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さよなら、考えすぎの人生

生きるためにはお金が必要で、なんらかの手段で稼ぐことになる。それは万人に当てはまる枷である。稼ぐこと自体は人生の全てではないが、人生の一部だ。また、どんな人生を送ろうと模索することに終わりはなく老若男女に平等に与えられている。このnoteでは私が出会った素敵な人物の人生について綴ろうと思う。

生きていると「困難な時でも楽観的に物事を考える力」が欲しくなる。そんな素敵なチカラを、私たちがもつにはどうしたら良いのだろうか。今回はオトナ代表としてELSYS JAPAN株式会社 取締役の小畑修一(こばた・しゅういち)さんに会社員時代を振り返りつつその時々に考えていたことをきく。

企業のブランド力を目当てに就職先を決める

──学生時代はどんなふうに過ごしましたか

中学生の頃はヤンチャな方でした。補導されてしまったこともあります。
東京は目黒の出身なのですが、当時の目黒はいまと違い清楚な感じもなく血気盛んな街でした。新聞沙汰に巻き込まれたこともあります。

中学生のとき塾の夏季講習(大田区蒲田)を友人たちとサボっていたら地元の悪ガキに絡まれて10数人対100人の乱闘事件に。あばら骨は折れるし、補導もされ、最悪でした。
進学も危うかったのですが、当時がんばっていたバスケで辛うじて高校へ進学。
高校のあとはバスケで大学へ進学することもできましたが、候補は地方の大学ばかり。地元・東京を離れたくなかったので2年制の電子工学の専門学校へ進学。そして就職しました。

大手企業に就職できたのはひたすら運が良いから(笑)。
NECの関連会社、NECネッツエスアイ(以降、NESICと表記)というSIer(システム・インテグレーター)に就職したのですが、ちゃんとは試験を受けていないのです。
専門学校の就職活動は秋から始まります。学校での企業説明会にNESICを含め3社ほどきてくれて、模擬面接の学生役が募集された際にチャンスだと思い手を挙げました。
そこで模擬面接をがんばり、たまたま人事部長の名刺をゲット。企業説明会後に電話をかけ、就職したいとお願いしました。
当時の就職活動はいまほどシステム化されておらず、企業側も柔軟な対応をしてくれたのです。

NESICにアプローチしたのはNECというブランド目当て。ブランドがあれば箔もつくし、給料もある程度もらえるだろうし、雇用も安定しているだろうと。
具体的なやりたい仕事もなく、自分のことをコミュニケーション下手だと思っていたから営業ではなく技術がよかろうと考えていました。

仕事を教えてもらい、必死に覚える日々

──20代、30代の過ごし方を教えてください

NESICでは良い経験をさせてもらえました。会社がどんどん大きくなる中で、ネットワークエンジニアとして設計・運用を行い、販促部門では企画と営業を行い、SIerに所属する人間として一通りの役割を経験しました。

入社後は、まずはネットワークエンジニアとしてISP事業の運用業務(インターネットの走り)などに従事。
その後は販売促進(以降、販促と表記)の部門に所属しました。

当時のことを時系列でお話しします。

入社後すぐの配属先、ISP事業の運用保守事業部門では当然、右も左も分からない。そもそも当時1980年代後半はインターネット黎明期でした。仕事の進め方が分からない上に、技術はすぐに革新して新しい概念と機器が生まれます。
仕事を進めるためにひたすら先輩に聞き回り、残業や休日も率先して出社して仕事を教えてもらいました。はじめの3年間はろくな休みも取らずに必死でした。

30代前半にキャリアアップのために異動しました。
当時の上司が気を利かせてくれ、どんな部門に異動したいかヒアリングしてくれました。本来ならヒアリングはないので感謝しています。

自分の弱みや興味のあることを考えると、自分の会社であるNESICのことを知らないことに思い至りました。というのも、20歳で入社して以来、顧客先に常駐して働いていたんですよね。社内の組織体制や状況を知らない。

そこで「自社がどんな会社なのか。社内体制はどんな体制を取っているのか。その辺りが分かる部門に異動したい」と直訴。
その結果、マーケティング部への異動になりました。

いままでアクセスしたことのない部門。「マーケティングってなんだ?」から始まりました。ここでも2年は死に物狂いで仕事を覚えました。後輩にも仕事を教えてもらったものです。

このマーケティング部が名前を変え、組織の吸収合併を繰り返し販売推進本部になりました。

主な業務は、3つ。
①案件毎の社内体制の建て付け
②営業同行提案
③サービス企画

この3つの業務が意外にも自分に合っていました。

誰に頼ることもなく、自分で仕事をたてつける事が楽しくて、将来もずっとこんな感じの仕事がしたいと思いました。


仕事の進め方を変えたくなり、独立を決める

──熱心に仕事したにも関わらず、どんな心境変化があって独立に向かったのでしょうか

大手企業・大きなグループで働いて感じたのは「大きいと面倒だ」ということ。会社が大きいと自分の思いと仕事の方向性が違うことも、急な方針転換もあります。やれることをやらなくなったりもします。これは組織に所属する以上起こりうることです。

頭ではわかっているのですが、30代後半で実際に直面し、当時の会社の判断があまりにも安直に感じました。その辺りから起業を意識するようになりました。


詳しく話します。
そのころ組織変更があり、ともない使命が変わり、新しいサービスを作り出すことが仕事になりました。大きなプロジェクトをどう立てつけるかが仕事になったのです。コンサルタントのような仕事ですね。
顧客から見ればコンサルタントをするはずの人なのですが、本来味方であるはずの自社からはアレはだめ、コレはだめと言われてしまう。それが面倒でしたね。顧客のためを思えばやりたいことも、実現できるだろうことも、ああしろこうしろと指導が入る。何かしようとすれば、稟議をあげる必要がある。その稟議で何ヶ月もかかる。
その間に他社に奪われてしまいます。

そうした仕事をしている内に「辞めたい感」が増しました。
仕事の進め方を変えたくなったんです。

仲の良い起業家たちにも相談しました。
たいてい言われる事は同じ。
いわく「大企業にいると安心だよ」「大企業病に汚染されてて通用しないよ」。

その中でも1番の仲良し起業家である高校時代の友人から「いまじゃない。もっと人脈を作ってからが良いよ。人派があれば起業に年齢は関係ない」と言われ、スゴく心にきたんです。
そこで40歳での退職を思いとどまり、退職計画を50歳に変更。

ちょうど販促部門に所属していたので社内外の色んな人と関係を築きました。
人脈作りは、セミナーに参加したり、仕事の延長でコミュニケーションをはかったりと。例えば飲み会や趣味の釣りですね。ボクなりに必死にやりました。

49歳の時、販促部門から全国規模の基幹システム/ネットーワーク部門へ異動となり、自分が担保したあるプロジェクトが終わったのを機にNESICを退職。計画よりも1歳若かったですが、そこで辞めないとタイミングを見失ってしまいそうで嫌だったのです。
ボーナスをもらった次の日に退職の意を会社へ伝えました(笑)。

みんな考えすぎ

──小畑さんは物事の情勢に柔軟に対応していますが、考え方のコツを教えてください

会社員時代を振り返ると、仕事をしながら自分のやりたいことを見つけ、やりたいことに向かうだけだったように思います。

「みんな考えすぎ」というと、ボクがまったく考えないで進めていると思うかもしれません。一応、考えてはいます(笑)。

仕事でもプライベートでも、目の前のことを考えすぎるとリスクばかりが浮かぶもの
そうすると、行動する前に諦めてしまうんですよね。きっと。

なので、挑戦する時は直感とまではいいませんが、サラリと考える。
その考えた結果を深掘りする。深掘りも自分にとってプラスになることを主として考える。リスクがあったとしても、回避方法はたくさんあるし相談できる仲間もいます。ただそれだけです。目先のリスクよりも、その先にある自分にプラスになる状況をイメージしてください。

例えば、「新しい案件があるが、内容から自分の所属部門は不適切。無理に対応しよう物なら上司から怒られる。=>やめておこう」となります。

でも、考え方次第なのです。
その仕事が成功した先にあるものは何か?
・自分自身の業績UP=>給料UP
・他の部門を巻き込むことで、その部門と信頼関係ができる。
 =>今後助けてもらえるかもしれない
・仕事の依頼人との信頼関係もでき、今後は楽な仕事も回してもらえるかもしれない
......というように自分にプラスになる様子を考えて仕事しています。

みんな、働くことに関して考えすぎです。そんなに深く考えなくて良いのです。
どんな行動をしたら怒られてしまうか、嫌われてしまうかとネガティブな方面に意識がいっているように感じます。
会社を辞めても良いと思います。辞めて損するかどうかは、それからの生活の仕方と生き方次第です。
職場が恵まれなくて挑戦ができないと感じるなら、職場の状態を変えるよう働きかけるか、新しい職場へいくかです。もっとシンプルに考えてください。

仕事というのは学んだことをどう活かすかです。知識を持っていても活かすチャンスがなければ意味がありません

会社というのはいろんな人がいます。例えば営業でも学校で技術を学んで営業をしている人もいれば、その逆で技術畑の仕事をする文系の人もいます。
学校の勉強で差がつくことはなく、就職したら本人の努力次第です。

勉強しなおしたいという人がいますが、仕事のために学校でいちから勉強するのは違うと考えています。会社に入ってから努力をすれば良いのです。現に、ボクだって学歴があるわけではありません。もちろん、いま話したのは、ボクが勉強する気にならなかったからかもしれません(笑)。

学校と違い、仕事では人から教えてもらうことが多いです。ボクはいまでも若い子にわからないことを教えてもらっています。
教えてもらい上手になってください
どうやったら教えてもらえるかを考えてください
コツはわからないと素直になることだと思います。「教えてください」と言う度胸といっても良いかもしれません。人に物事を頼む勇気は必要です。
もちろん、質問する相手への普段のコミュニケーションも必要になります。周囲をよく観察しましょう。その人とどう接せれば良いのか、日頃からのリサーチも必要でしょう。

責任において行動し、成功したときは嬉しい


──独立してからはいかがお過ごしですか

NESICを辞めてからは起業しました。あとは個人事業者として2社と契約しています。

NESICを辞めたときは後悔するかもしれないと思いました。でも、そんなことはなく、楽しく働いています。

やっていることは今も昔もほぼ変わりません。自分がやろうと決めたことを自分の裁量で動かしていく。ただそれだけです。失敗したらもちろん責任がありますが、やりがいはあります。責任といっても、死ぬわけでもなく指をつめるわけでもありません。
責任において行動し、成功したときは嬉しいです。

NESIC時代の同僚とも関係は良好で現在も続いています。
当時の仕事は結局誰も引き継ぐことができず、契約している会社のうちの1つで現在もボクが回しています。

独立したメリットは金銭面でもあります。
現在の年金制度では支給されるのが65歳から。定年まで在職しても退職金は家のローンと車の買い替えで手元にはほぼ残らず、定年が55歳〜60歳としても支給までどう生きのびるか問題になります。若い頃は定年後のイメージは「死ぬまでの時間をゆるやに生きる」でしたが、そんな悠長なことは言ってられません。
会社員でなくなったことで、太く長く働くビジョンができました。

株式会社リンクアット・ジャパン
営業として契約しています。受注した案件の何%が手元に入る仕組みです。

ELSYS JAPAN株式会社
取締役として契約しています。契約料が年間単位で入る仕組みです。セキュリティシステムを販売しています。防犯監視(不審者事前検知)システム「DEFENDER-X」、精神判定ソフト「Mental-Checker」を取り扱っています。

ComLi合同会社
家内と二人で起こした会社です。事業は2つあり、整理収納アドバイザーとICT提案支援事業です。

今後は、どの会社も大きくしたいですね。
人を増やしたいですし、取り扱うサービスも増やしたいです。

コロナ禍はキツいです。
NESICの旗振りではできない仕事が何件か受注見込みだったのですが、全てとまりました。再開の目処もありません、助成金・補助金等の政策にも当てはまらない。創業タイミングが悪かったと思うしかない。これを乗り越えれば明るい未来がある・・・はず。
政府の怠慢が引き起こした多くの企業倒産。ウチは負けねーぞ!!
コロナのバカやろ~! 政府のバカやろ~!税金返せ!

企画・執筆 村山早央里 2021/6/19


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