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人生に早送りはない

【書評】『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ──コンテンツ消費の現在形』 稲田豊史=著/光文社新書

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 読む前は私も、素朴に早送り視聴を否定していた。たとえば、10秒の沈黙シーンがあれば、それは沈黙であっても、意味のある10秒なのだ。それを飛ばしてしまうというのは、作品に対する〝冒涜〟ではないのか。
 しかし、読むにつれて少し考えが変わってきた。なぜ、いまの人は早送りで観たがるのだろう。それを考えるうちに、だんだん早送り派の気持ちもわかってきたのである。
 早送りそのものは昔からあった。だが、昔の早送りは何を言っているのかわからなかった。単純に2倍速で再生すると、音の振動数も2倍になるので、音が高くなってしまう。しかし、いまの早送りは音の高さを調整しているので、倍速でも何を言っているか聞き取れる。そしてNetflixを始めとする動画配信サービスが、軒並みこの機能を搭載するようになった。
 加えて、動画配信サービスのほとんどがサブスク(定額制の見放題)を採用している。TSUTAYAやGEOで借りるしかなかった時代には、たくさん観ようと思えば、(もちろん時間も必要だが)足りないのはお金だった。しかし、いまは違う。時間さえあれば、いくらでも観ることができてしまう。そう、時間さえあれば! サブスクがデフォルトの現代では、圧倒的に足りないのは時間なのである。
 早送り視聴をする人たちは、「タイパ(=タイムパフォーマンス)」という言葉をよく使う。始めから終わりまでじっくり見たけどつまらなかった。それは「タイパが悪い」。つまらないものを見るのに、こんなにたくさんの時間を使ってしまった。そんな罪悪感にも似た気持ち。この時間に対する脅迫的な観念こそ、早送り視聴を強く後押しするものである。
 インターネットとSNSの発達によって、現代人は見るべき情報の多さと、それを見る時間の少なさにうんざりしている。早送り視聴はこうした環境を生き抜くための、彼らなりの生存戦略なのである。だから、「早送り視聴なんて正しい鑑賞態度ではない」と批判したところで、馬の耳に念仏である。なんなら彼らは、鑑賞しているつもりすらない。通常速度で視聴することが「鑑賞」ならば、倍速視聴はただの「情報収集」だ。鑑賞すべき作品に最速でたどり着くための情報収集。彼らの中には「鑑賞モード」と「情報収集モード」を明確に使い分けている人も少なくない。
 鑑賞というのは、本来それ自体を目的とする行為である。これに対して、情報収集は何かのためにする行為である。倍速視聴をする人たちには、前者の概念がない。すべてのものには意味が存在するはずであり、すべての行為には目的がなければならない。そう教えられてきた世代なのである。ゆとり教育がゆとり世代を生み出したとすれば、Z世代をもたらしたのはキャリア教育である。
 かつてモラトリアムという言葉があった。まだ何者でもない自分が、これから何者になるか、その答えを出すまでの猶予期間。われわれの時代には、就職なんて大学4年から考えれば済んだ。早くても3年の後半。しかしいまの学生は、入学前から将来を意識させられる。小学校の宿題で、将来の夢が何かを書く。すると、その横には必ず「それは世の中のどんなことに役立ちますか」という設問がある。趣味というのは好きなことを好きなようにするものだが、いまの大学生にとって趣味とは、「履歴書に書くために必要なもの」でしかない。
 私はここで、どうしてもモモと時間泥棒の話を思い出してしまう(『モモ』ミヒャエル・エンデ=著/岩波書店)。あるとき灰色の男たちがやってきて、人々に時間の節約を勧める。時間は節約することでしか手に入りません。時間を節約して、私どもの時間貯蓄銀行に預けなさい。そうすれば将来、ちゃんとした「本当の生活」ができるようになります。人々は灰色の男たちの口車に乗って、慌ただしく働くようになり、仕事が楽しいとか、仕事への愛情といったことは、問題ではなくなってしまった。そんな考えは、むしろ仕事の妨げになる。大事なことはただひとつ。できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすること。そうやって人々は、だんだん冷たくなり、落ち着きがなくなり、怒りっぽくなる。でも、どうしてそうなったかは誰も思い出せない──。
 お節介かもしれないが、早送りすることで効率的、経済的に作品を消化しようとするいまの人々が、なんだか気の毒に思えてくる。なぜなら、いちばん大事な作品──それはつまり人生のことだが──人生は早送りできないからである。何本も続けてハズレを引くこともあれば、思わぬ幸運が巡ってくることもある。それが人生というものだが、彼らにそのことを教えてくれるものはない。回り道をしなければわからないこともたくさんある。しかし、彼らは映画を早送りするのと同じように、人生にも近道というチートを求める。
 もし人生を早送りできたとしても、どうせ死ぬということがわかるだけである。それなら、さっさと死ねばいいという結論になるのだろうか。なるほど効率的で経済的だ。でも、死ぬために生きている人はいない。生きていくためにはお金が必要だし、お金のためには働かなくてはいけない。それは仕方ない。でも、時間を犠牲にしてお金を手に入れたら、人は幸せになれるのだろうか。
 話題についていくため、個性を手に入れるため、マウントを取るため、それはそれで結構。しかし、何かのために「いま」のすべてを捧げてしまったら、その「何か」は永遠にやってこない。なぜかといえば、それがやってくるのはいつまで経っても「来るべき将来」だからだ。そうこうしているうちに人生は終わってしまう。いのち短し恋せよ少女。どうですか。灰色の男たちは、あなたのすぐそばにいませんか。
(ブクログより転載)

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