JOKER観た話
冒頭の『JOKER』の黄色い文字の強烈なインパクトは、
映画史上、語り継がれて行くだろうと思う。
こんなにも美しい映画を観たことがない。
※以下、ネタバレしかありません。自衛してください。またここに記してあるものは私の感想、考察であり、他のそれを批判、否定するものではありません。
『ジョーカー』は、2019年のアメリカ合衆国のスリラー映画。 監督はトッド・フィリップス、出演はホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロなど。 DCコミックス『バットマン』に登場する最強の悪役ジョーカーが誕生する経緯を描く。ホアキン・フェニックスがジョーカーを演じる。(ウィキペディア)
❏アーサーは誰か?
この映画の主人公は、アーサー・フレック(ジョーカー)(演:ホアキン・フェニックス)に違いはないのだが、どこまでが現実でどこからが空想なのかがはっきりしない。例えば、ソフィー・デュモンド(演:ザジー・ビーツ)とのデートは全てアーサーの妄想だったように。総てがアーサーが見ていた夢、妄想と思えるほど曖昧なのだ。
(また、アーサーが扉を開けようとするシーン。揺らぎ、ぼやけた扉の映像が、ドアノブに手を掛けた途端、その手が一気にクリアになる。まるで、夢を見ているような揺らぎとフォーカス。随所にこのようなシーンが散りばめられている。)
しかし、この映画は、JOKERが紡ぐ、JOKERの物語なのだ。 総てアーサーの妄言だと単に言ってしまっていいのだろうか。
ここでふと思い出すのがファンタスティック・ビーストに出てくるゲラート・グリンデルバルトである。彼は、民衆に向かって、「正しい正義のために動こう」、「君の愛する人のために」、「私とともに新しい世界を築こう」と、耳障りのよい言葉を巧みに並べ、時に不安を煽り、奮い立たせ、同士を増やしていく。そして群衆となり牙を剥く。
本作のJOKERも、彼と同じではないだろうか。世間の多くが共感する、「社会的弱者のアーサー像」を作って、我々(観客)に見せしめ、存在を否定する社会には一矢報えばいい、嘲笑う他者は殺してしまえばいい、私が、君がジョーカーなのだと、耳元で囁いているのだ。
ラストシーン、「ジョークを思いついたんだ」という台詞は、この壮大なジョーカーのプロパガンダを指していたのではないかと深読みすらしてしまう。もしや、この物語は全てがジョーカーのジョークだったのではと。
つまるところ、ジョーカーはアーサーであるし、誰にでもジョーカーになれる、のだ。この作品を見て、アーサーに共感した者、同調した者、同情した者、それぞれが既にJOKERの種を植え付けられているのだと思う。きっとそのうちに言い出すだろう、『ここに2隻の船がある、どちらにも爆弾を積んでいて、君たちの持つボタンで相手の船が吹き飛ぶ』と。
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❏“ジョーカー(嘘つき)”は誰か?
この物語は、ジョーカーのジョークでした、チャンチャン。では済ませないこともある。あの映画の中に取り残された現実は、ジョークに揉み消されずに存在しているのかもしれない。
アーサーの母、ペニー・フレック(演:フランセス・コンロイ)は、かのトーマス・ウェイン(演:ブレット・カレン)の元でメイドとして働いた過去があり、彼に宛てた(救いの)手紙の中で、アーサーは自分とトーマスとの子であると綴っていた。アーサーはそれを知って激昂するわけだが。
ペニーはある時、ウェイン産業で働く証券マン3人がピエロ姿の男に射殺されたことに対して「3名は家族だ」とウェインがコメントしたニュースを見て、「(従業員は)家族ですって」とアーサーに期待をみせた。
この出来事が作中の現実だったとすると、トーマス・ウェインは、本当にアーサーの父親ではなかったのだろうか。彼女の世間を知らず信じやすい性格を巧く利用したのではないのだろうか。
ウェインの言葉を真実と仮定した場合、何点か疑問が生じる。
・メイドとして働く身で、未婚で、養子を引き取ることが可能か? (金銭的にも法的にも)
・ ペニー・フレックはトーマス・ウェイン以外に恋人がいたと証言しておらず、アーカムでアーサーが見た書類に残る、ペニーの恋人とは誰か?
・ アルフレッド(ウェイン家の執事)と共に、ペニー・フレックとのことを執拗に『あの女の妄想だ』というのはなぜか?
・当時ペニー・フレックが署名した書類は何だったのか?書類は存在するのか?
これら疑問を鑑みると、ペニーの妄想と単に言ってしまえるのか?アーサーの妄想でここまで細かく設定出来るのか?
『僕だよパパ』と悲痛に叫んだあのアーサーの感情は妄想で片付けてしまえるのだろうか。
総ては、わからない。ただ、これはJOKERの映画だということ。
そして、仮にも「バットマン」の宿敵のジョーカーであるならば、ブルース・ウェインと異母兄弟でした。という方が憎しみが沸くのではないかとは思うが。
これはJOKERの映画なのだ、何が本物で何が妄想で、何が正義なのか、わからない。
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❐まとめ
徹頭徹尾アーサーの一人称であるこの映画は、いくら考えても暖簾に腕押しなところがあると感じる。しかし、ラストシーンのアーカムでのシーンだけが現実でそれ以外はアーサーの妄想であるという説や、アーサーは途中で死んでいるという説、など、少し検索しただけでも五万と様々な説が出てくる。解釈は、観る人の数だけあり、その数だけ様々なジョーカーがあるのだと思う。
ただ、マレー・フランクリン(演:ロバート・デニーロ)がジョーカーに言い放った、『最低な人間だけじゃない』という言葉や、『喜劇は主観だ』と悲しむアーサーの瞳、『あの子泣かないの』と涙するペニーの姿(これはアーサーの妄想かもしれないが)。
これらをもジョーカーの妄想だと言ってしまうには、あまりにも綺麗すぎる。
けれど、トゥレット症のような障害を抱えた細々と暮らすアーサーは確かに劇中にて死んだのだろう。
なぜなら、彼は終盤にかけてほとんど笑わない。
Good night, and always remember that's life.
★★★★★
よき。
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