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翻訳家脳と俳優脳

稽古が始まってまだ数日も経っていない。
もちろんぼく自身は俳優としての準備を進めているのだが、現場の中ではまだそうもいかない。

俳優さんがぼくの翻訳した台本を実際に口に出したときに起こる違和感を翻訳家として修正していく必要があるし、実際に音を聞いてみて「ことばが固いな」と思ったら柔らかくしたり、翻訳家としての仕事がまだ残っている。

だから現時点で言えば、比重は俳優の方が重いけど、翻訳家から俳優へと移行していく過渡期のように感じている。

ただ自分の中で興味深い反応に気づいた。

翻訳家として違和感のある台詞はどんどん変えていきたいと思っている。
その一方、俳優としては与えられた台本をいかに自分の力で解釈していくか。

だから台詞を変えるのではなく、役としてその台詞をいかに身体に落とし込んでいくのかという部分への執着も感じているのである。

もし偉大な劇作家が書いた台詞の辻褄が合っていなかったとしたら、おそらくぼくは可能な限り与えられたことばで作品の世界を作ろうとすると思う。
そこに無理が生じた場合はきっと演出家が止めてくれる。

俳優からすれば、演出家という仕事は偉大です。
(でも上下の関係ではなく、対等だとは思っているけども)

ぼくは俳優として、ぼく自身が翻訳して、ぼく自身に与えられた台本と共にある。
だからぼくは可能な限り、今ある台本で世界を構築してみたいし、そこに俳優としての甘えを絶対に持ち出したくない。

翻訳家兼俳優なんて、大企業の社長と政治家くらい癒着してしまうよ。
だからこそ、自分自身に一番厳しく、清廉潔白な演劇をやっていきたい。

否、清廉潔白に泥のような汚い演劇をやっていきたい。

その一方で、ぼくは劇作家兼演出家である鄭義信さんの姿を間近で見てきている。

劇作家鄭義信はもの凄くストイックに資料を読み漁るし、鄭さんから産み出されることばたちは本当に宝石のごとく磨かれ、輝きを放っている。

しかし演出家鄭義信は稽古場でたまに
「難しい台本だなあ。てい よしのぶが書いてるのか。」と茶目っ気たっぷりに自分が書いた台本を演出家として大胆に、柔軟に変更していく。

俳優としてのポリシーと翻訳家としての柔軟さ。
その両方をバランス良く併せ持ったひと。

いずれ、とか言ってる暇はなさそうだ。
今そうなるときだ、と断言しておこう。

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