学びの楽しさは学校の外側にあるのだと思う
今回は勉強とか学びの話をしたい。
自分の人生を振り返ると、小学校、中学校、高校、大学、短大、専門学校、(塾も?)などの、いわゆる学校と名がつくところに行かなくなってからの方が、学習意欲が高まった印象を受けている。
最後に「学校を卒業」してから20年くらい経過した。
最後に卒業を迎えたときは、本当に嬉しかった。
あの嬉しさは何から来ていたのだろう。
仲間とのお別れに、先生とのお別れに涙する級友もいたが、その涙の意味は私にはわからなかった。
「これで学校に行かなくて済む」
「これで社会人になれる」
「学校の勉強から解放される」
その喜びの方が私には大きかった。
「卒業しても、社会に出ても、勉強は続きます」と、先生は仰っていた。
それはそうでしょう、技術職なのですから、医療職なのですから、と、わかった顔をしてはいたけど、とにかく学校の勉強から解放される喜びは大きかった。
勉強自体は嫌いではなかったと思う。
小学校、中学校、高校、短期大学、とそこそこの成績を収めていた。
6年+3年+3年+3年の計15年間は授業と試験の繰り返しだった。
常に試されていたのだ。
学校側の設定する学力が身についているかをチェックされていたのだ。
それがどうにも息苦しかったし、楽しくはなかった。
先生と呼ばれる人だって、なんでも知っているわけではない。
ある分野について多少は詳しいのかもしれないけど、先生自体が道半ばなはずだ。
その状況の先生に、私の学力を測られ、そのスコアを持って「私を評価する」その仕組みが気分良くなかった。
まあ、そんな大きな仕組みに牙を向いたところで、なんにもならない。
それは、どこかのタイミングで学んだ。
なので、さっさとその仕組みから抜け出す方法を考えた。
もっとも手っ取り早いのは、「教わる」のをやめることだ。しかし、その選択を私はできなかった。
当時の私は「教わることでしか学べない」と思っていたからだ。(そりゃあ、苦しむわけだ)
なので、「指定された期間をやり過ごせばいい」を選択することにした。
私にとって卒業とは「仕組みからの解放」の意味が最も大きい。
何かを習得できたとか、何かを認めてもらえた、という喜びもゼロではないのだろうけど、「仕組みからの解放」が最も大きい。
さて、仕組みから解放された私は、社会に出てどうなったか。
「積極的な学習」に切り替わるまで、少々の時間が必要だった。
15年の間、「学校教育」に浸かりきっていたのだ、仕方ない。
切り替わりに何が必要だったか?学校教育と社会に出た後の勉強の違いは何か?それは明確だ。
「自ら問いを立て、解決に向けた道筋を準備できるかどうか」だ。
学校教育では、「問題」を与えられる。「解き方」を教わる。
学校の仕組みから出て自由になると、それがない。
だから、学習の場面では自分で疑問を見つけ、その解決方法を探さないといけない。
そこに気づくまで、少し時間を要した。
しかし、そこに気づけた時に私に起きた変化は大きかった。
学習が楽しいのだ。
学校生活の時よりもずっと、学習が楽しいのだ。
自分が興味を持ったこと、自分が疑問に思ったことを、自由にテーマにできる。
解決方法を調べていってもいいし、ほったらかしにしてもいい。
論文の形にしてもいい、まとめなくてもいい。(私はnoteなどに記録している)
とにかく自由なのだ。
学習がこんなに楽しいものとは、学生時代には体験できなかった。
学生時代は、試験の点数くらいでしか興奮はなかった。
それが、学校教育の仕組みじゃない勉強を経験したら、学習が楽しくて仕方ない。
学校に入学して、先生と生徒の関係にならなくても、学ぶことができるという発見は大きかった。
インターネットで検索をすれば、論文を探し出すことができる。PDF形式でダウンロードもできる。
図書館に行けば、専門的で高価な本で調べられる。
YouTubeで講義(のようなものも含む)を視聴することもできる。
自分の意思と時間次第で、どこまでも学習対象を広げられたし、自分の好みで解決方法も選べた。
先生がいれば、「最適解への近道」を導いてくれるかもしれない。
でも、別に失敗とか間違った知識を身につけてもかまわないじゃないか。試験されてるわけでもないし。
私は学校教育から離れたことで、「知りたいことを気の済むまで追いかける」楽しさを覚えた。
途中で投げ出しても、誰も文句を言わない。
誰もが知っているようなことを、改めて調べていても、誰からも何も言われない。
少しも他人に焦点が向かないのだ。
自分だけ。
自分が楽しいかどうか、それだけ。
だから、学習が楽しいと思えたのだろう。
まあ15年間の学校教育のおかげで、調べ方とまとめ方、疑問の持ち方、とかは学べた気もする。
学校がなかったら計算も読み書きもおぼつかなかっただろう。
全くのゼロでは、楽しく学べるようにはならなかっただろう。
学校が無意味とは言わない。
でも、15年(4年制大学なら16年)もいらない気がするし、血眼になって受験するほどでもない気もする。学習はどこでもできるし、1人でも可能だから。
受験に失敗して人生ドロップアウトみたいなのも変だと思う。(個々の思い入れはあるだろうから本人の立場じゃないと見えないものもあるのだろうけど…)
受験は人生と同義語じゃないから。
たぶんだけど、1人で学べない人にとっては学校という装置は役に立つと思う。
だから装置としての学校は有用だと思う。
でも、仕組みとしては、あってもなくてもどっちでもいいような気もする。
学校に通える人が優秀で、学校に行かない人はそうでもない、みたいなのは変だ。これは解釈の問題だ。
なんというか、先生や大人の皆さんには、子供に向けて「広い世界」を伝えてもらえたらな、と思う。
学校なんて早く卒業して、「楽しい自分の学習」と出会おう、と教えて欲しい。
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