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なにもおもわない

私は毒親育ちです。
これまでもnoteの記事でそのことに多く触れてきました。
その苦しさから脱却するために、自分自身の人生を生きるために、noteを書くことは私の中では大切なことでした。

自分が毒親育ちであるとわかり始めてから、特に母に対しては、複雑な感情を抱いていました。
それまでも、子どもの頃から、内心母を嫌っていることにはうっすらと気付いてはいたのですが、それを自分で認めることは出来ませんでした。


私のこれまでの生き辛さが、毒親育ちに原因があったことに、はっきりと向き合った時、
怒りや、母に対するとてつもない嫌悪感がありました。
怒りは、こんこんと湧き出でてきましたが、それは母に向けてではなく、自分自身を傷付けたり、物に当たったり、自分を粗末に扱うことによって、現れていたように思います。


一人暮らしをしていた頃は、実家に帰る度に体調を崩し、精神的にもとても疲弊していました。
結婚し、子どもが生まれてからは、行動的な母は何かにつけて家に来るようになり、私はその度に寝込んで動けなくなってしまうこともしばしばでした。

紆余曲折ありましたが、現在は程よい距離感で、避けるわけでもなく、機嫌を取るわけでもなく、良好な状態であると思います。




そして今、母に対して、

私はなにもおもわない。




ネガティブな意味ではありません。
感情をなくしているとか、抑圧している感じではありません。

とてもフラットな状態というのが適切であると思います。


あんなにあった怒りも、嫌悪感も、
母に対しての重たく苦しい思いが、感じられません。


もう一切の期待をしていない、と言うとなんだかあきらめのような、消極的な感じがしてしまいますが、
母が変わるとか、何かに気付くとか、本当の思いやりを持つとか、私が抱えてきた苦しさに気付くとか、
どうでもいいんです。

どうでもいいと言うと、なんだか冷たいような感じがしてしまいますが……

言葉って、難しいですね。


あんなにあった、嫌いという感覚も無いんです。
好きではありません。
どっちでもいいんです。
好きでいなければ、という気持ちもありません。
私が嫌おうが好きでいようが、母は母で何も変わらないし、
私は私で何も変わりません。

だから別にどっちでもいい。
母が好きだとか嫌いだとか、
母がどうのということを考えることに、時間を割くことができなくなったというか。


それはやはり私が、自分の人生を生きられるようになったからだと思います。
私のことを考えることが出来るようになったからだと思います。
母は母で、幸せでいてくれたらと思います。


好きも嫌いもないけれど、
私を生んでくれたことに対してのみ、私は両親に感謝をしています。
それだけでいいと思っています。


思春期や反抗期を経て、自分自身の確立に至るのが本来の自立の道であると思います。
毒親育ちはそれが適わず、アダルトチルドレンとして生き辛さを抱えます。

今まではそれを、とてもネガティブなこととして捉えていました。
でも今は、
アダルトチルドレンは、自立する時期がちょっと遅くなっちゃっただけ、なのではないかと思っています。

もちろん、”ちょっと遅くなっちゃった”とライトに表現出来るものではないことは、身を持って知っています。
人生の大半を苦しく重たく自分を引きずるようにして生きてきました。
今の私が精神的に安定しているからこそ、言えることであるとも思います。

今も生き辛さを抱えて苦しんでいる方には、不適切に聞こえるかもしれません。


それでも敢えて言いたい。
アダルトチルドレンは、自立するのがちょっと遅くなっちゃったんです。
そしてそれはあなたのせいではありません。
その生き辛さが、息苦しさが、永遠に続くわけではありません。
あなたは自分の人生を生きることができます。



最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



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