見出し画像

【812】「歯切れのよさ」にご注意!

極めて広義の教育にあっては、もちろん或る種のリーダーシップを発揮するために自信満々なfigureを装うこと、「私についてくれば大丈夫!」という安心感を与えることにはそれなりに意味があります。

「勉強法」はもちろんある程度重要ですが、迷いなく時間を投下するという決断を(極めて多くの場合無意識に)なしている人こそが「勉強法」を最も効果的に活用できるのですし、どんな方法であれ(まともな方法であれば)時間や労力をかけることを前提します。言い換えるなら、時間や労力をかけると決めることが根本的な方法であり、これは教師の領分を超えます。

これを教えることはどこまでいっても教師にとっては副次的な作業ですし、謂わば(重要な)ガワです。あるいは教育以前の問題であって、教育の中身ではありません。そうしたガワだけをつきつめれば或る種の「コーチング」になりますし、それにはそれなりの意義があると思われます。教師にもそういった要素を学ぶことは必要でしょう。

しかし、教師が教師を名乗る限り、そこに、つまり勉強以前の内容に傾斜しすぎることには注意が必要でしょうし、内容それ自体の「伝え方」という点において、受け手を(内容の正しさと無関係に)魅惑するような態度をとることには特に注意が必要でしょう。


たとえば、歯切れのよすぎる説明を求めてはならないということです。

多くの基礎的な事項は難しいからこそ基礎なのであって、本当は言い切ることの難しい内容がたくさんあります。無論思い切りがよい・大胆に言い切るほうが教わる側を混乱させずに済むということはありますし、説明を簡素に済ませることが全体をオーガナイズするうえで重要ということはしばしばです。

もちろん、わかっていてやっているのならばもちろんよい、というかそうする部分を慎重に選んでこそ模範的な教師になりうる可能性が部分的に開かれます。或る種の言い切り型の「リーダーシップ」を発揮するだけでも、生徒はやる気になっちゃったりしますし、したがって自習をはじめることがありうるので、効果は出ます。

しかし、こうした態度は様々に問題含みです。まず、簡潔に言い切ろうとする態度は或る種教わる側の能力を軽んじて(バカにして)こそ成り立つ、ナメくさった態度に通じます。「どうせ君たちにはわからんからこのくらいの説明にしておくよ」という態度に通じるということです。そればかりではなく、単に誤りですらあります。

それに、どうやらマジでわかっていない、本当に言い切れると思って大胆に言い切っている、そしてそうした知識や思考の浅さが如実に授業以外のアウトプットに出てしまっている、という教師は、残念なことにしばしばいます。

(予備校で言えば、解答速報なんかを見れば、そして解答速報を誰が書いていて、その人がどのような授業をしているかを見れば、この点に関してどういったバランス感覚を持っているか、あるいは持っていないか、ということは如実に明らかになります。あるいは話してみることで明らかになることも珍しくありません。)

そうなってしまうと、もうダメです。不治の病です。治りません。

教師でも講師でもよいのですが、情報の非対称性を利用する職業は、金銭の授受以上の精神的な関係を醸成します。生徒は教師を慕うのですし、教師は慕われて嬉しくなってしまうのですね。

——もちろんこれは極めて不健全ですから、慕われて嬉しくなってしまう人間は人にものを教える職業についてはならないと思いますが、とまれわざわざ教師になる人間にはこうした不透明な権力関係への執着があるのですし、「私にはありません!」と断言して自らの純粋さを主張できてしまうような人間は単に廉恥心と反省能力が足りません(つまり道徳と知性において致命的に欠ける部分があります)。

とまれ慕われてしまうと、そこが気持ちよくなってしまって、もう色々内容を考える必要はなくなってしまうというなりゆきです。そのラインを維持できればよいということになります。予備校なんかだとこれは深刻で、教わる側は抜けていって生徒が毎年入れ替わるので、教師の側は下手をすると中身をほとんど更新しなくてもやっていけてしまう。慕い、慕われるエコノミーは毎年更新されます。……

なるほど、目立った損はでないかもしれません。しかし、「だから良いじゃん」とやっていると、致命的でない、あるいは試験で点数をとるとか当座の金を儲けるとかいうクソ下らない目的のためには有害ではない、そうした小さな小さな誤謬を積み重ねたまま進むことになるでしょう。大胆に言い切ることで切り落とされてしまうもののに気づかぬまま、大胆に言い切り続けることでしょう。先細りでなくてなんなのでしょう。

無論小さな誤りは、誤りと意識されていない限り、つまり注意深く統御してあつかわない限り、大きな誤りに結びつきます。アリストテレス『天界について』第1巻第5章はもちろんこのことをいいました。真理からわずかでも逸脱すると、遠く離れた人々にとっては万倍もの隔たりになるのです。万倍の隔たりになったら、もう手遅れです。

……だからこそ、そうした水面下出進行する腐敗を避けるためにも、少なくとも潜在的には歯切れの悪い部分を持っておく必要があるのですし、歯切れよく語るときにはそこで何を噛みちぎってしまっているかを強く念頭に置く必要がある、ということです。


翻って受け手の側にもリテラシーは必要です。歯切れのよいものに胡散臭さを感じるだけの知性が必要です。

もちろん人間は極めて愚かなので、広い意味のガワを見て中身を判断してしまう(判断できる気になってしまう)のですが、このふたつの能力は本質的に別です。

内容が根本的・基礎的なものほど難しいのですし、難しいものであればあるほど、一点突破に賭けた直線的な議論は困難になります。快刀乱麻を断つ如く断言することも難しくなります。色々と迂回しながら、ああでもないこうでもないという仕方で語る必要が出てきます。つまり必然的に歯切れが悪くなります。

もちろんそれを歯切れが悪いなりにきちんと整理するのは伝える側の義務ですが、整理すればするほど再現性は落ちていきますし、内容しか伝わらない——つまり内容を手にするための経路は隠蔽される——ということになります。だから、内容にも、内容から不可分な、内容の背後にある論理にも誠実な人は、しぜんと歯切れが悪くなります。

テレビに出ている専門性ゼロの方々のズバッと切るような物言いに、あるいは綿密な情報の整理も推論も不可能な短文SNSの大胆な物言いに、何かを感じる前に思うべきは、およそこうした事情でしょう。

とかく断言する人間の、ショッキングなことを言う人間の言葉は聞かない、ということが大切になります。もちろんこうした断言についても、眉唾モノとして受け止めるのがまっとうな態度でしょう。


留保を加えるなら、軽薄な中立や、馬鹿げた相対主義や、自分の知性に愚かな自負心を持つ人が提出しがちな「どっちもどっち」論を言いたいわけではありません。

前提を共有したうえで適切かつ多面的に推論を行える人の話でなければ聞く意味がない、ということです。

そうした推論の帰結としては、無論、歯切れが悪いながらも、強い傾向を持った意見が押し出されることもあるでしょう。そうして迂回と屈折を経た議論であれば、賛同すべきであるかどうかはともかく、少なくとも傾聴には値するということになります。

これに対して、パッパッと歯切れよく言い切るタイプの主張はだいたい無価値でゴミだ(が、私たちはそうした簡潔さを頼もしく思ってしまう愚かしい傾向を持つので注意しなくてはならない)ということです。


……というのは、先日主催した勉強会で色々と予想外の質問が出て、私の歯切れが悪くなったことに関する私的な言い訳です。いやいや、これはもちろん私の修行が足りていない部分が大きいのです。