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「死に時」と「死に方」は個人の価値観で変わる

  終末期に一旦病院に入れられてしまうと、医師や家族の制止を振り切ってまで退院するのは極めて難しいでしょう。
 病院はどうしても退院すると言い張る患者を強制的に入院させておくことが出来ないのですが、実際には歩けない状態で病院に入れられれば、自力では抜け出せません。

乳がんで10年闘病したうえで亡くなった叔母は早く逝きたそうだった

 乳がんで10年闘病したうえで亡くなった叔母はずっと入院か家でした。
 最期はおばあちゃんの命日と同じ日に亡くなりました。
 最期は辛そうすぎて、早く逝きたそうでした。

まだ頭と身体が動くうちに自分で自分の死に時、死に方を選ぼう

 まだ頭と身体が動くうちに自分で自分の死に時、死に方を選ぼうという方もいらっしゃるでしょう。
 これは自殺です。
 人になるべく迷惑をかけずに自殺するには、ある程度の体力が必要ですし、頭が惚け切っていないことも必要です。
 しかし、一般的にには「自死なんてやってはいけない」という価値観に支配されます。 

死に時はその人の価値観で変わる

 「自死」を論じること自体がタブーとされがちですが、はっきり言えば「死に時はその人の価値観で変わる」はずです。
  私自身は、歩けなくなっても食べれればまあ「生きている」と捉えていると思います。
 しかし、食べられなくなっても、全身が動かなくなっても、最後の最後まで行きたいと思う方はいらっしゃいます。
 それも当然尊重されるべき個人の価値観であり、権利です。

嫌なのは「死に時」を外から一律に決められる

 嫌なのは「死に時」を外から一律に決められてしまうことです。
 「さっさと死ねよ」などと決めつけられるのは論外ですが、逆に「まだ生きられる、死ぬべきでない、何が何でも自殺は悪である」というのも、価値観の押し付けです。

バイクで日本一周をし、発達障碍と判断された彼

 バイクで日本一周をした発達障碍と判断された彼は、ダムに飛び込んで自殺を図ったことがTwitter内で賛否両論ありましたが、本人が「もうダメだ」と思ったら「もうダメ」なのです。
 様々な彼を支える制度はありますが、「もうダメだ」と思って、最期に「綺麗な風景を見たい」と思ってそれが実現出来たのならそれで良かったのです。

「もっと生きるべきだ」とか言う権利は私達にはない

 彼に対して「もっと生きるべきだ」とか言う権利は私達にはないのです。
彼が「もう良い」と思ったら、その時が「彼の」死ぬタイミングなのです。

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