わたしは物書きになろうと思った話
※全文無料で読める。
2014年09月22日に自分の雑誌を創刊して2020年同日を過ぎ、6年間を満了した。ここまで来れて皆様に御礼申し上げる。6年間を記念した何かを書きたい。09月22日は、150年前の幕末に会津城が戊辰戦争で開かれた日でもある。
わたしがライターになったのは2013年の2月ぐらいだった。初めての記事は、原発避難している自分の家について語るという随筆だった。
代表の赤坂憲雄さんにお声掛け頂いて『(社)ふくしま会議』発行の雑誌『ふくしまの声』ライターとなった。文章は、『ごあいさつ』と『双葉のこころ』という題目の随筆にした。赤坂さんが直接に文を見てくれた。このとき妻と大変喜んだ。
もともと本を一人で、村上春樹とかショウペンハウエルとか読むだけで満足していた。読書家の友達に話すことはあった。英語でネットはいつもやっていたので海外の友達と本の話を少しした。とにかく、もの書くなど夢にも思っていなかった。
原発事故で避難生活を送っているうちに、著名な作家たちを警戒区域のなかへ連れていくことが何度かあった。本が好きだったので嬉しかった。
インターネットで社会に何かを主張しようと思ったが当時は議論が百花繚乱の状態で多すぎて埋没してしまい2011年の秋ぐらいに仮設住宅でネットを繋げた自分の話は下手で時遅しで広がらない。作家たちとの交流を通して物書きに憧れた。
それでお会いできた矢作俊彦さんの文章が載る『GQ JAPAN』(コンデナスト・ジャパン)などを読んだり、新聞で知った『赤坂憲雄』さんの書籍を読んだりしていた。
震災と原発事故のせいで、面白いこともなにもない悲しく辛い気分だった自分には、お二人の文章は光明であった。こんなに面白い文章を書く人々がいるんだなと思った。
当時、矢作さんの文章こそジャーナリズムだと感じて学ぼうとしたりもした。民俗学という赤坂さんの世界には深い関心を抱いた。どちらも地方や郷土に繋がるとも言える。自分の故郷という郷土史には震災前から関心があった。
※たとえば2011年の秋には知り合っている中島麻美さんたちを筆頭に他にも多くの物書きの人々と交流しているが今回はいつも挙げる代表お二人にした。
いまは避難指示区域とか避難区域とか帰還困難区域とか復興再生拠点区域などと言われている。3.11の初期に、3月は区域設定などされていなかった。それが4月か5月だったかそのぐらいに警戒区域になって、自宅に許可なしで帰れなくなった。その前に本を多分、千ないし二千冊ほど、ゴーグルしたりカッパ着たり突撃隊の気分で取りに帰ったなんてこともあった。
いや、話を戻そう。
わたしが物書きになろうと思ったのは、つまり、本が好きだったからという前提があって、憂鬱の底に居たとき、本の中のひとびと、物書き作家のひとびとに出会えたからであろう。しかも自分の好みの書籍群を書く人々がいたためたいへん名誉に感じられ嬉しかった。
ただ、赤坂さんとの出会いはご著作との長い会話である。こんなに面白い本があるのかと、本に救われた。それからまず、2013年に偶然*ネットで繋がり、2014年に赤坂さんの講義を受講しはじめて、そのとき初めて現実にご挨拶した。※偶然……いま話すと一文になるので割愛。
6年間、赤坂さんの福島県立博物館館長講座を受講し続けた。ふくしま本の森という私設図書館での活動もみなでしたりしつつ、赤坂さんと対談したりも何度かさせてもらったり、おかげさまですっかり仲良くさせてもらっている。東北学にせよ随筆群にせよ、赤坂さんの語り口は、偉人である。
矢作さんとの交流は、このところずっとなくなってしまっているので、どうしたものかと思っている。そのうちせめてご挨拶だけでもしたいと思いながら、ご著作を読んでいる。言わずもがなだが、矢作さんの書籍群は日本文学界の歴史的財産である。
3.11は、あらゆる、わたしを形成する物事を、これでもかというほど奪っていった。あれこれ雲山霧消して離散して、絶望にあった。新聞テレビでは毎日、自分に関することが報道されていた。
社会へ言いたいことがあっても自らでは表現稚拙で伝えられずもどかしかった。取材は沢山受けたが取材というのは質問に答えることが多いので自ら表現していくことともまた異なる。
しかし、そこに、本が面白いという光が指した。読むと書くの間に流れる光の大河を、わたしは渡った。それからも七転八倒の地道な地味世界ではあるものの、挑戦と冒険は始まった。
物書きをしだして1年後、わたしはライターとして独立することを考えながら、何人かの気の合う友人知人を誘って雑誌を始めようかと考えるようになる。創刊から6年間である。なんとも長い。いろいろあった。営業苦手の売れ行きから先のことを考えると、物書きいつまで続くものぞと思われても不思議ではないが、なにぶん本と連動した趣味なので、止めないかもしれない。
2013年、2014年、2015年、あのころは、一種の緊張感みたいなものが、まだあった。思い出すと懐かしい気になる。つい最近のことだが、時代は、311初代の経験する未知だらけの初期だけに、濃密だった(「初期」は最初の5年だろうが、長い目で見ると最初の10年だろう)。
雑誌創刊の話にすべきだったのだが、少々込み入った話でもあるのでいきなり書きづらい。noteを始めたばかりだから自己紹介がよいだろうと思った。
このようにしてわたしは物書きになったのである。
ここから先は
¥ 500
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?