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コロナ禍に地方から東京に移住した話

僕は、コロナの第3波の勢いが増し始める11月下旬に、山形県から東京都に移住した。感染者数に一喜一憂する今、上京しようと考えている人は意外に多いんじゃないかと思う。

大企業が地方への本社移転を検討したり、リモートワークの推進を背景に地方への移住を考える人がいる一方で、東京に移住したいと思う人がいる。

僕自身、兼ねてから上京の意志はあったけれど、このコロナ禍だからこそ上京への決意が固まったところがある。

2020年の4月。僕は新しい人生に向けて、期待感に胸を躍らせて旅立つ予定だった。長く務めた仕事を辞めて、違う生き方を目指して動き始めようと思っていた。

しかし、2月辺りから雲行きが怪しくなり始めた。3月には、日本中で未知の病気への不安が高まっていた。イレギュラーな事態への対応のさなか、退職した。

退職したら、いろんな演奏会を聴きに行きたかったし、いろんな企画展を観に行きたかった。会いたい人に会いに行きたかったし、行きたい場所に行きたかった。起業やフリーランスとしての活動も考えていた。

けれど、コロナの感染は世界規模の問題になった。だから、今だけは、と思って自粛した。それが、一進一退を繰り返す情勢の中、半年以上続くことになった。

東京への移住を決意したのは、9月末。それまではコロナ感染の危険性を考えて、全く視野に入っていなかった。それを決意させたのは、コロナ禍における地方と大都市の違いがはっきりしてきたことだった。

長く地方で暮らす中で、自分は地方では生きづらいということは、はっきりとわかっていた。それが、コロナ禍の情勢の中で、よりはっきりしていた。

コロナへの向き合い方は、地方と大都市では、ずいぶん違う。地域コミュニティの在り方も、医療環境も、働き方も、考え方もずいぶん違うから当然だと思う。コロナ禍における地方の在り方は、僕には居心地の良くないものだった。

また、これからいろいろことに挑戦したいと思ったときに、東京という場所が最適であることは、はっきりしていた。ただ、コロナ禍でなければ、移住の時期は少し先でもいいかと思っていたと思う。

それを変えたのは、社会の急速な変化だった。コロナ禍において、社会のベースとなる技術や考え方、常識や生き方が、大きく変化していくのを感じた。その変化のスピードが、地方と大都市では大きく違っていた。

大都市は急激に新しい常識を検討し、適応することが迫られた。その中で、結果的により効率の良いシステムや、より柔軟な働き方が生み出されていった。それに対し、地方は大都市を参考にしつつもゆるやかに対応するとともに、産業構造の違いもあってかやや違った変化をしている。

その中で、自分が実現したい未来の方向性は、大都市の方向性と合致していた。自分の心地よい生き方は、大都市の変化の先にあるように思えた。そして、その流れに乗るためには、一刻も早く大都市に身を置きたいと考えた。変化のスピードが速い中、その過程を肌で感じるべきだと思った。

東京への移住を決めたとき、特に仕事はしていなかった。そこで、まずは東京に移住する上での、とっかかりになる仕事を探すことにした。経済的基盤を得るというよりも、所属するコミュニティを得ることで、住む場所を決める参考にしたり、社会とのつながりのきっかけにしたり、東京での経験の機会にしたりすることが、目的だった。

そこで、すぐに東京の求人をindeedで探した。ハローワークにも相談した。そして、いくつかの求人に応募し、10月末に面接をすることになった。複数の求人に応募したのは、当初はいくつかの興味のある仕事を並行して行いたいと思っていたからだ。

東京には結局1週間程滞在した。面接以外にも、東京の行きたかった場所に行ったり、会いたかった人に会ったりと、充実した滞在になった。

その際に、職場に通いやすく、知人も近くに住んでいる場所の不動産屋に行き、アパートを紹介してもらった。その中から、当初考えていた地域からは離れるものの、住みやすい場所のアパートが条件に合ったので、そのまま契約した。

住む場所を決めるときには、家の設備や間取りよりも、家賃と場所を重視した。まずは、安定した収入がない状態だったので、家賃はなるべく抑えたかった。また、地理的な事情がわからないので、まずは住んでみないとわからないと思った。

電車や地下鉄の発達した都市で生活したことがなく、車社会で育ってきたので、その意識の違いを懸念した。住んでみて思うのは、やはり車社会の暮らしとは、生活圏の捉え方が大きく違う。徒歩で行ける場所の環境が整っていることは、大きなメリットだと思う。

東京に住む前は、駅の短い階段で、なぜわざわざエスカレーターに乗るのかわからなかった。階段の方が早いではないか。しかし、東京に住んでみると、少しでも足を休ませたいと思うようになった。東京では、とにかく歩く。一歩でも歩かないようにしたいと思う。地方では歩いて10分の場所にも車で向かうのだから、その意識の違いは大きい。結果的に、徒歩5分でたいていのものがそろう場所を勧めてもらって、本当に良かったと感じている。

その後、一度山形に帰り、当時住む場所の退去準備を進めた。しばらくして、アルバイトが無事に決まったことで、アパートの契約もスムーズにいった。ちなみに、そこでアルバイトが決まっていなくても、東京に移住することは決めていた。東京でのアパートの本契約を経て、11月末に東京に移住した。

引っ越しするときには、ずいぶんと荷物を減らした。長年住んだ家なので、荷物も多かった。それでも、極力荷物を処分した。残した家電は冷蔵庫のみ。家具は折りたたみ机と小さなイス、お気に入りのトゥルースリーパーくらいだ。

引っ越しを終えてみると、家電や家具は全て新居で揃えてもいいと思った。もともと思い入れのあるようなものがないということ、十年以上使用しているものだということもあった。しかし一番の理由は、新居の間取りによって家電や家具を選んだ方がいいと思ったからだ。

地方と大都市では、集合住宅の事情が違うこともある。例えば、石油ストーブが使えなかったり、間取りが狭かったり。そもそも気候が違うから、暑い寒いへの対処も変わる。冷蔵庫や洗濯機の大きさに制限がある場合もある。

思えば、服を大量に処分したのも良かった。気候はもちろん、働き方も変わるから、着ることのない服は多かった。僕の場合は、何着も持っていたスーツを全て処分した。これは、もう極力スーツを着る仕事をしたくないという理由もあったし、体型が変わって(太って)着られなくなったということもあった。

せっかく新しい環境でスタートするのだと思えば、本当に必要なものを選んで、ときめかないものは捨てるという過程は必要だったと思う。なんなら、もう少し処分できたと今なら思う。当たり前だけれども、大都市ではほとんどのものは揃うのだ。僕の場合は、徒歩5分のデパートで揃わないものはなかった。

何より、荷物が増えればふえるほど、引っ越し費用がかかる。近所のデパートで冷蔵庫を見たとき、思っていたよりもずっと安く売られていて、少し後悔した。冷蔵庫を運ぶことにしたことによって増えた引っ越し代金よりも、安かったからだ。

ただ一つ、引っ越しの荷物に入れておけば良かったと思ったものがある。トイレットペーパーだ。これは、母親がアドバイスしてくれていたのだが、失念していた。そんなもの買えばいいと思うが、1ロールだけでも入れておけば良かった。

引っ越しの荷物が届く日、新居近くのホテルに泊まっていた僕は、不動産屋で鍵を受け取り、新居に向かった。そして新居を前に、急に便意を覚えた。まだ余裕があったので、コンビニに寄ろうと思ったその目の前を、引っ越しトラックが通り過ぎていった。引っ越し屋は、僕が鍵を開けなければ仕事ができない。慌ててトラックを追った。

荷物はあっという間に入れ終わったが、便意が限界に達するのには十分な時間だった。コンビニに行く余裕はもはやなかった。迷わず新居のトイレを使った。せめて水に流せるティッシュでもあればよかった。僕は久しぶりに、お尻をふかないでパンツをはいた。

こうして東京に移住して、2カ月が過ぎた。コロナ第3波の真っただ中で、依然として不自由なことも多い。行きたい飲食店はたくさんあるけれど、19時半にはラストオーダー、20時には閉店。夜型の自分としては、夜に外出できないのは痛い。

また、コロナ感染の不安もある。1月中旬に風邪、発熱の症状があった。PCR検査は陰性だったけれども、不安は残る。地方よりは圧倒的に感染の可能性は高いから、些細な症状にも不安になってしまう。

それでも、東京に移住して良かったと思う。

まずは、美術展や演奏会に行けるということ。制限があったり、中止になったりすることもあるけれども、ある程度の実施はすることができる。感染が収束の傾向に向かったとしても、地方からそのために東京に来ることができるようになるのは、随分先のことだろう。

また、会いたい人に会うこと、行きたい場所に行くことができるということ。緊急事態宣言下では、もちろん難しいところはあるけれども、地方にいるよりは圧倒的にチャンスを手に入れられる。

そして、最も大きいのが、東京都の実情に触れることができるということだ。ニュースの映像や情報が虚構だというわけではないけれど、実際にその場に住んでいなければ補完できない部分は大きい。地方で生活していると、ニュースの映像や情報だけを手がかりに、コロナ禍というものをイメージしてしまう。

自然災害についても言えることかもしれないけれど、その問題を我がこととして捉えることができることは、貴重な体験だと思う。震災や洪水、雪害を我がこととして捉える人だけが得られる視点と同じように、コロナ禍を我がこととして捉える視点を得ることは、とても貴重なことだと思う。

地方では、未だにコロナ禍を我がことと捉えられない人は多いと思う。もちろん、仕事上や就学上、家族との関わりでの影響は全ての人にとってあるだろう。しかし、直接の関心事として意識するのと、間接の関心事として意識するのとでは、違うと思うのだ。

東日本大震災のとき、僕は生活にほとんど影響がなかった。間接的には、一時期食料やガソリンがなくなったりしたけれども、直接何かが失われたり、命の危機を感じたりはしなかった。不安な気持ちになったり、辛い思いをしたこともあったけれども、それは直接何かを失ったり、命の危機を感じた人達とは全く違ったはずだ。

不謹慎にも思えることだけれど、当時、わざわざ被災地に行く人が多かった。何かできることがあれば、ということ以外にも、その光景を目に焼き付けたいとの思いで行く人も多かった。行った人達は、やっぱり実際に現地を肌で感じないとわからないと言っていた。

結果的に、善意の結果として、かえって現地に負担を強いてしまうこともあった。複雑な思いを抱える人もいたはずだ。

当時は、高校生を被災地に連れていき、ボランティアさせるということも多く行われていた。これは、力になりたいという思いと、経験させたいという思いが混じり合ったようなものだったと思う。

その後、被災地の高校生との交流が行われるようになると、かえってそのことが、学校側の負担や、当事者と傍観者との意識の違いを浮き彫りにすることにつながる例も聞かれるようになった。

僕自身は高校でボランティア活動を担当していたけれども、生徒の安全と現地での活動の専門性を考えたら、ボランティアをさせるという選択はしなかった。どこかに学習の機会という匂いを感じてしまって、不謹慎に思えたということもある。募金活動はしたけれども、それすら葛藤があった。

当事者意識というのは、特別なものなのだと思う。映像や情報で知るものと、実際に肌で感じるものは違う。そして、当事者としてそれを受け入れざるを得ないのと、傍観者としてその事実を知ることは、大きく違うのだ。

多くの自然災害は、その問題に向き合う中で、多くの知見をもたらした。高齢者や外国語話者の問題といった、地域に隠れていた困難を浮き彫りにしたのも、その後の地域づくりに大きく影響を与えた。

そんなことを考えてみると、今、地方と大都市では、コロナの受け止め方が大きく違う中、大都市の問題を我がこととして捉えられることは、とても大事なことのように思える。

もちろん、地方の課題に向き合う上で、地方のコロナ禍に身を置くことは大事だと思う。しかし僕の場合は、大都市におけるコロナ禍に身を置くことで得られる知見を通して、地方の課題も含めた様々な課題に向き合って行きたいと考えている。

コロナ対応の特徴は、未知のウイルスという状態から少しずつ対応方法が見つけられているということ、それと同時に様々なシステムや思想が急激に変化しているということだ。その中に身を置かないと、これからの流れがつかめないという切迫感がある。そのことを、大都市東京に身を置く中で、ひしひしと感じている。

自分はこのまま、この地で暮らしていっていいのだろうか。違う土地に移住した方がいいんじゃないか。そんな思いを抱えた人は、こんな状況だからこそ、地方にも大都市にも増えているように思う。大きく変化する生活の中で、改めて居心地の悪さに気づく。その時こそ、移住を考える機会なんだと思う。

僕自身は、東京に移住することを選んだ。こんな時期にという見方もできるけれど、こんな時期だからこそ、移住を決意した。感染の不安もあると思うけれど、そんな中でも多くの人が生活していることもまた事実だ。

僕は、なぜ移住を考えているのか、自分が何を求めているのか、自分がこれから大切にしたいことが何なのか、に注意深く向き合った結果、東京を選んだ。

今のところ僕は、東京に移住して良かったと思っている。

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