見出し画像

【読書感想文】『わかりあえないことから』『演劇入門』平田オリザ

 コロナ禍の約二年間、大阪のライター学校に通っていた。やっと温めていた新事業・キッチンカーが動き出し、忙しくなって一旦”自主卒業”したものの、文藝の世界を垣間見れたのはよき経験〜

 僕はどうやら(錆付いた言葉かもしれないが)『生涯学習』というものが好きなようで。何歳になっても学びたいものは、学びたい。

 各地にあるNHKカルチャーセンターみたいなもの。華道・茶道・音楽・舞踊・書道…若い時はこんなとこ誰が通うんだ?と思っていたけれど、今はものすごく通いたい(笑)。

 『学び』のメリットは知識や技術が増えるそれ自体にもあるが、(日本の場合、そういうところは余生を楽しむ世代が多いので)行けば四十近い自分が「最年少!」とチヤホヤされる。わざわざ教室に行って何かを学びたい人達なので多感な人達も多く「若い意見聞かせて!」と。若返れますよ(笑)


■学びへのアクセス

 僕が住んでいたドイツでは「大学が無料」なのは有名な話だが、こうした”市民文化センター”みたいな公的機関も基本は無料もしくはものすごく安い。(一回10~20ユーロとか。絵の具代などの原材料費程度。)

 しかもそれは「パソコン教室」や「マネジメント学」などの"Hello-Work!!"的な職業訓練的・実学的なものだけでなく、文化的なことも公的費用(つまり税金)で学べる。年齢制限もない。外国人もウェルカム。

 例えばダンス、音楽、アート、哲学、文学、演劇、テキスタイル……こうした様々な学びへのアクセスが近いのは今でも非常に羨ましい。僕がドイツで得た大切なことのひとつに「いくつになってもやりたいこと(学びたいこと)があるなら始めてみればいい」ということである。

※久々にベルリン市の市民文化センター的な【Volkshochschule(直訳「市民高度学校」)】のサイトを見た。懐かしい。ベルリン市に限らずドイツ国内の各自治体にこのolkshochshule(ちなみに発音は「フォルクスホッホシューレ」)はある。そこに予算をつける行政や市民感覚に欧州人の心の余裕というか、豊かさを感じる。日本ならきっと「暇人にダンスを教える税金があるなら、このあぜ道を潰して道路を作れ」となりそうなところ。


■なぜこの作品はヒットしたのか?~魔女の宅急便~

 話を戻す。そんなライター学校で様々な本を紹介された。平田オリザ氏もその著者のひとり。

 「劇作家・演出家」という肩書の彼。最初に読んだ『演劇入門』はまさに劇作家らしい一冊だが、演劇に興味のない人でも、この本を読んでから映画や小説に浸ると、自分の中にエンタテインメントを鑑賞する上での『新たな視点』が加えられるかもしれない。

 『新たな視点』とは?

 平田オリザを紹介してくれた先生が「スタジオジブリの『魔女の宅急便』はなぜよくできているのか?それは、主人公キキだけでなく、お父さん・お母さんなど様々な脇役の設定・描写もすばらしいし、その”場面構成”がすばらしい」と語ってくれた。

例えば序盤。キキが旅立つ前日、、、

□部屋でひとり、旅の準備をするキキ=『一人暮らしにわくわくするあどけない少女の姿』

□お母さんが入ってきて、魔女の黒い服についてやいやい言う=『女同士の会話』

□お母さんが去り、お父さんが入ってきて、キキがラジオをせがむ=『娘と父の会話』

□ところどころでジジがぶつくさ言う=『第三者の視点』

…このわずか数分の間に、プロローグとして必要な「キキを取り巻く状況説明」を見事に描いていると同時に、父・母・第三者からの”同感”を得られるような舞台装置が完全に成っている。結果、キキのような主人公世代の女の子たちの共感はもちろんのこと、母親世代からも「うんうん、わかる」となり、父親世代からは「そういうこと、あるある」となるし、キキの浮かれ気分に共感できない”斜め読み”の人種からも「キキはトンチンカンのお花畑だけど、ジジのリアリズムは好き」となる。様々な共感を呼び込めるようにちゃんと計算されている。

学校の先生は更に「これが、例えばリビングで三人(プラス一匹)一同に集まって会話していたのでは全然違う。男がいる前での女同士の会話は深みがないし、父親と娘の会話に母がいるのも邪魔くさい。もちろん”あえてそうする”のも一つの手だ。」と。

 いい映画にはちゃんとこうしたタネも仕掛けもある。観賞したあとに「あー、よかった」だけでなく、「なぜこのエンタメ(小説でも映画でもドラマでもなんでも)に私は共感したのか?なぜ世間に広く支持されたのか?」を深読みするための『視点』(ヒント)を与えてくれる入門書。


■日本人は本当に「コミュニケーション能力」が低いのか?

 そんなオリザ氏が「コミュニケーション能力」について書いたのが『わかりあえないことから』


 「就職で重視する項目:コミュニケーション能力」 

 などと言葉が踊っているわりに、「コミュニケーション」に切り込んで語れる人は少ない。それを評価する人事部も然り。テキトーに「この子は口数が少ないからコミュニケーション能力がない」と評価してるのが現状。(「口数が少ない=コミュ力がない」ではない。)この本はそんな現代が抱える「コミュニケーション問題」を彼なりに紐解いてくれる。
 ちなみに日本人という民族がコミュニケーション能力が低いという先天的なものでも全くない。では「コミュニケーション」とは?


◎「話さない」「参加しない」というコミュニケーションの方法もアリ👍

仕事でもそう、学校でもそう。何か新しいことを言った人、アイデアマンみたいな人が注目され評価される。もしくは空気を読んで場をまわせる人、調整役みたいな人が評価される。


ただ、まったく意見も出さず、意見を調整することもしない、場がまとまりかけた時に、「ねえ、それって最初の目的・ゴールじゃなくない?」と急にテーブルひっくり返す奴。

イラっとする。けど、彼はちゃんと話のロジックを組み立て、最後ナァナァになりかけていた議題をもう一度ピリッとさせることができたのかもしれないし、なんなら目的遂行に誰よりもまっすぐなのかもしれない。


もしくはそもそもその場にいない奴(笑)。遅刻してくる奴。

でもそれは、大げさに言えば「ボイコット」というコミュニケーションかもしれないし、「この会議は意味がないから遅れてもいい。てかテメ―ら何してんの?」という意見を”会話せずとも”出しているのかもしれない。人間との会議は学びがない、自分はフィールドワークだと、現場で泥だらけになって虫達や木々と"対話"しているかもしれない。


決してアイデアを出すこと、場を回すこと、迷惑をかけないことだけが、コミュニケーションじゃない。方法論として。

平田オリザ氏はあくまで劇作家なので、こうしたコミュニケーション表現も全然アリ!みたいなこと書いてあるけど、それは、そうした「寡黙な奴」「遅れる奴」「そもそもその場に来ない奴」がいたほうが”劇”としても面白いというのはあるかもしれないし、生きている現実としての『多様性』も推奨しているというのもあると思う。


学校教育の場でいえば発表会で『スイミー』の演劇をするとしよう。棒読みでもセリフを一言一句間違えずに言える記憶のいいスイミー役が今の日本の教育ではマル(優等生)となるかもしれないが、それこそつまらない。

セリフのない配役(例えば「ワカメ」だとしよう)はそもそも”ハズレ”のように扱われがちだが、その”ワカメ”が何も言わずとも、アンニュイな表情で、スイミーや魚たちのそばを漂っていってたら、それはその場においてものすごい存在感、アクセント、”色気”になるかもしれない。

観客は言う。「途中からワカメが気になって、スイミーのセリフが全然入ってこなかった(笑)」と。

コミュニケーションとは「表現」。”口数だけで評価する族”からすると日本のコミュニケーション能力は低いと言いたいのかもしれないが、口数が少なくても他の表現方法・コミュ力を持っている人を発掘、評価、育てていかないと、日本はますます画一的でつまらない社会になっていく。てか今そうなってる。


■「コンテクスト」からコミュニケーションを紐解く

 平田オリザはよく「コンテクスト」(context直訳:文脈/脈絡)という言葉を使う。

 例えば「電子レンジ」のことを、まじめなAさんは「電子レンジ」と言い、せっかちBさんは「レンジ」と言い、主婦Cさんは「チン」と言い、老婆Dさんは「あっため」と言う。対象物はすべて同じ。

 また、太郎さんが「絆創膏」と呼ぶものを、志穂さんは「カットバン」と呼び、恵美さんは「サビオ」と呼ぶ。こちらも全て同じもの。

 つまり生きてきた環境、年齢、性格などによって同じ対象物でも「呼び名」が変わる。言葉ひとつとってもそれが食い違っていることを「コンテクストがずれている」と言う。

⇒コンテクストの幅が広く(語彙力があるともいえる)、相手に合わせてすぐにそのコンテクストをチューニングができる人が、コミュニケーション能力が高いと言える。

⇒⇒『コンテクスト』とはこうした小さな言葉や表現のひとつひとつ。言い換えるならその人が生きてきた『人生という脈絡の一部』と言ってもいいかもしれない。


〇様々なコンテクストの例

:『地域性』によるコンテクスト・・・広島では絆創膏を「サビオ」と呼ぶ人がいるらしい。

:『年齢・年代』によるコンテクスト・・・「携帯」「スマホ」年代による呼び方の違い。

:『性別』によるコンテクスト・・・「ちょっとお茶を煎れてきてくださる?」この話者は男性だろうか?女性だろうか?おそらく”女性的な文脈”として伝わる方が多いと思う。もしくはオネェか、とても育ちのいい男性かもしれない。

メールでの一言「やぁね」ひとつとっても、そこにはちゃんとコンテクスト(文脈・脈略)が存在する。


(余談)昔はよく写真やDVDを「焼く・焼き増しする」と言った。「その写真、焼き増しして私にもくれない?」。ビデオ(VHS)は「ダビングする」とも言った。そんな会話が成立するのはある一定の年齢以上の人かもしれない。そもそも若者には「焼く」という概念がもはやないのかもしれない。ただ単に「(その写真データ)送って」となるのでは。

 例えば50代の高校同級生仲良し主婦ふたりと、その娘一人(二十歳)がいたとしよう。主婦Aが「昔のネガが出てきたの!」と高校時代の写真を見てキャッキャして、「ねぇ、今度、その写真焼いてきてよ!」と言ったとしよう。ハタチの娘は『焼く!?!?(burning!?)』とギョッとするかもしれない。

 でも娘はそこで昔の人は写真を現像することを「焼く」と言うんだと学ぶ。ひとつの『コンテクスト』を学ぶ。介護士として就職し、一枚の写真を大事そうに抱えるお年寄りに会ったときに「よければそのお写真、焼き増ししてきましょうか?」と言えば話がスムーズに進むかもしれない。そこで「データ送って」とは言わない。こうしてコンテクストのズレを理解し、自分のコミュニケーションに取り込む。これが『コンテクストのチューニング』。


■日本人同士でもコミュニケーションは成立していない(=『わかりあえないことから』)

 東京人に「サビオ持ってない?」と言っても通じないし、10代の娘に「写真焼き増ししてきてよ」と言っても通じない。つまり、同じ日本人同士でも、コミュニケーションなんてあんまり成立していないのだ=『わかりあえないことから』!(※ただ、我々は日々その場の雰囲気で相手の言いたいことをナントナク読み取って生きているわけで、それはそれですごいこと!)

 

 これは日本に限らず世界中どこにでも起きているから安心して欲しい。アメリカ人とイギリス人とオーストラリア人が同じ”英語”で話しているからといって、きっとそのコンテクストはみんな違っていて、会話していても、ちょいちょいイラっとしているだろうと察する。同じイスラム圏でも、イランとUAEとマレーシアでは、その宗教的コンテクストもおそらく全然違うと思う。

 そんな世界の中で、どんな人が目の前に現れたとしても、相手のコンテクスト(つまりは"生き様")を察し、理解し、なんなら、相手にあわせて言葉や態度を自由自在に変えれる人が、世界共通でコミュニケーション能力が高い気がする。


 工業高校溶接科卒には工業高校溶接科卒のコンテクストがあるし、MBA卒にはMBA卒のコンテクストがある。どちらが上・下ではない。相手の話に耳を傾け、わからないことは質問するか調べればいいだけのこと。

 もし目の前に耳の聞こえない人が現れ、手話もまったく知らない自分がいたとしても、いつまでもキョトンとしていては、世界はそこで終わる。紙とペンを探して筆談してみようかなとか、想像し、動き、コンテクストをすり合わせる。もしその方が目も見えなかったら?それならば…と。もしくは相手からこうしようという提案があったらそれを実践してみたり、拒否してみたり。それもコミュ力。コンテクストのチューニング。

 総理大臣が偉そうに国民に発信とかいっても全然響いてこないのは、彼自身が彼自身のコンテクストでしか生きていないからだと思う。だから、「大変遺憾です」って繰り返してる、アレ何?となる。

 国民の間に今漂っている、漠としたコンテクストも理解しようとしない、取り込もうとしないのは大変なコミュニケーション不足だと思う。それこそ大変遺憾ですよ。

***

 多様性の社会においてもこの『コンテクスト』の考え方は通じると思う。僕自身これからも巷に転がる様々な『コンテクスト』を発見し、できれば実践してみたいと思っている。最初は興味本位でいいから。

この記事が参加している募集

読書感想文

多様性を考える

クスっと笑えたら100円!(笑)そんなおみくじみたいな言霊を発信していけたらと思っています。サポートいつでもお待ちしております。