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【175】答えが長くなることを恐れてはならない!たとえば、バカロレア

思考力を要する記述式の答案を書くべき試験の例としてよく引き合いに出されるのが、フランスのバカロレア(大学入学のための学力を測る試験)の、しかも哲学の試験です。

今回はこれによせて。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


バカロレアの哲学の試験には、テクストの抜粋を解説させる問題(explication)もあるというのに、どうしてか、短い問いや単語に関して一定の形式を守りながら書く小論文であるディセルタシオン(dissertation)のみが、話題にされることが多いようです。

解説やディセルタシオンの問題が複数(ふつう3つ)出題されている中から、ひとつを試験会場で選んで回答する形式が大学の学部の定期試験でも一般的で、つまりディセルタシオンを書く機会は減らそうと思えば減らせます。

日本にはテクストを厳密に解説させるような問題を課す大学もおそらく(ほとんど)なく、その観点から言ってどうして「解説」の課題のほうが着目されないのかは理解に苦しみま

それはそれとして、

ディセルタシオンという形式が日本人の目に興味深く映るのはわからなくもありません。

極めて厳密な制約がある中で、ごく簡潔な問いに対し(あるいはごく簡潔な言葉に関して)古典を参照しながら、それなりの長さと一貫性を持った答えを仕上げなくてはならない、というタイプの試験は、日本だと(大学の哲学の試験でも)あまりないでしょう。

それに、解説のほうは知識がないと読めないように見え、テクストのほうを訳して紹介するのは骨が折れる一方、ディセルタシオンの課題文はたいてい10語にも満たない、一般的な言語で記述されたものですから、非専門家である外国人も(何か言えるかもという錯覚を覚えて)センセーショナルに反応しやすいものなのですね。

2019年のバカロレア文科の課題は例えば
1.「時間から逃げることはできるのか? 」
2.「芸術作品を解説していったい何になるのか?」
3.ヘーゲル『法哲学原理』からの抜粋の解説
から1つ選んで答えよ、というもので、このうちの1.と2.がディセルタシオン課題です。

哲学の「て」の字も知らなくても、少なくとも問いを形式的に理解することはできますし、何か言えそうな錯覚が持たれませんか。

もちろん、一定の作法を守りつつ、哲学史(や場合によっては文学史や美術史)の知識を正確に用いながら答える必要があるわけで、訓練が必要ですが、ともかく重要な問いはごく簡潔に示されがちだということがわかります。 


別にバカロレアの問題を強いて解く必要はありません。訓練なしに取り組んでもまともに解けるものではありませんし、時間の無駄でしょう。

しかしこのような、簡潔な言葉や簡潔な問いに対して、持てる知識を全て尽くして、周到な答えを導きだすべき場面は、意識していないだけで、私たちの周りには満ち溢れているわけです。
 
それはもちろん、哲学科の研究で扱われうる問いである場合もあれば、あるいはもっと実利的な問いであるかもしれませんし、もっとフワフワした問いであるかもしれません。

「生きるべきか、死ぬべきか」でも、「売上を上げるにはどうすればよいか」でも、「フローラかビアンカか」でもよいわけですが、最終的な結論は大切であるにせよ、過程がなければ無です。

いずれにせよ、単純に見える言語表現で問われうる、しかし重要で困難な問いに対して、詳しく・深く・一定の長さを持って答えるほかないというケースが、実は多いように思われます。

そうした困難な問いに出くわすとき、私たちはとかくクリアカットな(明晰にして疑惑の余地のない)回答を求めがちですが、そんなことをしても意味がない。金がないから稼ぐためにパチンコ屋に行くような発想です。

重要な問いに対しては、持てる知識と力を尽くして、然るべき形式で緻密に答える必要があるわけですし、他人に戦略的に示す場合はともかく、一定の長さ・冗長さは、自分が何を考えているのかを正確に把握するためにも必須ですし、それこそが意味のある作業というものでしょう。

その観点から言えば、哲学バカロレアのディセルタシオン課題への解答作成の方針を見ておくことは、悪いことではないのかもしれません。

テクスト解説の課題が(殊によるとディセルタシオン以上に)「文章」に依存しつつ文章を書くのみである、という極めて専門的な形式をとるのに対して、ディセルタシオンであれば、問題への取り組み方の例を通じて、専門外の人々であっても何かしらの知見を(もちろん恣意的に)引き出すことができるように思われるのですね。


例を見てみなくては始まらないと思いますので、バカロレアで8年ほど前に出題された試験を見てみましょう。

その主題は、Que gagne-t-on en travaillant?「我々は働くことで何を稼ぐ(得る)のか」というものです(2012年、経済社会系)。

これに対しておよそ数ページに渡って答えを書くことになるわけですが、この時にディセルタシオンの前提としてまずやらなくてはいけないのは、与えられた主題の分析です。

何を分析しなくてはいけないかといえば、まず「稼ぐ」と訳したgagnerという動詞です。これには他にも「到達する」などの意味があり、なかなか複雑ですし、その意味の広がりは前提したほうが良いでしょう。

そして「働くことで」と訳したのはen travaillantというジェロンディフの表現ですが、これはひとつの訳に過ぎません。もちろん「働くことで」と訳せる場合もありますし、それで押し通しても良いのですが、「働く中で」くらいに見てもよいわけです。つまり、必ずしも労働の結果・目的を表した表現ではなく、副産物を前提しているとも読めるわけです。

onという主語の訳も困難です。nous「私たち」ではない。……


答えのほうですが、カンのいい方ならおわかりの通り、「金」と一言で答えても求められている答えにはなりません。

間違っている、ということではありません(厳密な正解はありません)。そこに分析がないから駄目なのです。「金だよ、金」と答えるのは或る種リアリスティックな態度かもしれませんが、であればその「リアル」な背景を正確に描写する必要があるでしょうし、そこには当然、一直線の論理はないので、説明は大変になるでしょう。

あるいは「人間関係」とか、「能力を発揮する喜び」とか、皮肉めかして「奴隷としての精神」とかいう語句をポツポツとあげても、同じ理由から、答えにはなりません。

ではどうすればよいかと言えば、ディセルタシオンという決まった形式の、しかも哲学の範囲で出題されている課題なので、「労働」なる概念について見当しながら、それに関連する古典をあげつつ論じることになります。

おそらくこの問題を解説する哲学の教師などであれば、この問いの核をなす「働く(travailler)」という動詞の語源にさかのぼることになるでしょう。

travaillerの名詞形であるtravailという語は、ラテン語のtripaliumという語から来ているわけですが、tripaliumは三つ又に分かれた突き棒のことであって、家畜を追いやったり人を拷問したりといった目的に使われる道具なのですね。ここからは、労働というものがそもそも苦しい・人間に対して害をなすものである、という前提が透けて見えるわけですね。

もちろんこうして語源にさかのぼる作業は、フランス語とスペイン語にしか適用できないものです。スペイン語で「労働」はtrabajoでフランス語と語源を共有しますが、例えばドイツ語のArbeitは異なる語源を持ちます。

英語のlabour、イタリア語のlavoroであれば、むしろラテン語の別の語つまりlaborareに由来するので、拷問にとの結びつきは直接的には表れてこないでしょう。

とはいえフランス語で哲学の課題として出されている以上は、フランス語という文脈に依存しながら語源に遡って課題を分析し、哲学の古典を引用しながら回答する必要があるということです。 


多くのバカロレアの科目において公式の模範解答は出されていませんが、私が見た限りで、「我々は働くことで何を稼ぐ(得る)のか」という課題に対していろいろに提示される私的な模範解答というものは、だいたい労働というものが人間に固有のものである・人間に固有の条件であるということを指摘しつつ、かつ人間を著しく損なうものである(疎外する)という言い方をします。そうした相矛盾する契機を上げて、何らかのかたちで総合して、最初の問いに直接的に答えるような文言を設置するということになるのだと思われます。

労働が人間に固有のものであるという場合には、古いものということで言えばヘーゲルを挙げる人は多いかもしれませんし(ここではだいたい都合よくフランス語のtravailとドイツ語のArbeitを同一視しますね)、また労働という語を噛み砕いたうえで、ミツバチと人間の在り方の違いについて述べたアリストテレスを引用する人もあるかもしれません。

現代の、特に20世紀後半の著作を引用することはそれほど好まれるわけではありませんが、ヘーゲルに大いに影響を受けたジョルジュ・バタイユの労働観などは、労働を人間と動物の差異を構成する要素として持ちだす、極めてクリアカットで引用しやすいものです。

あるいは政治哲学と関連させていきたいのであれば、ハンナ・アーレント『人間の条件』を引用するのも、人によってはできることでしょう。こちらは、著作のうちのひとつの章が丸ごと「労働(labor)」に当てられます。これは「制作(work)」及び「活動(action)」とともに人間のなすことの3つの領域を構成する、とされるものですが、正確に議論を把握していれば試験会場でも書けるというわけですね。

そして恐らく、哲学という試験の範疇でも引いて良いのは、聖書です。どういうことかといえば、人間が額に汗して働くという条件は、知恵の木の実を食べてしまって楽園を追放された後の人間が背負っているものです。

実に創世記第3章17・19節には、楽園追放の後の、額に汗して大地を耕さなくてはならない存在としての人間が描かれています。曰く、「あなたは一生の間苦しんでそこ(=大地)から食を得ることになる。(…)あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る」(新改訳)。

ついでに申し上げるのであれば、フランス語で用いられているtravailという語は、「分娩」をも意味し、この点からも聖書に言及しうるでしょう。どういうことかといえば、もちろん厳密にどのような経緯でそのような語用が生まれたのか私には分かりませんが、「労働」と「分娩」の間に意味のかさなりがあるのですね。

(なおこれはフランス語特有のことではなく、英語でも出産のことをlabourと言います。travaillerという動詞はフランス語を学びはじめてすぐに出会うものですが、1年くらいすると「分娩」という意味のtravailに出くわし、混乱するものです。ときには文脈に依存しつつ理解しなくてはならない場合もあります。salle de travailと言えば「学習室」でありつつ「分娩室」にもなりえますから。)

……そして、創世記の第3章16節ではまさに、楽園を追放された後の人間について、子供を産む時に苦しみがある、ということが言われているのです。曰く、「あなたは苦しんで子を産む」と。それ以前の状態であれば子供を産むのには何の苦しみもないけれども、楽園を追放された後には、分娩・出産には苦しみが伴うようになる、と言われるわけですね。

これに絡めて、「労働(travail)」というものが、原罪に象られた(とされる)現在の人間にも通ずるという意味で極めて人間に深く内在した条件である、ということが言えます。

他方で、原罪は自然本性の傷であり、人間は原罪によって自然本性を損なわれている、という神学的人間観も踏まえるのであれば、労働は人間を人間でないものにしてしまう機能を持っている、と言うこともできるでしょう。

つまり労働は人間的でありつつ非人間的でもある、と言われうるわけですね。

労働が或る種人間に対して害を成すという発想は、ほかにも、マルクスなどに認められることでしょう。有名な「疎外」の話です。


ネタは古典のなかに溢れていて、それを問いが進展していくようなかたちで適切に配置して、矛盾しあうような意見をきちんと総合してゆけば、回答になるわけです。これを4時間でやりきれ、という課題になるわけですね。

以上に述べたのはもちろん、フランス語の文脈において、しかも哲学の試験という文脈においてどう答えるか、という観点のものでしかありません。

とはいえ、こうした困難な問いは、クリアカットな答えを与えられるものでもなければ、あるいは最後の答えとしてひとつの名詞をぽつねんと出すのだとしても、そこに至る思考の痕跡というものは示す必要があるのですし、その過程こそが評価されることになるわけです。


別に、この「働くことで何を稼ぐのか」という問いでなくても構いません。

自分たちがやっている活動や、そもそもの生き方にあたる部分に関して、こうしたごく単純に見える問いを掲げて、それに十分な時間をかけて向き合って、緻密な・自分でも納得できるような重みを持った回答というものを、与えられているでしょうか。

極めて軽薄な、単語ひとつや、箇条書きで・短文での回答に満足してはいないでしょうか。

もちろんそれはそれでひとつの回答の仕方かもしれませんし、複雑な文章を紡いだり複雑な内容を組み上げたりするのはかえって時間の無駄だ、簡単に言えないのは分かっていない証拠だ、と思われる向きもあるかもしれません。

しかし、問いが重要なものであればあるほど——重要だというのは理論的にもそうですが、実践において重要なものであればあるほど——答えも複雑に・多義的に・重層的にならざるをえないのではないでしょうか。

そして複雑な答えを出す過程というのは、ありとあらゆる知識や思考力を総動員して、どこまでも暫定的で、どこまでも不完全な答えを組み上げる作業に他ならないのではないでしょうか。

もちろんこの場合の知識というのは、哲学史とかあるいは西洋古典に関することでももちろんよいのですが、皆さんが他に読まれてきた書物や映画や漫画やアニメや人間関係や実体験から得た知見など、何を持ってきても良いわけです。

しかも、研究や学問上の正確性は必要がないわけですから、元あった文脈から離れた引用・参照も、自分でそうわかっていればそれでよいということになります。

皆さんが納得できる答えを出せれば良い、あるいは皆さんがさしあたって叩き台にできるような答えを出せれば良いわけですから、何を参照してきても良いのですが、ともかくひとつのすごくシンプルな回答を与えて満足できる、という質の問いは、重要なものであればなおさら、ありえないように思われます。

重要な問いは、しばしば簡潔に書かれますが、しかし簡潔な回答を許すものではないのですね。

簡潔な回答を許さないということは、繰り返しにはなりますが、皆さんがお持ちの知識や思考力といったものを総動員して、ポツポツと浮かんでくる自分の思念というものを切ったり貼ったり並べたりしながら、やっと答えが出てくるということです。

そしてこの答えも、何度も何度も修正を強いられるタイプのものでしょう。だからといってその作業が無意味ということではないと思いますし、寧ろそうした、簡潔だけれども極めて難しい問いに対して精神力や時間を使って、長くなることをいとわずに回答を続けていくことということは、もちろん問いに対する誠実さを達成するという点でも、また納得しながら積極的にその解答を実践に生かすという点から言っても、絶対に必要になってくるように思われるのです。

否定的な言い方をすれば、短くて簡潔な、しかし重要な問いに対して、短くて簡潔な回答ばかりを返していても何にもならない、と思うのですね。言葉が空転しつづけるばかりでしょう。

寧ろ、答えあぐねるなかで持てる知識や力をすべて動員する仮定でこそ、明確かつ有用な答えが生まれるのでしょうし、あるいはそうして答えあぐねる作業こそが、実利的に言っても有意味なものでしょう。


皆さんは皆さんで重要なものがあるでしょうし、響く問いというものがあるでしょう。

あるいはそこまで抽象的なものでなくても、職業や専門に関わる問いというものがあるかもしれません。

そうした問いが、果たして重要であるのならば、簡潔にささっと答えることが重要になる場面もありうるにせよ、一度は、あるいは願わくば常に、幾度も、持てる知識やあらゆる思考のツールを頼りにした、長々しい、緻密な解答を組み上げる、という観点をお持ちになってもよいのではないか、とい。ことでした。

■【まとめ】
・重要な問いは簡潔に記述されうるが、簡潔明瞭な解答が意味を持つとは限らない。長く、緻密で、一見はっきりしない解答こそが深い意味を持つ場合がしばしばである。

・持てる力や知識を尽くして、暫定的でしかない解答を永遠に練り続けるという観点が必要ではなかろうか。

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