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【263】哲学書の「まとめ」で満足する人たちへ

別に満足していても良いのですし、表面的に見れば別に良い悪いの問題ではないのですが、文章を、とりわけ哲学やら文学やらのテクストを読むときに、「まとめ」だけ読んで満足するのは(ときには危険であり)非常にもったいないよ、というお話です。

一部、次の記事と重なります。(【167】名言コレクターが落ちる罠(cf.『アイカツスターズ』第73話)

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


何であれ音楽を聞かれたことのある方は多いと思います。

そして、音楽について語ったなにがしかの文章を読まれたことのある方も多いと思います。

とりわけクラシック音楽などは、歴史があり、演奏する側にとっても聞く側にとっても、曲の背景や内容を分析する必要性が高いので、語りたがる人も当然増えます。

当然のことですが、そうした人たちの書いた文章を読むことと、題材となっている音楽を聞くことは、全く異なる体験ですよね。

良い悪いの問題でも、優劣の問題でもありませんが、何か音楽について言及している文章を読む経験は、楽譜を読んだり演奏を聞いたりする経験とはまったく異なる、ということは言えるでしょうし、すんなり受け入れていただけるのではないでしょうか。


あるいは絵画について。

美術史に関して興味を持った人が色々と書いてくれている情報はインターネット上にもありますし、専門家による論文は簡単に手に入れることができます。ときには縮小コピーされた図版というかたちで絵が載せられていることもあります。

しかし、絵についていくら言葉を費やして説明されても、また絵の縮小コピーなどとともにそうした説明がなされていても、そうした説明を読む経験は、実際にナマで実物大の絵を見る経験とは全く異なるものです。 

ルーヴルにあるダ・ヴィンチの『洗礼者ヨハネ』のスフマートの繊細さは、画集などでは全く失われてしまいます。そもそも画集にはサイズ上の限界があって、クリムトのおおぶりの絵画やフリースを現地で見るのと同じ経験をもたらしてはくれません。一般にマチエールのありかたは現地でみないとなかなか感覚として分かりづらいものです。

もちろん、ナマで絵を見る経験の方が価値のあることで、それに関して言葉を弄するのは意味がない、などと申し上げるつもりは全くありません。

論文や評論に見える色々な説明や分析は、スペースにゆとりがあることも手伝って、美術館で付けられているキャプションよりもずっと詳しいことが多いので、学びの機会になるでしょう。

ともかくも実際に見るのと、絵に関する説明を小さな縮小コピーと一緒に読むのとでは、大きな隔たりがあるということです。


フィクションそれ自体に全く触れない人もわりといるようですが、そうでない方を除けば、皆さんも小説というものをお読みになった経験をお持ちでしょう。あるいは漫画でもアニメでも構いません。

そして、話題になっている小説や古典の類が問題になっているときは特に、あらすじのまとめや「レビュー」などをインターネットで確認してから実際に元のテクストにあたる、という経験をされた方も多いかもしれません。

その場合、当然他の人が前もって作ってくれたまとめの類を読む経験は、小説の本文を読む(もとの漫画を読む・アニメを見る)経験とは次元の異なるものです。

どちらが良い悪いという問題ではなくて、テクスト=原文を読むことと、それに関する言及やまとめを読むことは、全く異なる営みだということです。


あるいはレストランのレビューを読むことと、レストランに実際に行って食事を味わってみることも、違う営みです。

レストランのレビューの中には、個々人が言葉を尽くして独特の世界を作り上げているようなものもあり、読んでいるだけでも面白いことがあります。

それはともかく、そうしたレビュー読むことと、実際にレストランに行って食事に舌鼓を打つのとでは、もちろんどちらが良い悪いという問題ではありませんが、営みとして全く質が異なるということです。


以上とほとんど同じように、哲学テクストに関するまとめを読むことと、哲学テクストに実際に取り組んでみることの間には、非常に大きな隔たりがあります。

インターネットで、例えば「アリストテレス 政治学 まとめ」などと調べれば、アリストテレスの『政治学』というテクストに関する要約などが、誤りを含むものからある程度正しいものまで、色々と出てきます。あるいは専門家が書いた書籍の情報がみつかるかもしれません。

これらを一概に「まとめ」と呼ぶことは時宜を得ませんが、少なくとも、私たちをあくまでも間接的にアリストテレスに触れさせる点で共通します。

(「二次文献」と書かないのは、インターネット上の多くの言及が、「一次文献」としてアリストテレスのどの版を引き、どの訳を参照し、どの箇所を引用しているかを明示しないことが極めて多く、研究としての体をなしていないからです。繰り返しますが、それが一概に悪いことだとは思いません。)

あまたある間接的なテクストや「まとめ」の中から、割と正しいものを選び取ることができたとしても、その「まとめ」を読んで得られるものと、アリストテレスのテクストに挑むことで得られるものは全く違う、ということは何度も何度も繰り返し確認して良いことであるように思われます。


そもそも、そうした「まとめ」というものは、特に手軽に手に入る・専門家のチェックが入っていないものであれば、誤っている可能性もかなり高いわけです。そんなものを読めば、私たちの認識も曇ります。

仮に誤っていないとしても、やはり自分の手でアリストテレスを直接読んでみて得られる知見は全く異なったものです。それに、「まとめ」の類には、まとめた人の観点がおおいに入っているのですから、それはあなたがその哲学者に入っていくために、必ずしも適した道ではないかもしれません。

自分で手ずから読めば、より納得のいく、より上手くいきそうな説明を付けることができるかもしれませんし、「まとめ」を一生懸命理解しようとするよりは、初めから自分でアリストテレスを読んだほうが早かった、ということにもなりえます。

別の言い方をすれば、特に「まとめ」が自分にとってクリアでない場合、「まとめ」を誤解して、結果として誤った認識に至る可能性も高いのです。


どのテクストを読むにしても、まとめや解説書・入門書の類から入っていくのは別に悪いことではありません。特に難解な哲学テクストや、割と著作の多い作家などを読むときには、何かとっかかりのようなものがなければ入っていきようがありませんから、いわゆる入門書の類を数冊読んで雰囲気を掴んでから実際にテクストに入っていく、というのは常套手段ではあります。

しかし、実際にテクストに触れずに、「まとめ」だけ読んでわかった気になるというのは、先程述べた理由からそもそも危険ですし、さらに言うなら、実にもったいないわけです。

まとめだけを読んでわかった気になるとか、ともすると「まとめ」をさらに「まとめ」た文章を読んでわかった気になっているような態度は実にもったいなくて、私としてはそうした人々を見ていると、まことにもどかしい気持ちになるわけです。

原文へと進まず「まとめ」で満足するのは、豊かな文化遺産の噂を聞きつけて近くの街まで行くのに、その遺産を直接見ることなく、目録だけを見て満足するようなものです。お手軽かもしれませんが、すぐそこにある宝を見ずに帰るんですか、ということです。

金銀財宝とか、あるいは深みのある美しさのある装飾品とかを見る機会が与えられているのだとすれば、直接それを目にしたいじゃないですか。どうして目録を見るだけで満足しているのか、どうしても私にはよくわからないのです。

もちろん、目録には目録なりの重要な価値がありますし、目録は金銀財宝によってはもたらすことのできない歴史的価値を持ちうると言えます。ある哲学者のテクストに関する「まとめ」というものは、元の哲学者を別の人が読んでいても、なかなか同じかたちでは提出できないものですし、「まとめ」は「まとめ」として、その「まとめ」の著者の独自性を顕示するからには、独自の価値を持つものです。トマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグヌスのアリストテレス註解は、アラビアの哲学者の解釈や、ギリシャ-アラビア-ラテン語というテクストの地層を前提としつつ各々の独自性を開示しますし、ドゥルーズの『何を以て構造主義と認めるか』もまた単なるまとめではありえません。

しかし、例えば私たちがカントのテクストを読みたかったり、カントの主張に興味を持っていたりするのだとして、その主張を丁寧にまとめてくれた人の「まとめ」だけを読むというのは、極端に言えば、結局のところそのまとめてくれた人を読んでいるのに過ぎないのです。「まとめ」を読むことでカントそれ自体に関して得られる経験は、たとえて言うなら、分厚いヴェールの向こうに照らし出された林檎のシルエットをたったひとつの角度から眺めるようなものです。それは林檎を味わう経験とは異なっていて、なるほど繊細な光の戯れを見せてくれるのでしょうが、そのままでは赤い色も、質感も、手触りも、甘やかな味もわからないままだ、というのも事実です。

それはそれで特有の価値のあることではあるかもしれないにせよ、元のカントを読みたいと思わないんですか、林檎に触れて、林檎をかじってみたくはないのですか、という話なのですね。

「まとめ」なんかやったって普通はカネにならないわけですし、研究者も研究者で、「まとめ」ることが難しいことを知っているからには、初学者が入りやすいものを書こうなどと考えるのは既に一定の業績を積んで、もはや業績をとるのにあくせくしなくてよい人だけでしょう(例外はあります)。

そうでないとしても、「まとめ」る人には善意を読み取ってもよいわけですし、価値提供にあたって持たれる最小限の誠意は見いだせるのかもしれません。自分なりに丁寧に説明をしてくれているのでしょうし、よもや本人が悪意を持って間違った内容を喧伝するということはないでしょう(おそらく)。

とはいえ、仮に内容に誤りが含まれないのだとしても、どうしてそのまとめだけを読んで満足できるのか、私にはいまいち分からないのです。

実にもったいないことではありませんか。

先人が用意してくれた「まとめ」があるのならば、その「まとめ」を手引として、元のテクストに当たった方が、より豊かで濃密な経験ができると期待されるのではないでしょうか。

こう言っては身も蓋もないかもしれませんが、特定の哲学者の教説に関する理解しやすい「まとめ」とか入門書の類の殆どは、出されてから10年・20年後にはもう読まれなくなっているようなものである一方、特に古い時代の哲学テクストは数百年・数千年のオーダーで読み継がれてきているのです。明らかに、時の洗礼を経て残っているものの方が、私たちに深く大きな価値をもたらしてくれるとは思いませんか。


もちろんこれと並行して主張できるのが、さらなる時間と精神的なコストを支払わねばならないものですが、テクストを原語で読んでみることの価値です。

私が専攻している西洋思想史ではもちろん、日本語で書かれている一次文献などというものは存在しないわけで、研究するためには当然いくつか外国語習得しなくてはならないわけです。

私の経験からいっても、そして西洋哲学や思想史や文学を専攻している人なら誰でも言うことだとは思いますが、翻訳で文章を読むことと、原語で文章を読むことは、全く違う経験です。

どちらが良い・悪いという問題ではありません。研究をするのであれば原語で読まなくてはいけませんが、まあ専門にするのでなければ、別に原語で読む必要はないでしょう。

とはいえこの二つは全く違う経験ですし、しかも原語のほうが翻訳よりも基本的には広く共有されていて息が長い——翻訳は頻繁に刷新されますが、原語の版は特殊な場合、つまり校訂に問題が生じる場合、は別として、基本的には変わりません——からには、原語で書かれたテクストに直接触れる方が、より豊かな可能性を開く、と考えるのが常道でしょう。

もちろん、さすがに原語でテクストを読むというのは、専門家かそれに準ずる人でないとなかなか難しいことですから、哲学なんかに触れたがる人がいちいちドイツ語やフランス語やラテン語やギリシャ語を勉強しないからといって、それが必ずしも「もったいない」とは思いません。時間と精神的リソースは有限ですから、配分は考える必要があるでしょう。

とはいえ、勉強してみたらもっと広い世界が開けるのになあ、ことによると「まとめ」なんかの真偽をたやすく看破することさえできるようになるのになあ、と思わずにはおれません。


実に哲学テクストに関する「まとめ」は世の中にあふれていますし、需要があるからこそあふれているのでしょう。

その需要はおそらく、読む側としては「知りたい」ということでしょうし、原文にすすむという作業がそのニーズを深いかたちで満たしうるよ、ということでした。

「じゃあ読むほかなくね?」と私などは思うわけですし、読まないなら、そもそも「まとめ」を読んで得られる経験も、あなたの精神にははかばかしい痕跡を残さないのではないかしらん、と疑われるわけです。

「まとめ」ている人とて、自分の理解のためにまとめている場合もあるのでしょうが、おそらくは元となる哲学テクストへと誘うためにこそまとめている、と捉えておくのが、善意ある読解というものでしょう。であるからには、原文へと進むほうが、「まとめ」を作った人も喜んでくれるかもしれません。

『徒然草』第52段の例で言うのなら、つまり石清水八幡宮に行ったつもりが、山麓の神社と寺で満足して、山の上にこそ八幡宮があるということを知らずに帰ってしまった仁和寺の法師の例を思い返すのなら、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」ということであって、先行者がいる・水先案内人がいるというのは、大いに助けになります。

少なくとも「まとめ」があってそれを読んでいるということは、「まとめ」のネタになった元のテクストがある、ということを皆さんは承知しているわけです。仁和寺の法師とは違って、山の上にこそ八幡宮があるということは知っているわけです。しかも、巧みであるかどうか・誠実であるかどうかは別としても、何はともあれ先達は、自分よりも後に来る人たちの便のために「まとめ」を書いて、手引きとしてくれているのです。

少なくともその人たちの話を聞いたり、その人たちの書いたものを読んだりするくらいの労力を惜しいと思わないのなら、もう少し頑張って、自ら階段を踏みしめて上り、八幡宮=元のテクストを見てみてもよいのではないでしょうか。

つまり先達が作ってくれた目録や、先達の体験談を読んで満足するのではなくて、先達の言うことを手がかりに、実際に八幡宮に、テクストに赴いてみてもよいのではないでしょうか。

もちろん、いわゆる「まとめブログ」のような、芸能人がどうだとか政治家がどうだとか、あるいは最近の事件がどうだとかいう、私たちの知的な生活において波及効果があまり高くないようなものであれば、「原文」に遡る必要は大きくないことが殆どでしょう。

しかし、人類の知的遺産に関して(巧拙はともかく)「まとめ」を提供してくれる人がいるのだとすれば、それを足がかりに、どんどん元になるテクストの方へと、「八幡宮」へと足を向けるほうが良いのではないか、と私などには思われるわけですし、そうしないのは中途半端で実にもったいないな、と思われるわけです。


もちろん、こんな態度は流行りませんよ(笑)。

キツいですし、時間は使いますし、哲学テクストへの立ち向かい方は基本的には大学の中でしか伝授されていませんし、簡単に文字で伝えられるものでもありませんから、そもそもアクセスが容易ではありません。

運動や(もっと基本的な)勉強と同じで、最初は筋肉痛になります。脳神経が焼ききれるような感覚を味わうことになるはずですし、勿論頭も痛くなります。

しかしその点を乗り越えれば(あるいはそうした或る種の苦しみに慣れることができれば)、深い水準でのリターンは確約されています。

運動を通して得られる堅牢な体や、学歴と同じように、得たものにしか見えない景色が、触れた者にしかわからない世界があるのです。そうしてアクセスできるものになんとなく興味があるのなら、「まとめ」で満足せず、原文に進むための第一歩を、今踏み出されてはいかがでしょうか。

■【まとめ】
・「まとめ」を読むことと、原文を読むことは、似て非なる経験である。どちらが優れているということはないにせよ。

・「まとめ」で満足するのは、そもそも手軽に得られる「まとめ」が誤っている可能性を考慮するなら、危険である。

・さらに、「まとめ」で満足するのは、財宝や遺産の目録だけを眺めて満足するようなものであり、また先達が教えてくれているのに石清水八幡宮まで登らないようなものであって、非常にもったいない。

・そもそも、原文のほうが基本的には時の洗礼を経て生き延びているからには、長くても数十年しか生き延びない「まとめ」を読むよりも、原文から私たちが引き出せるものは、良質で量的にも多いと思われる。

・仮にも「まとめ」に触れようとする気があるのなら、もう一步進んで原文へとアクセスすることを考えてみてもよいのではないだろうか。