見出し画像

【816】「死んでも可いわ」と言えますか?/愛に満ちた生活

I love youの(ひねったような)訳としておそらく最も有名なのは漱石に由来するとされる「月が綺麗ですね」で、これはあまりにもよく知られているので、したり顔で使っているフィクションなどがあるときまりが悪い感じがするのですが、とまれ有名です。

シリーズもののライトノベルであるところの『半分の月がのぼる空』(文庫版第5巻、275頁周辺)における『ティボー家の人々』第1巻第6章末尾からの引用もまた思い出されるものです。ジャックがダニエルに読ませた灰色のノートには、最後にÀ toi, pour la vie(命に代えても/命を賭けて、私はあなたのものでいる)と書かれていたわけですが、この箇所に傍線を引いて、そこにしおりを挟んで手渡すという持って回ったプロポーズの手段があったのですね。

これらと同じくらいに有名なのは二葉亭四迷の用いた「死んでも可いわ」かもしれません。これはトゥルゲーネフ『アーシャ』(第17節)を訳すときに用いられた表現ですからそもそも英語には対応しませんし、原語からいってもI love youではないのですが、しばしばI love youの訳ということにされています。「(私は)あなたのもの(です)」というロシア語のВашаという表現を「死んでも可いわ」と訳したというわけです。なお私が持っている英訳ではI am yoursとなっており、仏訳ではÀ vousとなっています(上の『ティボー家の人々』と同じく、à+人称代名詞というかたちをとっているわけです)。というわけで「死んでも可いわ」はI love youの訳語ではありません。

とはいえ或る種の執着の、あるいは雑駁に言えば「愛」の表現として「あなたのものである(になる)」という形式の表現が、西洋語でもロシア語でもわりと一般的であり、これを二葉亭四迷は「死んでも可いわ」と訳したわけですね。

なるほど自分がもはや自分のものではなくなるということ、寧ろ積極的に自らを自らによる所有から解き放って相手のものにしてしまうこと、しかし相手の利益を必死に考えている風でもなく寧ろ熱に浮かされたように自らを捨て去ること、が愛の表現であるとするならば——たとえば上の『ティボー家の人々』においてジャックが書いた文言は「鉛筆によるひどく汚いなぐり書き(un affreux griffonnage au crayon)」とされており、謂わば冷静な状態で紡がれたものではない——、愛の表現がときに後先を考えない死、今ここですべてが終わることと結びつくというのは無理のないものです。

古くは(?)キリストの受肉と受難もまた、自らを空しくするという形式における人類への愛の表現でもあります(ピリピ書2:7-8。いやもちろん、キリストが熱情にうかされて考えなしに死んだ、みたいな解釈はほとんどの教派がしりぞけます)。あるいは私が最も好きな福音書のフレーズで言えば、「自分の友人たちのために命を差し出す、これより大きな愛は誰も持っていない」(ヨハネ福音書、15:13)というものを挙げるのは、時宜にかなわないわけではないでしょう。愛は死と容易に結びつくということです。


話を変えますが、ある作家を研究している知人がいます。

私が知っている中では(だいぶ年上の人や、ずっと年下の人を含めても)ずば抜けて優秀な、私などは到底足元にも及ばない人で——などと評価するのももちろん傲慢なのですが——、ベースとなる語学力やテクスト読解の手付きはもちろん、何よりその研究対象に対する没入具合が凄まじく、私はそうはなれないなと思いながら見る相手です。

彼と喋っているといつも色々発見があるのですが、精神的な発見として強かったのは、その研究対象となる作家——とっくに亡くなっている——と会って話せるならば「今すぐ死んでもいい」と言っていたことです。別にそんなことを言うよう求める空気でもなく、カジュアルに雑談していただけだというのに。

彼がそう言ったのは今の私よりもいくらか若い頃のことでしたが、もうその時点で、研究という分野、読むということにおいては彼にかないようがないなと確信しました。もちろん扱う対象も使う言語も何もかも違うので単純な比較はできないのですが、それでも圧倒されました。

人文系の院生や研究者といえば、
「本読んでる自分を愛しちゃってるだけだな」
「学生に『教える』自分に酔っちゃってるな」
「知識人のコスプレが好きなんですね〜」
「そのくせ反権威主義のフリをしていやがる、反省能力ゼロだな」
「教員たる自らが権力を持っていることに気づかず、学生を『友人』扱いして不透明な依怙贔屓をやらかすとはとんでもないハラッサーだな」
……等と思わせるばかりですが(もちろん例外はあるにせよ、こういうことばかりだから大学教員にはなりたくないのです)、そんな中で「死んでもいい」とはっきり口にした、謂わば差し迫った死に臨みつづける彼の態度にはなんとも言い難い輝きがありました。


幾年か経って、謂わば消極的に「死んでも可い」と言えるものを私は既に見つけていますが、積極的に「死んでも可い」と思える対象は、果たしてなかなかない。

お読みの方もほとんど見つけていない、というか皆さんはそもそもそういう観念体系の中におらず、見つけようとも思わなければ、見つけたいと思わない(それが悪いとは言わない)。

相対的にはクソったれでしかない不透明な空間(=オトモダチやカゾクやシャカイや、ときにはミンゾク)における地位の承認や、思考を放棄した帰結でしかない快楽の追求はもちろん論外です——というのも、地位や承認や快楽はそれを享受する主体の存続を前提するので、快楽のために「死んでも可い」というのは矛盾であるから。

いや、仮に矛盾でないとしても、あくまでも私は、そういうものにあまり興味がない。男性は酒と女で失敗するなどと言われており、それほどに酒や女は求められているものらしいのですが、私は酒にも女にもあまり興味がありません。「好きなこと」とか「やりたいこと」とか言ってニコニコしながらやっている人を見ると「クソ下らねー、『やってる自分』のことが好きなだけじゃねーか」と思われるのですし(悪いとは言っていない)、寧ろ身体や精神を確実に破壊しながら粛々と遂行することのみが愛に値する、あるいはそもそも取り組むに値するものだろうとさえ思われます。

私が社会適合的に生きていない、おそらく多くの人々と欲望の形式を共有していないというのは実に福音めいたところがあって、同級生や年上の知人たちが(私から見れば)クソ下らないことを大真面目に論じたり、(私から見れば)どうでもいい些事に汲々としたりするのを見ていると、ルクレティウスが『事物の本性について』第2巻冒頭でみた比喩を思い出すものです——安全な陸地から難破船を眺めること、遠い丘の上から合戦を眺めることは、甘く優美な経験である、という表現。

いやこれはもちろん、私はこの人たちのようにはなれない、という諦めと表裏一体ですし、すれ違う点だけを見つづけるわけにもいきませんが——そうすると生存すら覚束ず、死ぬべきときに死ぬ・命を捧げるべきときにそうすることすら困難になる——、核になるのは徹底的な差、荒れた海原と平穏な陸の差——しかしどちらが陸か?——、であろう、という思いは、30年ほどの人生のうちでいくらか迷うシーンがあったにせよ、確信として固まりつつありますし、多分目をそらしてはならないことでしょう。

なるほど内在の世界における主観的幸福——機嫌よくニコニコ過ごし、家族や尊敬し合う仲間に囲まれ、将来への不安を募らせることもなく、万事楽しく上手く行っている——は多くの場合に模範とされますが、私はそちらの側にいない、というか、全く惹かれない。判で押したような答えは無反省の証左であるとすら思われる(そして、無反省ということは知性を使っていないということで、人間が人間たる所以を放棄しているということでもあります)。そういうものを求めてもよいけれど、それは高々数多ある通過点の可能性のひとつに過ぎない、ということを逐一確認しなくてはならない(そうしなければ忘れうるから)。

そうした「幸福」よりは、垂直的な道徳に厳しく貫かれた、知性を最大限に生かす、何の役にも立たないのに「死んでも可い」と思えることがらに専心しつづける(そして、あわよくば死ぬ)、そのような意味での愛に満ちた生活、ないしは愛へと捧げられた生活が望ましいと思われるものです。