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【342】意図と内面の短絡を弾劾する、それでも

表現は、思考ないしは意図というものを、特に法的な場面においては十分正当な形で推定させるということになっているのですが、内面を特定するわけではありませんし、本来はそんな役割を持ちません。

表現にも色々なレベルがありますが、例えば刑事裁判の場面では、包丁を持って相手を刺した人間の殺意の有無が、量刑にあたり大きな問題になります。

殺意の有無は、文字通り「意図」——Absichtないしintentionに類する語の訳語としての——に関するもので、「意図」は字面からは私秘的に見えるものです。しかし、裁判においては「意図」を周囲から判断可能な次元に引きずり下ろさねばなりません。ですから、本人の自白のみに依存するのではなくて、包丁の持ち方とか、傷の深さとか、揉み合いの状況とか、そういったものから総合的に殺意の有無が判断されるわけです。

こうして「意図」は外的な事態から事後的に構築され、司法はその構築作業を行うわけですが、それは必ずしも本人の主張とぴったり重なるということを目指すものではありませんし、そうする意義もない(ばかりか、それは不可能である)ということです。本人の主張ないし表現は、あるいは本人の「内面」に係る表現は、総合的判断の対象としての「意図」を構築するための、数多ある根拠のうちのひとつにすぎない、ということです。

こんなことから出発して。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


とはいえ、このように総合的に措定された「意図」の類は、もっと日常的な場面においては、個々人が特権を持つはずの「内面」と短絡されがちですし、そうした短絡には、極めて危険な場面もあるのではないでしょうか。

行動や表現の側から推測されたものでしかない「意図」を、個々人の内面(に関する再帰的判断)と短絡したがる、そうした暴力が見られるものです。総合的に「意図」を推定して構築するのはよいにしても、それは内面、ないしは行動の主人が思い描いている像とは異なっていることが往々にしてあるというのに、両者を短絡することがごく一般に通用している、ということです。

裁判においてすら、「そのときの私に殺すつもりはなかった!」と言い張る被告をよそに、痴情のもつれがあったとか、包丁の持ち方が力の入る持ち方だったとか、傷が明らかに深かったとか、被告の日記記述とか、そうした総合的な事情から、「いいやお前は殺したいと思っていたのだ」と、内面の側を決めつけ、被告の主張に虛偽を見る可能性すらあるでしょう。

判断(判決)と命令の水準では不可視の内面を特権視することはできない、なぜならそうすると外的な判断がそもそも成立しえないから、というのはよいにしても、総合的判断の結果としての構築物が触れえないはずの内面へと短絡される、というのは深刻な倒錯と言えるでしょう。判断可能なものとして外的に構築された「意図」を、本人の内面と短絡し混同する、真に許しがたい暴力が蔓延しているというなりゆきです。

無論本人の「内面」とて、本人が自らに向けて言語的に表現して初めて確たる姿を取りうる点、表現としてどの程度の特権を持つかということについては緻密な場合分けと議論が必要になりますが、いずれにせよ、構築物としての「意図」と、ときにbrutでcrudeでunrefinedな、あるいは少なくとも秘されて本人にしか手の届かないところにある「内面」の間の区別が曖昧なままに忘却される、そうした奇怪な事態が、しかし珍しくないというなりゆきです。


日常的な例。……

仲睦まじく手をつないで歩くカップルを見れば、やはりその背後に「愛」を、もっと陳腐な表現を使うなら「恋愛感情」を想定しうるものですが、振る舞いの一切が表面的なコスプレでありモノマネであるという可能性、内面が着いてきていない可能性は常にあるものです。表面的なトレースは、実に容易です。

現在の日本ということに話を絞れば、恋愛関係における振る舞いは極めて高度に形式化・規範化・儀礼化されているので、規範をなぞって模範的な行動をとることは極めて容易いものです。

もちろん、常識的に言えば目の前にいる個人を見て対応することこそが(所謂恋愛に限らず)重要になるはずですが、その目の前のたったひとりの個人のほうが、そもそも異様なくらいに規範に従った行動を要求してくる、ということは皆さんも経験をお持ちのことでしょう。(恋愛に限らず、友情であれ何であれそういう面はかなり強いのですが。)

そうしたときに、少なくとも規範を疑えるくらいに反省能力を持っている人間は——この懐疑は知的能力の問題でもありますが、同時に単なる直感の問題でもあります——形態模写によって対応することになるわけです。

恐ろしいことに、単なる猿真似であっても通用してしまいます。しかも恋愛の規範に骨の髄まで浸されている大多数の人は、恋愛における振る舞いという総合的な事情の背後に「恋愛感情」という内面を即座に想定します。恋心などなくとも、恋愛の表面的な行為をトレースして行うということは可能である(それどころか極めて容易である)というのに。

……あるいはやはり恋愛の例で言えば、「(お前は〇〇さんのことが好きなくせに)素直じゃない」という極めて暴力的な言葉がありますね。相手を嘘つきと言って罵る言葉とまったく同等の、最悪と言ってよい暴言ですが、やはり意図と内面の混濁に基づいた言葉と言えるでしょう。


日常的な例。……

上司や先輩に対する表面的な服従、というものもまたありうるでしょう。

もちろん上司を相手にする場合に限らず、意図的に情報を隠したり小出しにしたりするのは、ごく普通のことです。ときには思っていることとちょうど反対のことを言いながら、面従腹背の姿勢をとるということももちろんありうることでしょう。

表面的に忠実な敬意を持った部下としての振る舞いをトレースすることは一切可能であって、そこに内面が伴わせないことは十分に可能です。

実に複数の表面的な態度を切り離すことに長けた人は多いものです。知人の大学教員にも、仲良く対談や共訳をやっているはずの相手のことを、友人の仲間内でこき下ろす、という人はいます(2つの表面的な態度を使い分けている)。こき下ろされている相手のほうは、表立ってその知人を褒めそやしていたので、気づいていないのでしょう。知人の「内面」に関しては判断できませんし、しようとするのは傲慢というものですが、少なくとも見せるべき顔だけを見せるということは可能です。

「いいや、心から尊敬していなければ表情や仕事ぶりに出るものだ」と思われる、良く言えばヒューマニストな、悪く言えば昭和的な魂をお持ちの方もいらっしゃるのかもしれませんが、それは「表情」や「仕事ぶり」という表現において知られているだけであって、内面とは定義上関係ありません——内面は自分にしか見えないものであるからには。

そもそも、「表情」や「仕事ぶり」が悪いときにそれを糾弾するということは、本心からの、「内面」における敬意など一切求めていない、形式的な儀礼のみを求めている、ということを告白することにほかならないということです。


こと人間関係においては、振る舞いと「気持ち」などといったものが必ずしも即座に推測させあうような関係にはない、ということを踏まえておく必要があるでしょう。

実に相手の内面を、たったひとつの、あるいはほんのわずかな表現を通じてわかった気になるのは誤りであって、しかも誤解に基づいて行動しかねないのであれば危険でさえある、というなりゆきです。

私たちは相手の表現のみを求めている、内面には触れえない、ということを念頭において生きてみても良いのではないでしょうか。恋人には恋人としての振る舞い——行為や言葉——を求めているだけであって、部下には部下としての振る舞い——服従や、ときに阿諛追従——を求めているだけである、ということを、ドライに認めてみてもよいのではないでしょうか。

これは多くの人が常日頃何の問題もなく実践している(単に客観的に言えば、いっさい無反省な)生活様式ですが、実に皆さんが「内面」などというものに触れるつもりがないのに「内面」や「本心」といった言葉を濫用してはいないか、ということは、気に留めておく必要があるでしょう。

それは人間関係における誠実さという点でもそうですし、実利という点から言っても、自らが何を求めて何をやっているのかを知らなければ、効果的に果実を引き出すことなどできないからです。意図と内面を区別できなければ、広義の実践における重大な問題を生みかねない、ということです。


……ただし、それでも相手の「内面」に触れたい、定義上触れえないことを知ってはいても、それでもなんらか本当のものに近づこうとしたい、という欲求は、抑えきれるものではないかもしれません。

その作業はひとえに、もっと複雑かつ多様な、ときに痛ましい表現を相手に要求する、不断に要求しつづける、という迂回路を通じてのみなされうるのでしょう。言葉は常に不十分であり、あるいは私たちの言語運用能力は常に不十分であり、言語による切り分けは常に切り捨てを意味するからには、思考がはたらいた瞬間に、表現が成立した瞬間に、語られなかった残余が生じるのですし、それゆえにこの運動は永遠に完成されません。読む側の永遠の能力不足もまた、この運動が完成されない理由を構成します。

であるからにはこの道は、実に言語(を使う人間という存在)への限りない絶望と信頼なしに、言語を扱う者としてのクリアな他者として、規範や権力による横車を押そうとしない誠実な人間として認識されることなしに、開かれることのない道です。開かれたところでこの道は、極めて困難な、即座に我々を飲み込みかねない、深淵を直下にたたえた隘路でしょう。スキュラとカリュブディスの間にほのみえる道です。

本物などない、全ては表現の戯れだ、と言って諦めることはひとつの極めて現実的な方策です。そこに安住できない者に用意されているのは、痛ましく困難な対話の道でしょう。

しかし、こちらの道に賭ける者に与えられる対価は、本当に大きなものになるのではないでしょうか。

■【まとめ】
・定義からして私秘的な「内面」と、その内面に係る自白などもone of themとして含む全体的な事態から総合的に構築・措定される「意図」はさしあたり区別しうるが、後者が内面へと短絡される例は多い。

・自他に関してその区別をさしあたって堅持することが、実践上の誤りを未然に防ぐことにつながる。

・それでも相手の私秘的な部分に漸近したいのであれば、相応の努力が必要となる。