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敵はウイルスだけではないのが辛い。マスコミは「差別」を防ぐ報道を。

新型肺炎に日々対応する中、どうやら敵はウイルスだけではないことが、わかってきた。

例えば、こんなニュースがあった。

陰湿極まりない嫌がらせ…感染患者・家族の家に投石や落書き被害 三重県
4/20(月) 18:56配信CBCテレビ

私の身の回りでも、このように投石被害にあった話を聞いた。今の時代にそんなことがあるのかと、正直驚いた。令和の時代にあっても、村八分は存在するのだ。てっきり、こんな時だからこそ、協力し合うのが地方の良さだと思っていた。しかし、現実はそんなに甘くはないようだ。

日本赤十字社は、「新型コロナウイルスの3つの顔」として、「病気」「不安」「差別」の「感染」をあげている。

「病気」に対しては、専門家が必死になって対応してくれている。科学的根拠を持って、我々にアドバイスをくれている。この部分については、よく対応できている方じゃないかと思う。三密を避け、手洗いをしっかりしている人が多い。医療従事者も日々対応してくれていることは、報道でも紹介されている。

「不安」については、仕方がない所もあると思う。わからないことが多い今の段階では、不安を取り除くことが難しいからだ。

ただ、それを助長しているのが、マスコミになってしまっている側面を感じる。報道の立場として、事実を伝えることは大切だ。しかし、不安をあおりがちに見えるのは、私だけだろうか。また、政府の対応や芸能人の対応等への批判が多い。中には、こじつけに感じられるようなものもある。責任が誰にあるのか、批判の的を誰にするのか、それはもっと冷静に、中立に問われるべきだと思う。決して短絡的になってはならない。「罹患した人が悪い」「この発言が不適切だ」ということよりも、優先すべきことはあるはずだ。

マスコミやコメンテーターは、時として視聴者の代弁者だ。「これって大丈夫なの?」「これはよくないと思う」といった視聴者の声を届けることは大切だ。ただ、非常時にあっては、それが増幅し、ステレオタイプになってしまうのではないか。そう思っていない人も、「そう思うべきだ」というように誘導されてしまっていないか。

言い換えれば、実生活上は平穏なのに、「不安でいるべきだ」「もっと政府の対応に疑問を持つべきだ」「自粛しないことを批判するべきだ」というイデオロギーに染めてしまっていないか。もちろん、政府の対応に声をあげることも大事だと思う。でも、そこに「そうするべき」が入ってくると、少しとまどう。「不安」や「疑問」から逃げる選択肢も、あっていいはずだ。

報道番組を、すみからすみまで観て、いろいろな番組をハシゴし、インターネットで補正すれば、ある程度客観的に事態を飲み込むことはできる。しかし、そうはできない人、ニュースの一場面や一つのツイートで飲み込んでしまう人も多いのではないか。特に、一次情報に触れることの難しい人はそうなってしまいがちだと思う。

そうして増幅された「不安」が、「差別」を呼ぶ。「不安」と「差別」との間には、大きな隔たりがある。「不安」はどうしても抱いていまうものだが、「差別」は自覚できれば取り除くことができる。例え罹患した人がいて「不安」になっても、罹患した人の家に石を投げることが「差別」だと気付ければ、その行為は防げたはずだ。

自動車の運転で言えば、「認知・判断・操作」を意識したい。情報を正しく「認知」し、自分の行動を「判断」し、的確に「操作」する。例え「認知」することを間違ってしまっても、それが「差別」だと「判断」できれば、「操作」はしないはずだ。

さらに、青少年赤十字の態度目標で言えば、「気づき、考え、実行する」を意識したい。その情報から自分の気持ちや置かれた状況、相手の気持ちや置かれた状況に「気づき」、そこから自分の取るべき行動を「考え」、自分にできることを「実行する」。

だから、マスコミに本当に求められるのは、正しい「認知」「気づき」をもたらすための情報と、「差別」の可視化だと思う。マスコミには「不安」を増幅させることはできても、減らすことは難しいと思う。情報は、あればあるほど「不安」を増幅させる性質があるからだ。しかし、その先の「差別」を防ぐことはできる。それこそが、今、マスコミに最も期待したいことだ。





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