ということになります。もちろん,本人はそんなことは全く意識していません。親がエリートだから自分もエリートになった,と考えているわけではありません。しかし,そこに「自己責任社会」という無責任な社会への入口が待ち構えています。

 くり返すが、差がつくことがわるいわけではない。本人が汗水ながした成果でそうなるのなら、一定水準の社会保障さえあれば、どんなに大金持ちができても一向にかまわないと私は思う。
 だが、現状はそうではない。親も高学歴の専門職・管理職で本人も高学歴の「相続者」たちが、自分の成果をみずからの「実績」とみなす。みずからの力によらないものまで、みずからの「実績」にしてしまうのだ。それは、人生の選択という経験の希薄化とあいまって、「実績」というコトバの意味を曖昧にし、空虚にしていく。
 W雇上の家庭に生まれ、W雇上になるのがあたりまえという雰囲気のなかで育つことで、何をやりたいのかという目的意識を欠いたまま、曖昧な形で選抜競争を勝ち抜き、「実績」をつくる。それでも、W雇上の家庭にうまれたという有利さによって、競争には勝ち残りやすい。勝ち残ること自体が目的となっていても、勝ち残ったという点では手に入れたものだから、得た地位に対する権利意識は強い。さらに、選抜システムの「洗浄」効果(第二章)によって、他の人の目からも正当な権利のように映る。
 その結果、「実績」は、何かができるはずだという責任をともなう資格という意味をうしない、たんなる既得権へと変質していく。いわば、W雇上の家庭にうまれたという既得権によって「実績」をつみ、そうすることで、その「実績」自体もまた既得権化してしまうのだ
(太字は引用者による)

▼自分の今の地位を支えてくれた背景,つまり「W雇上の家庭に生まれた」という事実を無視して「自分がエリートになれたのは,自分が努力した正当な結果だ。だから,エリートになれないやつは努力が足りない。自己責任だ」と考えてしまう,ということです。さらに,頑張ってW雇上に入れたとしても,親がW雇上であったか否かによっても,収入に格差が生じていることも佐藤氏は指摘しました。つまり,W雇上の中で「階級化」が生じている,ということです。

 「努力すればナントカなる」社会から「努力してもしかたがない」社会へ,そして「努力をする気になれない」社会へ―。
 現在の日本はそういう転換を,それもかなり急激な形で経験しつつある。社会福祉のしくみが急激な人口減によって根底から揺さぶられているのと同じように,基礎的平等化による開放性に依存していた産業社会や選抜システムが,W雇上の階級化によって根底から大きくゆさぶられている。W雇上の階級化が今後どうなっていくのかは,2005年の第六回SSM調査をまって判断するしかないが,私たちの目の前に新たな不平等の問題が出現しつつあることは確かである。

【2】「がんばってもどうにもならない」のは自分に責任があるのか?

▼この本が出されたのは今から20年前,2000年のことです。当時はまだ「がんばればなんとかなるんじゃね?」という空気が残っていて,「日本は格差の大きな階級社会ではなく中流社会だ」という「神話」も信じられていました。しかし,その頃,佐藤氏だけでなく他の社会学者や経済学者たちも「日本は格差社会だ」という指摘をし始めています。その意味では,佐藤氏の研究は非常に画期的なものの一つであった,と言えます。また,当時,研究者がそう指摘し始めたということは,それ以前から既にその傾向が始まっていたということですが,人々は「茹でガエル」のように,自分がその中にいることには気が付いていなかった,ということでもあります。

▼この本が出されてからの20年の間にも日本社会は大きく変化し続けてきました。2003年3月に小泉純一郎内閣の下で労働者派遣法が改正され,それまで禁止されていた製造業・医療業務への派遣が解禁されたこと,2007年末から2009年にかけてアメリカで起きたサブプライム住宅ローン危機とリーマン・ショック,2011年3月11日の東日本大震災…「失われた10年」が「失われた20年」になり,「失われた30年」へと入りつつあります。

▼そうした中で「生きることは自己責任」としたり顔で主張するのは不誠実と言わざるを得ません。冒頭で引用した佐藤氏の〈責任をとれないことまで責任をとらされれば、責任という観念自体が信じられなくなるからだ。自分で決める社会というのは、自分では何が決められないかを正しく決める必要がある社会なのである〉ということばは,まさにそうした「自己責任社会」への批判となっています。もちろん,自己責任という考え方を完全に否定しているのではありません。そうではなく,佐藤氏の言うように「責任をとれないことまで責任をとらされる」ことが問題なのです。いわば今の日本は「アンバランスな自己責任社会」なのです。

【3】バランスのとれた自己責任社会の実現と入試制度

▼バランスのとれた自己責任社会の実現のためにまず必要なことは,「機会の平等」を確実に社会が保障できるようにすることにほかなりません。先日,「最後のセンター試験」が終わりました。2021年1月には「共通テスト」と名前を変えて統一試験が行われる予定です。そして,そこに至る過程で大きな問題となったのが「英語の問題を大学入試センターが作成するのではなく,民間の英語検定試験を代わりに導入する」ことと「国語・数学に記述式問題を導入する」という方針でした。

▼前者については,大学入試の出願料とは別に高額な検定試験料を支払わねばならず,また,受験会場が限られる地方の受験生は,共通テスト以外の試験を受験するために交通費や宿泊費を負担してまで受験しに行かねばなりません。さらに,民間の検定試験は受験が2回まで認められていますが,経済的理由でたとえ1回でも受験するのが困難な受験生と,裕福で2回受験できる受験生とでは差がつきます。これはいわば,「機会の平等の縮小」にほかならず,そうした「公平性」の問題が指摘されたことで,2019年11月に急遽,「延期」が決定されました(実際にはもっと複雑で多様な問題を含んでいます)。

▼後者については,50万人規模の試験で「短期間に,完全に公平な採点」を行うことが技術的に不可能であり,かつ,特定の企業への利益誘導も指摘されたことで,これもやはり2019年12月に「延期」が決定されました(そもそも「記述式問題」は国公立大学が二次試験で出題しているので,一次試験でそれを課す意味は全くないのです)。

▼また,ここ数年は私立大学の医学部で「女子,多浪生への不利な扱い」も明らかになり,大学入試が「純粋に自分の実力だけで勝負できる世界」ではないことが明らかになってきました。受験生からすれば,自分の実力以外の所で妨げとなる複数の要素が絡んできます。佐藤氏の言葉を借りれば「責任のとれないことまで責任をとらされる」と言えます。そうした中で「合否は自己責任」などと言うことはできません。

▼「きれいごと」と非難もされるかもしれませんが,そうした「雑音」を一切排除し,受験生が純粋に自らの力で合否を決定できる場を提供することこそ,正しい「自己責任社会」への道のりの一つと言えるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?