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舞台 「恭しき娼婦」 観劇レビュー 2022/06/04

【写真引用元】
TBSテレビTwitterアカウント
https://twitter.com/tbs_ticket/status/1515617310526087179/photo/1


公演タイトル:「恭しき娼婦」
劇場:紀伊國屋ホール
企画:TBSテレビ
作:ジャン=ポール・サルトル
翻訳:岩切正一郎
演出:栗山民也
出演:奈緒、風間俊介、野坂弘、椎名一浩、小谷俊輔、金子由之
公演期間:6/4〜6/19(東京)、6/25〜6/26(兵庫)、6/30(愛知)
上演時間:約105分
作品キーワード:人種差別、不条理、社会格差、ラブストーリー
個人満足度:★★★★★★★★☆☆


実存主義で知られるフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが書いた戯曲を、日本を代表する演出家栗山民也さんによる演出で上演された公演を観劇。
サルトルが書いた作品に触れること自体は舞台観劇だけでなく小説を含めて初めてであり、栗山民也さんの演出作品は「彼女を笑う人がいても」に続き2度目。

舞台はアメリカ南部、リジィー(奈緒)という白人の娼婦の元へ無罪の罪を着させられた黒人がやってくる。
リジィーは黒人を匿うが、その後フレッド(風間俊介)という由緒正しい白人の青年がリジィーの元にやってくる。
フレッドはリジィーに以前匿った黒人にレイプされたという虚偽の証言をさせようと迫ってくる。
リジィーはどんなに貧しく見窄らしい人生を送っていても、嘘をつくことだけはせずに素直に生きてきた。白人の言うことを聞いて義務を果たすのか、黒人を救って正義を貫くのか、苦渋の選択を強いられる恭しき娼婦の物語である。

不勉強な私にとって、サルトルという哲学者がアメリカの人種差別に言及する小説を書いていたこと自体意外に感じてしまったのだが、考えてみれば人種差別問題というものは非常に不条理極まりない問題だということを再認識させられた。

勿論、戯曲としても非常に見応えのある舞台作品だったのだが、私が特に惹かれたのは栗山さんが創り出す舞台空間と奈緒さんの力強い演技に圧倒された。
やはり栗山さんは演出家として素晴らしかったことを再認識させられた舞台美術、特にリジィーが暮らす部屋の再現度の高さ、縦に長い外窓、ベッド、そして旧式の掃除機という何から何まで完璧なセットと、窓から差し込む夕日や月明かりが非常に美しかった。
またシーン中にときどきかかる不穏な音楽、もうセンスの塊といってよいほど贅沢な舞台空間に満喫した。
内容は全く違うけれど映画「レオン」を想起させる空間が私にとっては好奇心を物凄く掻き立てられた。

さらにリジィーを演じる奈緒さんの貧しく見窄らしいけれど非常にピュアで誠実で力強い演技に心奪われた。決してストーリー展開は激しくなく、ひたすら同じ人物との会話が続いていくのだが全く飽きさせないのが驚き。
それだけ彼女が演じる役には人々を魅了し続ける魅力があったのだろう。ずっと惹き付けられっぱなしで素晴らしかった。

脚本、舞台空間、演技、全てが見応えのあるハイレベルな舞台作品。
多くの人々に観て頂きたい傑作。

【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/480143/1833179


↓ジャン=ポール・サルトル『恭しき娼婦』


【鑑賞動機】

昨年(2021年)12月に上演された「彼女を笑う人がいても」で初めて栗山民也さん演出作品を観て素晴らしいと感じたので、再び栗山さん演出の舞台作品を観劇したいと思っていたところへ、2020年3月に上演された玉田企画の「今が、オールタイムベスト」、昨年(2021年)5月に上演された倉持裕さん作演出の「DOORS」で好演だった奈緒さんがヒロインの今作が上演されるということだったので、迷わず観劇しようと決めた。
またフランスの哲学者サルトルの戯曲というのも、私は一度も触れたことなかったが興味はあったので観劇の決めての一つとなった。



【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ある日の朝、娼婦のリジィー(奈緒)はベッドから目が覚める。気持ちよさそうに伸びをして起きて、外窓から朝日を浴び、掃除機をかける。
その時、玄関のベルが鳴る。どうやらリジィーは奥の部屋に誰かを匿っているらしく、ずっとそこで隠れているように指図する。そして玄関に向かう。玄関のベルを鳴らしていたのは黒人(野坂弘)であり、その黒人がリジィーの部屋へ入ってくる。
黒人はリジィーに懇願する。黒人は白人から無罪の罪を着させられているから判事の元へ行って、彼が何も罪を起こしていないことを立証して欲しいと。しかしリジィーは判事の元へは行かないと言って、黒人を追い返す。

リジィーは黒人が去ったので出てきて良いと、奥の部屋で隠れている人に合図する。奥の部屋から白人の男フレッド(風間俊介)が出てくる(フレッドはまだリジィーに名前を教えていない)。
リジィーは非常に上機嫌だった。天気も良く、昨晩セックスもしてシャワーも浴びたから。リジィーはフレッドという白人に惚れていた。フレッドはとてもハンサム、顔立ちも良くてお金持ちである。お金持ちな男性は凄く信頼出来るとリジィーは言う。
リジィーの話では、昨晩フレッドがリジィーの元へ駆け込んで泊まりに来たのだと言う。おそらくフレッドはリジィーを娼婦だと思っていなかったのだろうか。フレッドが昨晩ベッドへ眠っているところへ、シャワーを浴びたばかりのリジィーが全裸で飛びついた。顔を赤らめたフレッドはそのままリジィーとセックスをした。
フレッドはずっとリジィーに対して冷たかった。そしてリジィーはフレッドが自分に一銭もくれないことに苛立っていた。フレッドは10ドルをリジィーにその場で渡す。リジィーは10ドルだけなのかとさらに苛立ちを見せる。

そこでフレッドが徐々にリジィーの元へやってきた目的について語り始める。
ウェブスターにいた黒人が白人の娼婦をレイプしたという噂が立っていた。レイプしたという事実の根拠はなかったが、フレッドのいとこであるトーマスは黒人を撃ち殺してしまう。もしその黒人がレイプしていなかったら、トーマスは確実に牢屋送りとなってしまう。
フレッドはリジィーにトーマスの写真を見せる。とても高貴でハンサムな白人の青年である。フレッドはこの整った高貴なトーマスを牢屋送りにして惨めな姿にしたくないと強く言う。黒人にあった娼婦というのはまさしくリジィー、だからリジィーは黒人からレイプされたと虚偽の証言をして欲しいとフレッドは依頼する。いとこのトーマスを救うために。
リジィーは彼女自身、ずっとみすぼらしく惨めな生活を送ってきたけれど、唯一彼女が誇れることは決して嘘をつかずに正直に生きてきたことだと語る。決して人を裏切ったり騙すようなことをしたことは一度もなかったのだと。だから決してトーマスという身分の高い白人のために嘘を付くようなことはしたくないのだと言う。

そこへリジィーの家へ、ジョン(椎名一浩)とジェイムズ(小谷俊輔)という2人の警官がやってくる。そしてリジィーに向かって紙とペンを渡し、黒人がリジィー自身に対してレイプされたことを認めるようサインするように求める。
リジィーは叫びながらサインなどしないと誓う。
しかしフレッドたちは、これにサインをしないとなるとハーバード大学を卒業して国の役人になったトーマスは獄中へ行き、2000人という彼の元に仕える部下たちの雇用も守れないのだと激しく要求する。

そこへフレッドの父であるクラーク上院議員(金子由之)がやってきて、警官たちに無理にサインを要求するでないと止める。ここにサインするかどうかはリジィー自身が決めるのだと上院議員は言う。
上院議員は、言葉巧みにリジィーがそこにサインしたとき、サインしなかったときにどういったメリットとデメリットがあるのかを論理的に伝える。リジィーは上院議員の言葉に圧倒されて混乱してくる。リジィーは「お話がお上手なのね」と上院議員をひたすらに褒める。
そしてリジィーはその言葉巧みな上院議員の言葉に乗せられて、黒人にレイプされたことを認め、サインしてしまう。そのサインを持って警官2人と上院議員、そしてフレッドは目的を果たせたと喜んで帰っていった。
夕方になり、リジィーはうなだれる。どうして自分はサインをしてしまったのだろうかと。

夜、リジィーが一人自分の部屋にいるところへクラーク上院議員がやってくる。クラークは妹(つまり、トーマスの母)からリジィーに対してお礼の封筒を預かっていると、リジィーに渡す。リジィーは封筒を開けると、そこには手紙が入っている訳でもなく、ただ100ドルが入れられていた。リジィーは泣き崩れる。なんて冷たい対応なのだと、これなら何か100ドル相当の何か品物を頂いた方が嬉しかったと答える。
リジィーはずっと嘘はつかず正直を貫いてきたのに、義務を果たすことによってただ金銭だけ受け取ることになった状況に耐えきれず泣き崩れた。

上院議員が去り、リジィーの元にずっと外窓に隠れていた黒人が入ってくる。
黒人は、どうやらこの街で黒人狩りが始まっていて、黒人が皆警官に殺される羽目になっているから匿ってくれとリジィーに懇願する。外からは頻繁に警官が放つ銃声音が響く。リジィーは、自分が黒人にレイプされたという虚偽の証言をしてサインしてしまい、それによって白人による黒人狩りが始まってしまったのだと正直に黒人に伝える。黒人はなぜそんなことをとリジィーの行動に驚く。
そこへ玄関のベルが鳴り響く。黒人は奥の部屋へ隠れる。リジィーは玄関へ向かうと、そこには警官であるジョンとジェイムズがいて、黒人はいないかと詮索しにやってきた。リジィーは黒人はいないと必死で彼らを追い返そうとする。そして警官を奥の部屋までは詮索させずになんとか追い返す。
黒人は奥の部屋から出てくるが、あまりの怖さにリジィーも黒人も2人で体を寄せ合ってうずくまる。
そこへまた玄関のベルが鳴り響く。リジィーはあまりの強さに叫び続ける。再び黒人は奥の部屋へ隠れる。今度リジィーの家にやってきたのはフレッドだった。フレッドは無理やりリジィーの部屋入ってきて、誰かを匿っているなと脅す。嘘をつくことが下手くそだったリジィーは、その怯え方で誰かを匿っていることが完全にフレッドにバレてしまう。しかしそれは今日の客であると嘘をつく。
黒人は結局耐え兼ねて奥の部屋から出てきてしまう。フレッドは黒人がリジィーの家にいるところを目の当たりにし、ピストルを黒人に向ける。そして発砲するが、敢えて床に発砲して黒人を逃がす。フレッドは逃げていく黒人を追いかけて発砲するが、結局弾は黒人にはあたらず逃してしまったようだった。

フレッドは、あの晩リジィーとセックスをしてから、どうしてもリジィーの体を忘れることは出来ず戻ってきたと告げる。フレッドはリジィーと一緒に暮らしたいと望む。リジィーはずっと貧しい暮らしをしてきたけれど、フレッドと暮せば裕福な暮らしが出来る。そしてフレッドがここで初めてリジィーに対して自分の名前を明かすところで物語は終了。

前半は非常に滑稽で穏やかな会話も多かったが、フレッドがリジィーに近づいた目的を明かしてから一気にストーリー進行は加速していって、終盤の銃声と緊張感は半端なく迫力があった。作品全体としても、緩急がついていてエンタメとしても十分楽しめる舞台作品だったのではないかと思う。
恭しき娼婦に迫る苦渋の選択、白人たちを救うのか黒人たちを救うのか、そんな不条理な選択を強いられるシチュエーションに強く胸を打たれてしびれた。非常に良く出来た脚本、さすがはサルトルの戯曲であった。
黒人差別の作品は映画などで数多く拝見しているけれど、これを舞台で観るとなるとまた違った迫力を感じた。非常に苦しくよく出来た脚本だった。

【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/480143/1833177


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

流石は栗山民也さんと思うばかりの、とてもハイセンスな舞台美術だった。舞台装置、舞台照明、舞台音響のセンスはもちろんのこと、この戯曲をこうやって舞台として見せるのかとつくづく関心した。かなり台詞だけが続くシーンも多いのだが、全く飽きさせない演出に栗山さんの演出家としての素晴らしさが非常に伝わってくる舞台だった。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていこうと思う。

まずは舞台装置から。
紀伊国屋ホールの舞台上一面がリジィーの部屋となっている。形状としては四角いのだが少し客席から観ると斜めに配置されている所がまたオシャレ。
舞台下手にはリジィーのベッドが置かれていて、物語の一番冒頭ではリジィーはそこで横になっていた。その奥、つまり下手奥側には縦長の外窓があり、いかにも窓とでもいうように観音開きの扉が付いている。この外窓はデハケにもなっている。
舞台中央にはソファーが置かれており、その前にはたしか机も置かれていた記憶。ここで警官2人とサインするしないのいざこざを起こしていた。そのソファーの奥には旧式の掃除機がドンと置かれている。
さらに、舞台中央奥には、玄関に通じるデハケがある。そこから警官やクラーク上院議員、黒人が登場する。扉はなく、ぽっかりデハケ口として存在していた。
舞台上手には、キャリーバッグが置かれていて、その隣には奥の部屋へ通じる締め切りの扉がある。そこにフレッドや黒人が隠れていた。
この舞台装置全体の質感としては、娼婦の部屋なので薄汚れた感じを出していたが、舞台照明が当たることによって何とも美しく映える不思議な舞台装置だった。舞台装置のクオリティはとんでもなく高かった。

次に舞台照明。こちらも本当にレベルの高い演出を体感したなという印象。
まず印象に残っているのは、序盤のシーンの朝日?日中?の照明。それから、リジィーがサインしてしまった後の夕日が窓から差し込む照明。そして夜間の月の光が窓から差し込む照明。
物語前半の日中の照明は、非常に明るく清々しく感じられて好きだった。リジィーも、天気が良くて、セックスもして、シャワーも浴びて良い気分みたいな台詞を言っていたと思うが、まさしくそんな彼女の心境を反映したかのような明るい照明が素敵だった。
そして特に印象に残ったのが、リジィーがサインをしてしまってからの窓から夕日が差し込む照明。シチュエーションとしては非常に暗いのだが、個人的には凄く綺麗な夕日に見えた。その夕日がリジィーを何倍にも美しく照らしているように感じられた。あのオレンジ色の美しい夕日、本当に綺麗だった。どんなに貧しい生活環境でも、夕日だけは平等に美しく感じられるのだななんて感じた。
夜のシーンの照明も上手かった。全体的にブルーで、おそらく外窓から月明かりの青白い照明が差し込んでいたような記憶。あの夜の感じも好きだった。舞台照明って、こうやって時間帯を上手く表現出来るから素晴らしいな。

次に舞台音響。
一番格好良かったのは、この舞台作品のテーマ曲とでも言わんばかりの不穏な感じの音楽が凄く良かった。若干、シーンの途中で音楽が急に切れるみたいな部分もあって気になったが、特に序盤にリジィーがベッドから起き上がるシーンで流れるこの音楽のセンスは抜群だと感じた。この音楽を聞いて、なぜか映画「レオン」を物凄く想起させられた。リジィー演じる奈緒さんが、非常にナタリー・ポートマンさんが演じるマチルダに見えてきた。
また、窓の外から聞こえる発砲音がなんとも良い。次第に嵐が近づいてきている感じを匂わせてくれる。そして、フレッドによる生の発砲音。迫力あった。舞台ではこういったシーンでは必ず生の発砲音が登場するが、自分はこういうのが好きでびっくりはするけれど生の舞台の良さを感じさせてくれる。
玄関のベルの音も凄く丁度よいレベルだった。「リリリリ」と鳴り響く感じがびっくりする。まるで嵐でもやってきたかのような恐怖に落とし込める感じが非常に演出として素晴らしい効果だった。



最後にその他演出について。
この戯曲はという話になるかもしれないが、特に序盤はフレッドとリジィーの2人だけの会話がかなり長い尺続いたり、リジィーとクラーク上院議員の2人の会話が長い尺続いたりと、なかなか台詞と役者の演技が素晴らしくないと見飽きてしまうようなシチュエーション非常に上手く演出していて素晴らしかった。例えば、フレッドとリジィーの2人の会話だと、リジィーが昨晩フレッドとセックスをした際のシチュエーションを語るシーンがあるが、あそこがなんとも生々しくて良くて、さらにリジィーの感情豊かな演技によってさらに見応えのあるシーンとなっていて素晴らしい。凄く飽きさせない演出に栗山さんの演出家としての腕を感じた。
次にあの旧式の掃除機の存在感が良かった。凄く大きくて目移りしてしまう掃除機なのだが、栗山さんは一体どういった目的で掃除機を入れたのか。戯曲にリジィーが掃除機をかけるというふうに書かれていたのだろうか。掃除機は紛れもなく部屋を掃除するもの、つまりクリーンにするものなので、それをリジィーが扱うことで彼女の正直さピュアさを際立たせたのだろうか。とにかく印象に残った。

【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/480143/1833178


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

6人しかキャストは登場せず、基本的には奈緒さんが演じるリジィーが登場するシーンがほとんどで、リジィーの存在感に圧倒される舞台だった。もちろん、リジィー以外の役を演じられていた方も素晴らしかった。特に私が注目した、奈緒さん、風間俊介さん、金子由之さんについて触れながら書き記したい。

まずは、リジィー役を演じた奈緒さん。奈緒さんの演技を観るということも今回の観劇の決めての一つ。奈緒さんは、2020年3月に玉田企画の「今が、オールタイムベスト」を観劇してから、2021年5月には倉持裕さん作演出の「DOORS」で拝見してと2度演技を拝見していて、今回が3度目の演技拝見となる。
正直今回拝見した奈緒さんの演技が個人的には一番良かったと感じている。リジィーという感情豊かだけれど非常に破天荒で気難しい娼婦の役ということで、さぞかし奈緒さんも役作りに苦戦されたんじゃないかと思う。そして105分間ほぼ登場しっぱなしという状況で、非常に難役をやりきっていたなと少々上から目線で恐縮だが素晴らしかった。
一番素晴らしいなと感じた点は、奈緒さんが見せる激しい喜怒哀楽の表情である。この激しい感情の起伏が豊かだからこそ彼女の演技を飽きずにずっと観ていられる。本当に隅々まで行き届いた役作りに感無量だった。
また、このリジィーというキャラクターは、貧しく見窄らしいけれど嘘をついたことがなくピュアで正直な娼婦である。彼女自身もそこを凄く誇らしげに語っていた。しかし、白人たちの思惑に巻き込まれてしまい、嘘をつかざるを得なくなる状況になり、それによって最後自分自身も良心が備わっているからこそ酷く傷つけられる。その傷つき方が、この感情豊かなリジィーなので、非常に痛々しく感じられて胸が苦しくなった。この発狂したくなる気持ち、物凄くガツーンと彼女が置かれた不条理な立場とその残酷さが伝わってくる。
本当にリジィーという女性は素晴らしく恭しい娼婦で魅力的だったし、そこを奈緒さんがしっかりと汲み取って表現することで、その彼女が抱え込んでいた苦しさを十分に観客に伝えられていたんじゃないかと思う。
奈緒さんは芝居を観れば観るほど全く違った表情を観せてくれるので、本当に素晴らしい舞台女優だなと感じる。また彼女の演技を観に行きたい。

次にフレッド役を演じた風間俊介さん。風間さんはジャニーズ事務所所属の俳優さんで、演技拝見は今回が初めて。
フレッドは生まれも育ちも良く、非常に高貴な男性である。そして非常に真面目でアメリカという国のために責務を全うしようとする男である。私個人はそんな設定を聞くと堅苦しくて敬遠するのかなと思っていたが、結構この役には好感が持てた。これはリジィーが語った魔法の言葉だったのかもしれないが、お金を持った男性は信頼出来るとかそういうことを聞いているとさぞフレッドも凄く良い男性のように思えてくる。それだけではなく、フレッド自身もいとこのトーマスを救おうと、そしてその理由も凄く説得力があって格好良く感じたからこそ彼に惹かれたのかもしれない。
風間さんはずっと低い声を出すという役作りをしながらフレッドという若くも威厳のあるエリート役人を演じていたように思える。その自分自身にかける負荷のようなセーブのような演技がなんとも素晴らしかった。
また恋愛的にも非常にピュアな点も良かった。リジィーの台詞から昨晩のリジィーとフレッドの関係性が伺えるが、フレッドが顔を赤らめるとか、そしてそのことを恥ずかしくも怒りながら否定する感じも凄くピュアな男性で好感が持てると思う。そして終盤ではやっぱりリジィーのことが忘れられず、セックスした時の感じが蘇ってきて彼女のことを好きになってしまうあたりも良かった。
風間さんだからこそ出せた演技がそこにはあったのではなかろうか。

最後に、クラーク上院議員役を演じた金子由之さん。金子さんは劇団昴に所属の俳優さんであり、演技を拝見するのは初めて。
まず初めて上院議員を観たときに、凄く高齢の白人のように観えたのがびっくり。日本人なのにあそこまで白人男性らしく感じられるのは素晴らしかった。
そして彼の独白はやや単調な感覚が否めなかったが、あのホヤホヤした感じは高齢だからこそだせるオーラというか感じがあって非常にはまり役だった。



【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、ジャン=ポール・サルトルが描いた「恭しき娼婦」の歴史的背景である黒人差別と、リジィーに降り掛かった不条理について考察していこいうと思う。

どうやら公演パンフレットを拝読するに、サルトルが今作で扱った黒人差別にはとある実際に起きた事件を元に描いているようである。それは、1931年にアラバマ州で起きた「スコッツボロ事件」である。「スコッツボロ事件」とは、9人の黒人青少年が列車内で白人女性を強姦した容疑で逮捕されたという事件であり、これは冤罪だったにも関わらず非常にずさんな裁判の上で黒人青少年たちに死刑判決が下されたのだという。これは歴史的にみても非常に人種差別として問題だと感じるだろう。
サルトルはフランスの哲学者・劇作家であるが、フランスもアフリカを植民地にして黒人と交流はあったものの、アメリカのように黒人差別は激しくなかった。それ故、サルトルがアメリカに渡って黒人差別の光景を見た時には非常に心打たれるものがあったのだろう。
黒人差別は今でも無くなってはいない、今でも黒人差別を題材にした映画、例えば近年だと「それでも夜は明ける」や「デトロイト」、「ドリーム」といった黒人差別を扱う映画は上映される。そういった差別はたしかに不条理で、こうやって劇場で上演される価値のある作品だと思う。

しかしこの作品の残酷な部分はそういった人種差別に留まった話ではないことだと思う。嘘を付くことがなく自由に素直に生きてきた娼婦リジィーが、この社会の不条理に飲み込まれていき、結果黒人を裏切る羽目になってしまったことがこの作品の中でも一番残酷な部分だろう。
「恭しい」とは辞書で調べると、「礼儀にかなって丁寧だ」という意味がある。リジィーのどんな側面が恭しいのだろうか。彼女は嘘偽りはなく感情のままに自由に生きてきた。しかし、そういった彼女の一面のことではなく、リジィーがフレッド一族に向けた、国家の命運を担う官僚たちに向けた感情なのかなと思っている。だから彼女は、クラーク上院議員の口車に乗せられて、彼らへの敬意を表すためにサインをしてしまったのかもしれない。リジィーがなぜクラークの口車に乗ってサインをしてしまったのかは、観劇していても個人的にしっかりと説明出来ないが、きっとこのタイトルから彼女は一つの敬意の現れとしてサインをしてしまったのではないかと解釈する。
しかし彼女がフレッドたち一族に払った恭しさは結局の所裏面に出る。だからこそ、この作品は不条理で且つ残酷なのである。

また残酷なのは、この戯曲がリジィー自身がサインしてしまうのも頷けるかのような、白人側にも黒人狩りをすべき大義名分がしっかりと描かれている点である。それは、トーマスという男の国家としての立ち位置である。彼の元には2000人ほどの雇用があって、彼が獄中へ入ってしまうと彼らの雇用も守れなくなってしまう。個人的にはそれを聞いてしまうと、サインする手も動いてしまう気がする。サインをしてもしてなくてもそれによって死ぬほどの思いをする人々は存在してしまう。
この苦渋の選択がまたこの戯曲の苦しい部分だなと感じていた。決してフレッドたち白人は悪い人間たちではない。もちろん、嘘を証言させるという点では誠実ではないが、誠実でいられない理由が存在するという不条理もここにはのしかかってくるなと感じていた。

たしかにこの戯曲には、人種差別という社会問題の他に社会的地位の格差という社会問題も内在しており、そこが絡み合うことによって生まれた不条理が横たわっている。
アメリカ国家vs黒人という人種差別、アメリカ国家vs娼婦という社会的地位の格差。この埋め合わせることの出来ないどうしようもない分断によってもたらされた悲劇によって生まれる、自由を全うできない残酷さと不条理。黒人にしろ、娼婦にしろ、どちらも社会的弱者という立場だからこそ、強者によって奪われた人権がそこにはあった。
サルトルが描いた容赦のない不条理は、こうやって今を生きる日本人にも深く心を動かされる普遍的なテーマであることが伝わってくる。



↓奈緒さん過去出演舞台


↓栗山民也さん演出舞台


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