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【315】心が動いたらその原因を探して言語化する/九條夏夜乃について/反省の微差を積み重ねる

何か引っかかるセリフがあるとか、ある音楽を聴いてぐいと心を掴まれたような感じになるとか、はるか昔にいちど聞いただけのことをなぜかよく覚えているとか、そうしたことが皆さんにも少しはあると思いますが、そこには何らか原因があると言っても間違いにはならないでしょう。

もちろん単なる偶然だと考えることもできますし、それは本当に偶然なのかもしれませんが、「偶然」というのはほとんどの場合に、私たちの知らぬところで展開されている物事の布置の因果論理に関わるわけで、原因がないということを意味するのではなく、私たちの目には(まだ)その原因が見えていない、というだけの話です。

あるいは少なくとも、原因があると思っておいて、その原因については私たちが認識できる、と思っておくほうが、多面に渡り実りがあることでしょう。

それは何故かと言えば、自分の心や精神が何に向けて傾くのかということを知っておくこと、あるいはそうした自らの傾向性について(避け難く、どこまでも)不完全な説明を其の都度与えておく作業は、その後の自らの道行きを考えるにあたって重要な役割を果たしうるからです。

そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


例えば私は『文学少女と飢え渇く幽霊』(野村美月著、ファミ通文庫、2006年)の中のあるセリフをずっと覚えていました。

(元ネタである『嵐が丘』に言及しないのは、倒錯した教養主義へのせめてもの抵抗だと思ってください。)

もちろんある時期によく(ドラマCDを)聞いていたとか、原作小説をよく読んでいたとかいうことは原因のひとつだと思われますが、小説一冊の中には無数に言葉があるわけで、その中でもなぜその言葉に引っかかっていたのか、ということをちょっと考える機会がありました。

その言葉は、本作における(準)ヒロインと言ってよい九條夏夜乃の言葉で、「あなたは私に、心からおめでとうと言わなきゃいけないわ」というものでした(p.254, p.260)。

この言葉を発した九條夏夜乃はお嬢様と言って良い人間で、これは使用人であり幼い頃から深い絆で結ばれてきたはずの恋人でもあった国枝蒼に対して、自らの結婚を報告する際に向けられた言葉ですから、お嬢様らしい驕慢と移り気を孕んだ言葉として、抽象的な高貴さを愛する私に響いたのかと思っていましたが、よくよく考えてみればまた別の事情も明らかになってきたようです。

ひとつには、夏夜乃の言葉が、秘された心と外に出た言葉がぴたりと一致するという、つまり「心からの」表現がありうるという、不可能な夢を無邪気に相手に強いている、という点に求められるのかもしれません。実にこれは私の哲学的な関心の一つでもありますし、だからこそ面白いと思えたのかなと考えたという事情があります。

が、もう一つのラインもあります。この言葉が、使用人であり、恋人でもあった国枝蒼に対して発された言葉であり、しかも別の相手との結婚を祝福するように求めるもので、しかも「心から」祝福するように求めている点に着目すると、また別の事情が明らかになるということです。

それは物語的な事実として明らかになるということでもあれば、物語を読む私の目に明らかになるという意味でもあります。

実際、九條夏夜乃はすでに国枝蒼の子供持っていました。そのうえでなお、国枝蒼本人とその子供を守るためにこそ結婚という方策を取らざるをえない、夏夜乃は考えて、この点を密かにしつつ「心から」の祝福を求めたのです。

自分は嘘をつきながら、相手に「心から」の祝福を求めたことの背後には、おそらく、次のような思いがあったことでしょう。あくまでも推測ですし、作者本人でさえ、また夏夜乃本人でさえ真実を手にしえないからには、これもまた恣意的な明晰化ですが。

つまり、

・自分はあなたが「心から」祝福できる選択を確かに行ったのだ。

・この選択はギリギリのものだったのだ。

・私に向けられる祝意はあなたが勝ち取る祝意でもあるのだ。

・「心からおめでとうと言わなきゃいけないわ」と私があなたに言うことで、私がそんなギリギリの選択をしたということを信頼してほしいのだ。

・ただし内容は明かせないのだ。

・それでも、そもそも私があなたを傷つけるような選択をとることなど決してありえないのだ。

……こうしたことをわかってほしくて、しかし内容をつまびらかにすることはできず、「心からおめでとう」と言うように求めたのではないか、とも思われるわけです。

何もかもを正直に述べること、つまり自分が既に蒼との子供を身籠っていて、その子供と蒼自身を守るためにこそ資産家と結婚する道を選ぶのだ、最善のかたちではないかしれないけれど、あなたとともに生きてあなたを守るためにこそ私は別の人と結婚するのだ、と正直に述べる、ただひとつの豊作だったのかもしれません。  

そうしていればおそらくは、蒼はなるほど昔からいる使用人として、資産家と結婚した後にも夏夜乃と仲睦まじく過ごすことができたでしょう。実際夏夜乃の夫は、夏夜乃の「歩いた地面まで崇拝しかねないほど、惚れ込んで」いたのですから(p.114)、蒼を伴って嫁ぐことを拒みはしなかったことでしょう。


とは言えそうしなかったことにも、それなりの理由、ないしは原因を見ることはできるのかもしれません。

ひとつは、蒼の極端な行動を封じるためだったのかもしれません。

正直に打ち明けていれば、駆け落ちを申し出られた可能性すらあります。後の蒼の果断を見れば、その可能性は捨てがたいものです。夏夜乃の側も、自分が身重でありながらそれに応じてしまうかもしれない、という恐怖があったのかもしれません。

しかしその後に広がる未来には、おそらく夏夜乃は何の可能性も見出せなかった。想定することさえなかったのかもしれません。それよりは、ふたりの生活の水準や社会的な地位を守りながら、ギリギリのラインで幸福に暮らしていくための方策として、真実を打ち明けなかったのかもしれません。

他方で可能な想定は、罪の意識をひとりで抱えていたかったのではないか、というものです。

現代の俗語で言えば「托卵」される将来の夫に対し申し訳なく思う気持ちもあったのかもしれませんが、その罪の意識は、蒼に話してしまえば、当然減ぜられます。ことによると快楽の源にさえなるかもしれません。そのように重荷を減じることに対して、夏夜乃の魂は強烈な抵抗感を示していたのかもしれません。

思惟と行為の罪の純粋さを保つこと、そうして罪悪感(や罰)において倒錯した正義を実現することは、多くの場合に理解されない傾向ですが、実によくあることですし、人間がわかりやすい原理に基づいて生きていると思うほうがよほど愚かである、ということは、ここまで文字を追うくらいの方であれば当然のように理解されていることと思います。実に肉体に紐付けられた苦痛に耐えられない人間であっても、精神の苦痛には実によく耐え、剰えすすんで引き受けることがしばしばです。

どちらの筋で理解するにしても、九條夏夜乃が実践したのは、そもそも動機からしてすっかり身勝手な自己犠牲の類であると言えます。

こうした身勝手な自己犠牲は、そもそも罪を自分で作り出しておいて、そのうえで害を被る人に対して申し訳なく思って、我が身を犠牲に供する、というものです。犠牲のマッチポンプであり、藁人形プラクティスです。言ってしまえば、実に愚かです。


或る種どこまでも自己中心的な、無益な、自分勝手な、しかしヒロイックな自己犠牲というものは、とはいえ様々な例において私の欲望の対象になりうるところがあるようで、我がことながら実に興味深いところがあります。

詳しく申し上げるつもりはありませんが、同じく浅薄な意味での教養に毒された人を排除する意味で、ライトノベルから引くなら、高橋弥七郎『灼眼のシャナ』最終巻において、吉田一美がとった行為の背後にも同じ事情があります。生命を犠牲に捧げて、自分のためでも、愛する相手のためでも、恋敵でありながらかけがえのない友でもなしに、状況を掻き乱すことのできる者を召喚しようとした、その行為です。

もちろん、細かいところで問題のありかたは異なりますが、一切自分勝手で、何のためでもない、何にもならない自己犠牲を、九條夏夜乃や吉田一美は実施し(ようとし)たわけです。


別になんでも良いのです。芸術作品であろうが、サーヴィスであろうが、なんであろうが様々なものに触れることで自分の心に生じた変化に対して、分析や考察を加えなければ、自分の欲望の体制というものは精密なかたちでその姿を明らかにすることはないでしょう。

さらに確認しておくなら、本能的にこの作業を行うばかりでは、いかにも皆さんの足取りというものは不確かなものになるのではないでしょうか。「私は〇〇が好き」「私は××なものに惹かれがち」ということは、薄々わかってはいても、明確に言葉にしている人がどのくらい要るのでしょうか。

せいぜい言語化されるのは、合コンやら戯れに満ちた会話やらで交わされがちな、(多くの場合に異性の)「好み」くらいではありませんか。その「好み」とて、実に不確かなもので、敏感な人であれば、口にするたびに真実が取り逃がされているような感覚を得るわけです。好みと実際の帰結が一致しないという事実は、どうしてかエヴァーグリーンな驚きを持って迎えられています。

……とりわけ自分の直感など信じていない、自分の本能などを信じていない、しかし言語による分析能力にかけては一定の能力があると自負している人であればなおさら、なんらか感じられるところがあれば、感じられた対象(と自分との関係)について分析を尽くしてみる、言葉を尽くしてみるという作業は、自らの欲望のありかた、心理的体制のあり方を知るために実に有効なのではないでしょうか、と思われるわけです。


もちろん、ひとつひとつの分析の結果が即座に行動の指針を与えてくれるわけではありませんし、それは結局のところ「役に立たない」ものかもしれません(言うまでもなく、有用性と価値は別です)。

私だって、「身勝手な自己犠牲が好きなんだな」とおぼろげに確認されたところで、それが即座に日常の行動に結びつくかといえば、それは違います。おそらくカネに繋がることなんかないでしょう。

ただし、日常的にそうした分析を積み重ねて、精神の螺旋階段を上り下りする努力を積み重ねている人と、まったく無邪気に「スキ!」「キライ!」で生きている人とでは、良いか悪いかは別にして、何らか質的に著しい差が生じるというのも事実ではないでしょうか。

もちろん、「良いか悪いかは別にして」という留保は付けるのですし、自らの生き方に対する反省能力は一定のレヴェルを超えないほうが生きやすい、というのは誰の目にも明らかな事実です。

しかし、ここまで読んでいるはずの人が、少なくとも無反省でいることに満足して居直れるほどに、自らの(実践以前の)精神に関して怠惰であるとは、到底思えないわけです。

「ここまで読んでしまっている人は所詮は反省の途に付いている」という、私の希望を織り込んだ一個の仮定が正しいのなら、実にそうした人たちに向けるべき言葉の一つは、そうした反省の微差を積み重ねていくことこそが、自らの足取りの確かさを保証してくれるのではないか、ということです。

たとえそれが金銭や社会的地位に結びつかないとしても、もっと深い幸福、幸福と感じられることすらないかもしれない幸福、あるいは何に替えても守るべき価値にアクセスするために、反省の作業は不可欠ではないでしょうか。

■【まとめ】
・なんらか心が動いたときには、その原因を探究してみる。その対象や事態に対する分析を通じて、その原因というものをなるべくはっきりとしたかたちに落としてみる。

・そうしてみることで、自分の心理的体制というものを少しずつ明らかにしていくことができるのだろうし、以って自分の歩き方・歩いて行きたい方向を確認することができるのではないだろうか。

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