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【551】これくらい読めなきゃアウト? Finleyのイヤミを読みとろう

ほんの一節の英文から(ごく禁欲的にやっても)これくらいは読むことになる、ということの実演であり、日本語においても、とりわけ然るべき著者によって力を入れて書かれているものについては似たような態度をとることになる、ということです。



■【母語なら読めるというわけではない】

解釈をいちいち書き出すということは稀ですが、極めて大げさな言い方をするなら、一瞬で以下に示すくらいにわかることで、やっと文章を読むための前提に立てる、ということでもあります。

もちろん人によって拘るところに差は出ますが、少なくとも内在的に読むにしてもこのくらいは抑えたいところですし、私が受験生に解説をするときにはこれくらいをドバドバ喋り、またプリントとして配布しました。「わかるでしょ」で済ませてもみんな分かっていない(あるいは分かったと思い込んでいる)からには、冗長なくらいに情報があったほうがよいのですし、そのほうが多くを掬いきれるものです。

付言するなら、こういった読みは、「代わりにやってもらう」ことが極めて困難です。手ずからテクストにあたって訓練するよりほかありません。文章を解釈し注釈をつけることができない(というより設計する人間の側がそんなことを求められない)機械翻訳の限界です。

私が常々機械翻訳の限界を指摘したがるのは、もちろん機械に勝たれると困るから、ということでもありますが(笑)、語学をずっとやってきた人間としては、語学をろくすっぽやっていない人間が「機械翻訳でいいっしょ!」という気分で機械翻訳に頼りきることによって招来されうる悲劇が大変厭わしく思われるということです。

それは、「母語なら何でも読める」という致命的な錯誤が蔓延していることに対する憂鬱でもあり、部分的にはここに胚胎する、自然言語を主に用いる分野について専門性を軽視する傲慢に対する憂鬱でもあります。


内容はここまでで、以下は実践編です。

ごく普通の、受験英語水準で読めるはずの英文です。別に機械翻訳にかけていただいてもいいですが、かけたところで十分に読めるとは限りませんし、はっきり言えばDeepLでは誤りだらけでした(例えばdemocracyを「民主主義」と訳すのはかなり大胆です)。こと訳語やレトリックに対する繊細さが要求される(≠明晰さを軽視する)人文学においては、こうしたささやかな誤りが致命的ですし、これは実のところ理系の論文でも変わらない部分があります。機械翻訳を用いるにしても、適宜原文と対照して修正する必要がある、ということは、最初から原文で読んだほうが速いのです。

■【英文】

というわけで英語を読んでみましょう。以下の文の②は訳してみてもよさそうなものです

①It was the Greeks, after all, who discovered not only democracy but also politics, the art of reaching decisions by public discussion and then of obeying those decisions as a necessary condition of civilized social existence. ②I am not concerned to deny the possibility that there were prior examples of democracy, so-called tribal democracies, for instance, or the democracies in early Mesopotamia that some Assyriologists believe they can trace. ③Whatever the facts may be about the latter, their impact on history, on later societies, was null. ④The Greeks, and only the Greeks, discovered democracy in that sense, precisely as Christopher Columbus, not some Viking seaman, discovered America.
(M. Finley, Democracy Ancient and Modern, 2nd ed., Rutgers University Press, 1985 (1st ed., Chatto & Windus, 1973) pp.13-14.)

【①の注意点】

①It was the Greeks, after all, who discovered not only democracy but also politics, the art of reaching decisions by public discussion and then of obeying those decisions as a necessary condition of civilized social existence.

文法上は問題ないはずです。いわゆる分裂文(cleft sentence)が用いられています。It is A that~という形式です。the Greeksが強調されて、彼らこそが「デモクラシーのみならず政治を発見した」と言われているわけです。そしてpolitics「政治」の説明として、コンマ以下でthe art of [...]と説明されています。

なおIt is A that ~という構造は「強調構文」と呼ばれることがあり、日本語で書かれた文法書においてもそう説明されることがしばしばですが、私は「強調構文」なる言葉を使いません。理由は2つあります。第1に、Cobuildなどの英文法書にcleft sentence、cleft structure、cleft clauseなどの言葉がせっかくあるのですから、これを訳した語を使えばよい、という判断があります。第2に、強調を行なう手法は倒置にせよ助動詞doを加えるにせよ色々あるわけで、It is ... that ~やIt is ... who~は別に「強調」の代表格というわけではないためです。

さらに細かいこととして、thenの意味は大丈夫でしょうか。超・大雑把に言えば、thenは、「それゆえ(帰結)」「そのとき(時点)」「それから(順序)」のいずれかを意味します。だいたいこの3つで中心的なアイディアは尽くされますし、訳語もこのヴァリエーションで片付きます。

ここでは、「政治」がいかなる「技術(art)」であるか、ということについて、of reaching decisions by public discussionという行為に引き続いて、つまり「それから」of obeying those decisionsという行為に至ると言われている。そうした「技術(art)」であると言われているわけです。

こうした「技術」としての「政治」を、「文明化された社会生活の必須条件」として(as)ギリシャ人は発見した、ということです。

以下内容について。

「政治(politics)」と言うと、国会の喧々諤々や、選挙や、右や左や、国際関係や、社会保障や、その他諸々を指すかに見えますが、それは根本的には「政治」ではない、ということを踏まえて持ち出されている文です。

では何が「政治」か。Finleyは「文明化された社会に生きるものの必須条件としての、公の議論によって意思決定へと至る、そして然る後にこれらの決定に従う技術のこと(the art of reaching decisions by public discussion and then of obeying those decisions as a necessary condition of civilized social existence)」と規定します。これが西洋社会の「政治」の本来の定義と言ってよいでしょう。

西洋語においてすら、「政治」を指す語は基本的に外来語です。古代ギリシャの特殊な形態をとる都市国家を指す「ポリス」の語の形容詞形であるpolitikon (複数形:politika)を、各国の言語的事情(スペル・発音)にあわせて概ねそのまま音写したのが、politicsです(仏語もpolitique、伊語もpolitica、独語もPolitik、等々)。つまり「政治」はもともと「ポリス的なるもの」です(例えばシュミットらの政治の定義はこの点、歴史的には誤りです)。ポリスで行われていた決定と決定への服従のありかたが参照されて、politicsと呼ばれる、ということです。

アリストテレス『政治学』第1巻における人間の定義は、zôon politikonというものであり、「社会的動物」「政治的動物」などと訳されることもありますが、「ポリス的生物」といった趣きですし、このように訳す(というかpolitikonについては訳さずにおく)ことが、「政治」「社会」といったそれ自体極めて曖昧な言葉を用いるよりはいいと言えるかもしれません。

なお、Finleyが言う意味での「政治」が生まれた理由・直接的な原因については、不明です。突如としてポリスが発生し、そこに「政治(=ポリス的なるもの)」と言われるものが発生しました。思考停止ではあるにせよ、「奇跡」とさえ言われることがあります。この条件、何が政治を成立せしめたか、ということについては木庭顕『政治の成立』(東京大学出版会、1997年)に詳しいのですが、一定程度込み入った書籍なので、恐らく同著者の『ローマ法案内』の冒頭付近から読んで、気になる箇所を参照するほうが速いとは言えます。

【②の注意点】

②I am not concerned to deny the possibility that there were prior examples of democracy, so-called tribal democracies, for instance, or the democracies in early Mesopotamia that some Assyriologists believe they can trace.

be concerned to doはもちろん「~する気である(そういった関心がある)」ということですが、それ以上に重要なのは文末のthe democracies in early Mesopotamia that some Assyriologists believe they can traceという箇所です。

勉強のある程度進んでいる人ならおわかりの通り、英語学者オットー・イェスペルセン言うところの「関係連鎖(relative concatenation)」ないし「連鎖節(concatenated clause)」です(O. Jespersen, Modern English Grammar on Historical Principles, III, 10, 7)。受験業界では「連鎖関係詞節」と呼ばれることもあります(が、Jespersenの代表作である上記著作にはこのかたちでは出てきません。他の著作にはあるかもしれませんが)。イェスペルセンはもう著作権が失効しており、Internet Archiveでほぼ全著作をダウンロードできますので、英文を真面目に読む気があるならば、少なくとも手元に置くことが推奨されます。

これは著名な基礎事項で、受験業界でも知られているものですが、実は『ロイヤル英文法』や江川泰一郎『英文法解説』といったスタンダードな文法書には記載がありません。もはや少々古めかしい受験文法的な用語と言えるのかもしれません。CiNiiで「連鎖関係詞」と入れて調べてみると、タイトル検索で4件、本文検索で3件しか論文が見つかりません。私の卒業した高校はわりと英語に力を入れていて、海外大学への進学者を多数出しているようですが(否、だからこそ?)、学校でこの語を教えてもらった記憶がなく、高2の冬か高3の春くらいに予備校で聞いたのが初めてです。

イェスペルセンによれば、「関係詞節は他の節に連鎖せしめられる、あるいは織り込まれうる。最も単純な事例は、say, hear, fearなどのような動詞の後に置かれる内容を示す節(content-clause)である」(III, 10, 7, 1)。

文章に戻ると、believeという動詞の後に「内容を示す節」つまりthey can traceが置かれているということです。believeやらknowやら、多くの場合に名詞節を従える信念や知覚や知識に関する動詞と、それに対応する主語が、関係代名詞の直後に置かれて全体の内容を充填しうる、ということです。

つまり、

some Assyriologists believe (that) they can trace (the) democracies in early Mesopotamia

という内容が背後にある、と考えたうえで適切に訳す、ということになります。thatにカッコを付けたのはこれが連鎖関係詞節を用いた表現において消滅するからで、theにカッコをつけたのはこれがもともと(関係詞節による)限定を反映した定冠詞である以上、この語順にする場合にはtheを省略するほうが適切だからです(新情報であって限定されないので、寧ろ無冠詞複数が適切。仏語なら不定冠詞複数)。

the democracies in early Mesopotamia that some Assyriologists believe they can traceは、たどたどしく左から右へ説明するなら、初期メソポタミア(文明)におけるデモクラシーの諸形態というものが想定されており、これについては、あるアッシリア学者たちが何らかの信念を抱いている(believe)のだが、その信念とは、they can traceということである。何をtraceするのかと言えば、(the) democracies in early Mesopotamiaである、ということです。

ここでは、「いくらかのアッシリア学者が信ずるところでは彼らが辿ることができるという、初期メソポタミア(の文明)における様々なデモクラシーの形態」とでも訳しうるでしょう。

この箇所では、関係代名詞としては目的格のthatが用いられており、traceの意味上の目的語がthe democracies in early Mesopotamiaだ、ということになります。

以上を踏まえて②の全体を訳すと大体次のような感じです。

「私はデモクラシーの先例が存在する可能性を否定しようとは思っていない。たとえばいわゆる(so-called)部族のデモクラシーとか、あるいは、いくらかのアッシリア学者が信ずるところでは彼らが辿ることができるという、初期メソポタミア(の文明)における様々なデモクラシーの形態とか、のことである。」

なお「いわゆる」と訳したso-calledという表現は、割りと明白に侮蔑的(pejorative)な意味あいを含みます。簡単に言えばイヤミです。「自称~」くらいの意味で、たとえばthe so-called expertsという表現を用いる人から見れば、その集団は専門家を自称しているに過ぎず、実態としては専門家ではない、という判断があります。

もちろん20世紀後半にこの文章を書いているFinleyはここで、一般に世界が古代ギリシャを起源とするはずのデモクラシーを受け入れるふりをしていること、そしてこの意味でのデモクラシーはそれ以前の他の地域には見られないということを踏まえたうえで、にも拘らず「デモクラシー」をギリシャ以前の他の地域・時代に見出すのはダメだよね、と言っているわけです。本当にFinleyがギリシャ以前にもデモクラシーが・デモクラシーと名指してよいものがありうると本気で思っているならば、so-calledなんて付けません。

先程見た関係連鎖の周辺でも、似たようなイヤミが確認されます。アッシリア学者のなかには自分たちがアッシリアにおいてデモクラシー(らしきもの)を辿って見つけることができる(can trace)、と「信じている(believe)」とわざわざ書かれていますが、これもイヤミの類だということです。書いているFinleyの判断としては「一部のアッシリア学者は(アッシリアに)デモクラシーを見つけられるとか思い込んじゃっている・信じちゃっているみたいですけと、それ、実はデモクラシーじゃありませんから~! 残念でした!」ということです。こうした意味合いがsome Assyriologists believeという3語に込められています。だからこそ直後の③の記述が生きるというものです。

③に行く前に、イヤミを補って超訳するなら次のような感じでしょう。

「まあdemocracyの名で呼ばれているものも他にあるようですが、そんなものはよくわかっていない人が勝手にdemocracyとか言っているだけで、『自称』に過ぎないんです。ここで私は、そういったものがdemocracyの『先例』が(つまりギリシャよりも前に)存在する可能性を否定しません、とは言っておきます。しかし、それはあまりにも明らかで、取り合うだけ紙と労力が無駄からそうしないだけです。そうした『先例』はほんとうはdemocracyなどではないんですよ。我々の言うdemocracyが、実際そうである通り、ギリシャに起源を持つというのならね」というくらいのものです。

もちろんこれは大げさですが、初見でこのくらいの内容まで読めると良いです。これは機械翻訳がいくら発達しても、言語に対する感覚・慣れなしには読み取りづらいものかもしれません。

【③の注意点】

Whatever the facts may be about the latter, their impact on history, on later societies, was null.

この文は前文の補足です。ということは、イヤミが際立ちます。

the latterが何かを明確に指摘するのはビミョーで、前文における要素のうちのthe democracies in early Mesopotamiaを含むのは確実ですが、so-ccalled tribal democracyが含まれるのかは判断に困ります。つまり、ギリシャ人のdemocracyに対する「後者」なのか(つまり第1文に対する第2文という意味での)、前文で言われている2つの例のうちの「後者」なのかは若干特定しづらいということです。逆に言えばどちらで読んでも大した影響はないということですが、「大した影響はないな」と判断して進むか、あるいは「わかんないけどま、いっか~、プルンプル~ン」で済ませるかでは大きな差があります。なお「後者」と訳して満足した瞬間にこうした逡巡は無に帰され、つまり頭を使う可能性が一個抹殺されます。

とまれ、このlatterが複数形で受け直されてtheir impactと言われます(アッシリアのほうのみを指すにしても、democraciesと複数形になっているので、theirで受けなおせるというわけです)。

つまるところ、(部族のいわゆるデモクラシーがどうであれ、また)アッシリア学者がなんと言おうと、そして彼らが古代ギリシャ以前の「デモクラシー」として提出しようとする社会がどのような実態を持っていたとしても、それらが歴史や後世の社会に持っていた影響は「無であった」と言われています。「無であった」ということについては、はっきりと「事実」と考えられていることがわかります。ここからも、第2文においてFinleyが実はギリシャ以前にdemocracyを見出そうとする試みを実はおおいにバカにしている、少なくとも現代のdemocracyにつながらないものと見ていることは明らかです。

「無である」ということは、メソポタミアにあったとされる社会のありかたはなんであれ、現代のデモクラシーに関係のあるものとして「デモクラシー」と呼ぶのは全く適当ではない、ということで、Finleyは暗にそう主張しています。

nullは「無である」ということで、これはデータベースの勉強なんかをするとでてきますが、値がない、ということで使いますね。契約なんかについてはnull and voidと言うと「いっさい無効である」という意味の強調表現になります。

【④の注意点】

最後の文は次のようなものです。

The Greeks, and only the Greeks, discovered democracy in that sense, precisely as Christopher Columbus, not some Viking seaman, discovered America.

このsome Viking seamanという表現におけるsomeの意味は大丈夫でしょうか。単数形の前についているので、数に関する修飾ではありませんが、問題ありませんか(いやあ、このsomeを、DeepLは完全に訳し落としました)。あるいは、in that senseのthatにはどういう含みがあるかわかりますか。

このsomeは、(筆者・話者に)詳しいことが知られていない(知りようがない)、誰かしら・何かしらと言うための形容詞です(誰であるか知っていて隠す場合にはcertainを用います)。「イクツカノ~」ではありません。someを見て即座に「イクツカノ~」ないしは「……ナモノモアル!」と機械的に反応するのはやめましょう、という話です。知っている・知らないという点はもちろん重要ですが、知らなかったとしても、「知らない」ということに気づければ問題ありません。すぐに辞書を引きつくして、「生まれたときから知ってました」みたいな顔をすればよいと思います。

要するに、仮に誰かもわからないような、誰でも良いけれども「海賊」がコロンブスに先立ってアメリカ大陸を発見していたとしても、その発見は歴史的にも後世の社会にも全く意味を持っていない、寧ろ世界を変えるような発見として機能したのはコロンブスによる発見と言えるではないか、ということです。(なおVikingを「海賊」とするのは、8~11世紀に北海を中心に活動した「ヴァイキング」とアメリカ大陸の発見をつなげるのは少々突飛だからです。名もなき「海賊」を提喩的に意味している、という判断です。もちろん訳の水準では「ヴァイキング」としてもよいでしょうし、仏訳はこの方針です。)

これと同じように、②の文に言われたようなかたちでギリシャ以前にデモクラシーがあったと考えるにしても、それは(③に言われたように)歴史や後世の社会に対して意味を持っておらず、寧ろ意味を持つデモクラシーの起源は(古代)ギリシャ人のそれであるのだから、この意味おいてギリシャ人こそがデモクラシーを「発見」したと言ってよい、ということです。

似たような例としては、活版印刷の「発明」があるかもしれません。グーテンベルクが活版印刷の発明者とされますが、東アジアに既に活版印刷術はありました。しかし東アジアは手書き書写や木版印刷がずっと優位を占めており、歴史的インパクトという点ではグーテンベルクの圧勝です。この点、活版印刷がドイツ語訳聖書の急速な普及を可能たらしめ、宗教改革の駆動力となった、ということは有名です。ルネサンスの三大発明つながりでいけば、羅針盤はなるほどルネサンス期に大いに改良を遂げましたが、原型は中学にずっとあったようです。しかし歴史的インパクトの点ではルネサンス期の改良が圧倒的でしょう。あとは、遡って後漢の蔡倫も、教科書レヴェルならもはや製紙法を「改良」したと書かれることが常ですが、場合によっては蔡倫を以って紙の「発明」とすることもあります。

thatは翻ってこうした意味において、ということです。つまり③を踏まえて、歴史的に・後年の社会に対して影響を持つようなかたちちで、ということです。