生まれたところから、私の人生である。
賛否あるであろうことを書きます。
私は毒親育ちで、これまでの人生の大半を苦しみながら、重いものを引きずるようにして生きてきました。
それがある時、
少し、ふわっと、軽くなった、
その時のお話です。
私の場合、毒親育ちとは、
身体的な暴力等のものではなく、
心理的な抑圧や人格否定などで、
簡単に言えば、言葉や態度によって私という人格をコントロールする暴力、
といったところです。
衣食住は十分に(むしろ過度に)与えられていて、
“自分たちは上流である”との認識を両親ともに強く持っており、人生における選択や日常のすべては、その認識を正しく保つ為のものに過ぎませんでした。
社会的な弱者やマイノリティに対する偏見を持っており、そのような立場の人を見下すことによって、自分たちは違う、ということを殊更に強調するような両親でした。
そしてその認識を子供にも植え付けようとしていました。
ニヤニヤと嘲笑しながら、ホームレスや同性愛者への偏見を口にする母の姿が脳裏にベタッとこびり付いています。
私は今でも母の目を直視することが苦手です。
以前、6歳で会食恐怖症を発症したことについて書きましたが、
このような生い立ちの影響もあったのではないかと思います。
とにかくいつでも人の目が怖くて、様々な社会不安障害や心身症に悩まされました。
生まれ持った性質もあると思いますが、
世間体=人にどう見られるか、ということを最も重要視していた家庭の空気を敏感に感じ取っていた影響であったと思います。
幼い頃は当然、毒親、などという認識はありませんでした。
小学生の頃にぼんやりと、〖うちは仮面家族だなあ〗と思っていたくらいです。
内心では両親を嫌悪している自分を、とても嫌な人間であると思っていました。
毒親であることをはっきりと認識したのは、社会人になり、一人暮らしをして、随分経ってからだったと思います。
誰の指図も視線も機嫌も気にしなくて良い一人暮らしは、本当に気楽でした。
ですが未だに繋がりのある自分の親が「毒親」で、
これまでの自分のあらゆる苦悩はそこに端を発するものであったという事実を受け入れるのは、やはりとても苦痛を伴うものでした。
憎しみのような気持ちも持ちましたし、
とにかく嫌いで嫌いでしょうがない、
そしてその血を受け継いでいる自分も嫌いでしょうがない、
といった具合でした。
そんな中、私は知人からある言葉を教えてもらいました。
それは、
【自分を生んだ親に感謝をする、というのは、最も強く自分を肯定することである】
というものでした。
私は最初、その意味がなかなかわかりませんでしたが、
だんだんと、じわじわと、
「あー……、あー、あー!なるほどね!!」
と納得したのです。
自分の出自に感謝の念を持つことが、最も強く自分を肯定する。
考えてみたらそれは当然のことかもしれません。
ですが毒親育ちにはそれがなかなか出来ません。
親のことも、自分のことも大嫌いなのです。
自分の生も肯定できないのに、自分を生んでくれたこと、育ててくれたことに感謝するのはとても難しいことです。
よく社会に出たり親になった時に、親の苦労が身に沁みる、などという言葉がありますが、私の場合、社会に出て働くことの苦労を知っても、親に感謝をするなどという心の動きは微塵も起こりませんでした。
ですがこの言葉を聞いた時に、
腑に落ちたのです。
この言葉は、
親に感謝をしなさい
と言っているわけでも、
自分を肯定しなさい
と言っているわけでもなく、
親に感謝をすることは、自分のためである。
という事実を述べているのです。
どのような親であるかは、関係ないのです。
そしてどのような育てられ方であったのかも関係ないのだと、私はこの時理解しました。
自分のために、親に感謝をするのです。
それなら出来る!
と思いました。
自分のためならば。
親に感謝の念があるから、感謝するんじゃない。
感謝したいから、するんじゃない。
親のために、するのでもない。
自分のためです。
私は以降、この世に産んでくれた、という一点にのみ、
親に感謝をするようになりました。
世の中には、自然と感謝ができるような親も、まったく感謝などできない親も居ます。それはとても不公平なことで、子供の側はそれを選ぶことができません。
ですが、“親から産まれた”事実は全人類に共通することです。
そのただ一つの事実だけに、感謝をすれば良いのです。
形だけでも構わないと思います。
本当には感謝の気持ちなど持てなくても、形式的に思うだけでも良いと思います。
生まれてからその後の人生の中で親から受けたものを、許せなくても良いと思います。
心など、こもってなくても良いと思います。
自分のために、ただその一点に感謝するのです。
ただ、一口に毒親育ちと言っても、
その中身は多岐にわたるであろうし、
心から親が憎くてたまらない方も、
希死念慮が強い方もいらっしゃるかと思います。
アダルトチルドレンからの回復にも、
フェーズがあり、
心の中の親と自分とをまったく切り離すことが必要な方もいらっしゃるかと思います。
なのでこの考えを推奨しているわけではありません。
私はこの言葉に出会い、
心が少し軽やかになりました。
錆びついていたギアが一段軽くなったような、
深海を漂っていたのが少しだけ海面のほうへ浮上したような、
そんな感じがしました。
それは、
この世における私に対する両親の役割は、私を生み出したことである。
それ以上の役割は無い。
と、線引きをしたような感覚でした。
これ以上この人たちに、影響力を持たせない。
生まれたところから、私の人生である。
そう宣言したような気分でもありました。
もちろんこの考えだけで、すべてが解決したわけでも、生き辛さを手放せたわけでもありません。
今でも私は生き辛さに苛まれています。
ですが、自分自身の考え方や捉え方をアップデートしていくことは出来る。
自分の人生を生きることは出来る。
そう思わせてくれた、言葉との出会いでした。
皆様がご自分の人生を愛せる日が来ることを、祈っております。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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