坊主にイラついた話

祖父の法事をおこなうという連絡が父親からあり、スケジュールが厳しく迷ったものの出席することにした。
なかなか会う機会のない親族、とりわけ100歳近くになる祖母に会えるのはこれが最後になるかもしれないと思ったからだ。

法事では数十年ぶりに会う親族もいて、彼らは時の流れに合わせてしっかりと老けており、当然相手からは自分も同じように見えたはずだ。
親族とともに講堂で法事の開始を待った。予定時刻を少し過ぎて登場した坊主は50歳前後、中肉中背で白髪混じりの短髪、法衣を脱げばどこにでもいるようなおっさんだった。
挨拶に向かった母親に対して坊主が何か呟いた。坊主「(ボソボソっとした小声で)...を」、母「はい?」、坊主「...を」、母「?」、坊主「...エイを」、母「??」、坊主「遺影を!」、母「あぁ、すみません...」。
イラッとした。坊主は敬語を知らないのだろうか?もしかして社会常識のない方?
法事が始まった。坊主の経が延々と続く。南無妙法蓮華経...

疑問が湧いてきた。
この経は親族に向けて唱えられているはずだが、私を含め誰もその内容をよく理解できていないだろう。そんなものを数十分も唱え続けることに意味はあるのだろうか。
おそらく数百年前は、経の内容よりもお坊様がそれを唱えるという行為自体に意味があったのだろう。お坊様の経や言葉はそれだけで有難いものであったのだ。
お坊様の経や言葉が尊いとされたのは、彼らが厳しい行を修めた結果、一般人とは異なる存在に到達していると皆が認めていたからだろう。
現代ではどうか。宗教が政治から切り離され、また科学に取って代わられてから長い時間が経っており、一般人にとって仏教は儀礼・慣習的なものに留まることがほとんどだと思う。
また、現代では坊主の子が仏教系の大学で学び、大きな寺で修行し、実家を継ぐというルートがあるようだが、これは厳しい修行なのだろうか。そのようなルートを辿った坊主の言葉を有難く聞くことができるだろうか。
ようやく経が終わった後、坊主の講和が始まった。「釈迦は生まれてすぐ七歩歩み、天上天下唯我独尊と仰った...」云々。
どこかで聞いたことのある話、ネットで調べればすぐにでてくるであろう話が続く。そんなものを披露することに意味があるのだろうか。
用事を終えた坊主は足早に去っていった。

実家に戻りくつろいでいた際、母親が「この間お寺から二回目の寄付のお願いがあってね...」と言い、また「お坊さんは別宅にベンツを置いているんだって...」などと言う。
後者の真偽のほどは不明だが、だいぶイラッとした。
高額の寄付や布施、一文字あたり数万円とかいう戒名、挙げればきりがない。嫌気が差す。
だいたい、妻帯はもちろん、剃髪すらしていない坊主など信用に値しないと私は思っている。
彼らが坊主という特権的な立場でいられるのは、昔と比べて緩いにせよ、禁欲生活のもとで修行を続けているのがその拠り所であり、破戒僧など言語道断だ。
妻帯についていえば、浄土真宗の親鸞がはじめておこなったことで有名だ。「すべての人がありのままで救われる本当の仏教を明らかにする」ことがその目的だというが、私から言わせると、自分の欲望の行為を正当化しているだけだ。たいそう口上手な人間だったのだろう。

私は宗教を否定しない。それによって救われる人もいるだろう。また、科学では説明のできない神秘的なものは存在するかもしれないと思う。
ただし、同時にこう思うのだ。その神秘的なものを神と呼ぶとして、その神は人間がつくりだした金などというものに興味を示すはずがない、と。
どんな理由であれ、必要(宗教を維持するために最低限必要なもの)以上の金を求める宗教はまやかしだ。

今後も他人が主催する儀礼的な宗教行事には参加するかもしれないが、自分は決して主催しないという思いを新たにした。

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