見出し画像

映画 ドライブ・マイ・カー|Drive My Car は何を言っているのかを考えてみた

カンヌ国際映画祭で賞を取る映画は好きな映画が多いので、
今回も見ました。ドライブ・マイ・カー。

U-NEXTの配信で家のテレビで1回、映画館で1回見ました。今から書くことはその2回の視聴と、3人の友人との感想交換したあとの理解度合いで書いています。
今後、評論やレビューを読んだら解釈が変わるかもしれません。そうしたらまた追加で書いたりするかもしれません。


原作

原作は。村上春樹さんの短編小説「ドライブマイカー」。
「女のいない男たち」という短編小説集におさめられています。そのタイトルのとおり、何かの理由で女を失ってしまった男たちの短編で構成されている短編小説集です。

映画の構成ついて

これはカンヌ国際映画祭を受賞する映画の傾向なのではないかと思いますが、それぞれのシーンが何を意味しているか、すぐにはわからないことが多い。
また、各シーンが最後に向かって収束していくというよりは、各シーンがレイヤー(層)となって、全体のテーマ(だいたい複数)を構成していく。
村上春樹さんの小説を読んだことがある方は、まさにそんな感じなのではないかと思います。最後のシーンで感動的ですべての伏線が回収されるかというと、そうではない。でもそれぞれのシーンが詩的で熱い。

以下、あらすじをまとめてみる。ご覧になった方は飛ばしていただいて下の方へ。


あらすじ

家福(かふく;西島秀俊)は元俳優の演出家である。妻の音(おと;霧島れいか)は元女優で脚本家。妻は脚本のストーリーをいつもセックスの後に語る。ただ語った話は覚えていない。夫の家福は覚えていて、朝、妻に語り返してあげる。妻はメモをとって脚本にする。
家福は、戯曲のセリフを暗唱するため、妻が録音したテープを、自分の愛車(メインのモチーフになる赤い車)の中で通勤中に聞くのが日課だった。
二人は愛し合っていたし、お互いを必要としていた。ただ家福は、妻が他の複数の男性ともセックスをしていることを知っていた。しかし妻を失うことが一番怖かった家福は、そのことを聞くことはできないでいた。
ある日、家福が出勤する際に、音は家福が帰宅したら話したいことがあると言った。このままの関係がついに壊れるであろうことを恐れた家福は家に帰るのが深夜になる。帰ると、音は、くも膜下出血で亡くなっていた。

2年後、家福は広島の芸術祭に演劇の監督として呼ばれる。まだ妻をなくした傷や、妻が隠していたことを理解できなかった悔しさが、癒えていない。でも過去に自身も俳優をしたことがあった「アーニャ伯父さん」の講演に向けて、監督として熱心に取り組んだ。
この「アーニャ伯父さん」の劇に参加した演者の話す言語は、中国語や韓国手話など多岐にわたっていた。

オーディションに参加し、演者のひとりとなった男性に、高槻(岡田将生)がいた。彼は他の女性演者とセックスしてしまったり、すぐに人を殴ってしまったり、感情を外に出すことが多かった。
彼は、妻の音が脚本を書いたドラマに出演していたことがあった。音が高槻に語ったというストーリーを、家福に話す。その会話から、家福は、高槻も音に恋をしていたということがわかる。

芸術祭の専属ドライバーとして、渡利みさき(三浦透子)が配属される。だが家福は愛車をとても気にっていて、運転しながら妻の声を録音した戯曲のカセットテープを聴くという習慣を壊されたくなかったので、運転は自分でしたいとかたくなに言う。しかし渡利みさきのテストドライブでその運転のうまさをみとめ、ドライバーをまかせることになる。
彼女が運転が上手いのには理由があった。母を送り迎えする際に、母が寝ているのを起こすと母に暴力を振るわれた。そのため工夫して運転した。母は運転を教えるのがうまかったこともあった。

芸術祭に向けての演劇の練習が進む中で、さまざまな出会い、渡利みさきや高槻との会話が重ねられていく。その過程で、家福は、音が死んでから受け入れられなかった音の姿や自分の在り方を、見つけ、変えていくのだった。(あらすじ終わり(エネルギー切れた…))


感想やよしあしはたぶん人による

まず、この映画は人によって感想が大きく違うと思う。そして鑑賞者によって作品の理解が異なり、それも含めて作品であると思う。

例えば、この映画の重要なテーマは、他者に「ゆだねる」ことであると思うのだが、とある友人にこの映画を観た後に「ゆだねる」について聞いてみたところ、仕事でも私生活でも他人に「ゆだねる」ことを常にしていて、「ゆだねる」ことの怖さがわからないという。普通は「ゆだねる」ということは簡単にできることがではない。自分の大切なものを差し出すことは、それが相手にどう扱われるかわからないという怖さがあるから。
なので、「ゆだねる」ことがその観賞者にとってどういうことなのかによって、この映画の感想が変わると思っている。

ゆだねる

映画の中では、前半の家福は、「ゆだねる」ということをしたがらない。大切な愛車をドライバーに運転させるということさせたがらない。妻の音との思い出を誰かに語り預けることで、理解を深めようなどということはもちろんしない。
対して、自分の気持ちを相手にぶつける(ゆだねる)ことのできる高槻という人物が登場してくる。対照的な構図なのだと思う。高槻は、「ゆだねる」「差し出す」ことしかしていない人物。自分で言っている。「ぼくは、からっぽなんです」。家福もこう言っている。「君は、自分を上手にコントロールできない。」「社会人としては失格だ。でも役者としては必ずしもそうじゃない。」「君は相手役に自分を差し出すことができる。」

家福がみずから言っている。「自分を差し出して、テキストに答える」「テキストが君に問いかけてる。それを聞き取ってこたえれば、きみにも『それ』は起こる。」。ふだん自分たちは普段自分のことを差し出さない。だからかえってもこない。

家福は、みさきや高槻や演劇祭の過程で他者と会話したり演劇を構築していくことをゆっくりと繰り返す中で、自分を開いていっているようだ。

最後のシーン。みさきが韓国のスーバーで物を買い、犬しか乗っていない車で何もない道を走るシーン。これは何を表しているのかと言うとこう想像した。家福は車本体もゆだねてしまった。ゆだねられたということ。みさきは自分の意思で車を動かせる状態になったということ。北海道から広島にきて、さらに新しい土地、韓国に来たということ。

次のテーマ。

大切な相手の心は、そっくりのぞき込めるか。のぞき込みたいか。

私は個人的には、好きな人や自分の利害に関係のある人だったらのぞき込みたい。
わたしたちは、Wantの感情で相手のこころを知りたいと思う。自分が望むように行動してほしいと思う。相手にわからないところがあるのはあるべき姿ではないように思う。理解しなければいけないと思う。ただ理解しようとしているつもりで、実はある部分から逃げていることがある。自分の思い通りに行動してくれないとイライラする。なぜ自分の彼氏は稼いでないのか、なぜユーモアのセンスがないのか、イライラする。そしてそんなことをかんがえている自分にイライラする。
そんな私(達?)の代表が家福だと思う。
家福は言う。「彼女の中に僕の覗き込むことができないどすぐろいうずみたいな場所があった。」

高槻はこう返す。「どれだけ理解し合っているはずの相手でも どれだけ愛している相手でも 他人の心をそっくり覗き込むなんて無理です。」

「でもそれが自分自身の心なら努力次第でしっかりと覗き込むことはできるはずです。結局のところ僕らがやらなくちゃいけないことは、自分の心と上手に庄司に折り合いをつけていくことではないでしょうか。本当に他人を見たいと思うなら、自分自信を深く、真っ直ぐ見つめるしかないのです。ぼくはそう思います。」

最後の方の雪の中でのシーンでみさきがこのようなことを言う。

家福さんは音さんのこと音さんのその全てを本当をとしてとらえることは難しいですか。音さんにはなんの謎もないんじゃないですか。

家福をこころから愛したこと。他の男性を限りなく求めたことも、なんの矛盾もないように私には思えるんです。おかしいですか。

『ドライブ・マイ・カー』より

家福は気づく。「ぼくは正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。僕は深く傷ついていた。」

「でも、だから、それを見ないふりをし続けた。自分自身に耳をかたむけなかった。だから僕は音を失ってしまった。永遠に。いまわかった。」

家福はそれまで、もやもやの中でずっと暮らしていた。音が自分に隠し事をしていたこと。彼女は何を考えていたのかずっと知りたかった。彼女が死んだ後も彼女を自分のものにしておきたかった。でも、それは生前の彼女のありようを、認められていなかったということでもあったのだと思う。その「ほんとう」、ありのままを認めることを、みさきが雪の中で問いかける。私はこのセリフが多分一番好きです。

最後に

ささいな話だが、家福が生前の彼女をそのまま執拗にとどめておいているという姿を描くメタファーだなと思ったのが、カセットテープの録音。音は映画の最初から20%くらいのところで亡くなるが、その後ずっとカセットテープあるいは戯曲のセリフが出てくる。音の生前の口調が台本のようであるのは、テープのセリフのリズムと合わせるためなのかと思った。これによって、音は映画の最初の方に死んだにもかかわらず、映画の後ろの方まで存在しているようにかんじる。家福が感じようと執拗に幽霊を自分にしばりつけているようだ。また、テープのリズムのとおり、家福は変わらないままでありつづけている。受け止められずにそのままの状態で生き続けているだけであるというメタファーでもあるのかもしれない。

大好きな映画なんだと思います。2回目に見た時に、今からここでこのセリフを言う、ということを覚えているくらいでした。
心の中は覗ききれない。けど「ほんとう」を受け入れて生きていくという主題(だと勝手に思った)がとてもぐっときました。自分と、大切な相手。どのように捉え、向き合い、受け入れていくのかということをすごく大事に描かれていると思いました。


(備考)
・上記は全て個人の感想です。正確な映画の内容やプロの方による解説は、そちらをご覧ください。
・上にも書かせていただきましたが正確なセリフは確認中です。申し訳ございませんがお時間ください。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?