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「いま中部電力芸術宣言について考える」。またもや遅れて、別の場所で、別々に、だが、にもかかわらず、共に

「いま中部電力芸術宣言について考える」
東京藝術大学芸術情報センター:芸術情報特論A
2011/6/16(木) 5限(16:20~17:50) 東京芸術大学 美術学部中央棟第一講義室

(…)いつもの通り、前提から。私はこの特別講義をリアルタイムに聴講することができなかった。勿論偶々ではなく、営業時間中・勤務時間中であったから、 余程の僥倖に恵まれない限りは断念せざるを得ないのだ。だが幸いにして特別講義はライブストリーミングで公開されているだけでなく、アーカイブされた 映像をストリーミングによって別の場所で、後から、別の場所での視聴が可能である。勿論のこと、電力の供給を前提として。決して空想裡ではなく現実に、 もし電力の供給がなければ私は講義の内容を知ることができない。このことには、講義の題目が「いま中部電力芸術宣言について考える」なのであってみれば、 一度立ち止まって確認するだけの重みがあるだろう。

「いま、考える」と題されたその時、そこではなく、またもや既に遅れて。別の場所で(しかも一回に、一箇所でではなく、何度かに分けて、異なる場所で) 私は講義の記録を視聴した。そして更に遅れて、ここで今、その感想を書きとめておこうとしている。私は「だが、にもかかわらず、共に」と追加されたタイトルを 設定し、何度と無く、これまでも、恐らくはこれからも、「だが、にもかかわらず、共に」の部分を削除すべきではないかという疑念やら削除したいという欲求やらに 囚われてきたし、囚われ続けるだろう。一体何の権利を持って「だが、にもかかわらず、共に」などと言い得るのだろう。それを許諾する権利など実は私は 持っていないことを知っている。聴講者の質疑応答に先立ち、講義の終盤のほとんどをそのコメントで占めた主催者たる東京藝術大学芸術情報センターの センター長(ただしご自分では、この企画には関与していないと発言されていたが)、大学院映像研究科長・教授、メディアアーティストの藤幡正樹さんが 「敬愛する友人」である三輪さんの話の「わかりにくさ」を補うという主旨で為された発言の一節、その時、その場で三輪さんの前で、そしてアーカイブされた 映像記録のストリーミングによる再生が可能にする数限りない反復の中でその都度繰り返して発言された「共闘してきた」という主張とは異なって、私の場合に ついては「共に」を事実問題としても権利問題としても正当化する如何なる立場にもなく、その能力も欠いていることを認めよう。

またもや順序が逆になるが、講義の最後の質疑応答(それは聴講者が筆記した質問を回収して三輪さんに渡し、三輪さんがそれを紹介しながら 回答していくという形式で進められたのだが)において「中部電力芸術宣言」に対する反響の大きさについての質問に対して、三輪さんは、数人の知人からの 個人的な反応以外には(芸術選奨文部科学大臣賞受賞にちなんだメディアの紹介はあったとのことだが)ほとんど反響がなかったと回答をしていたが、 私はその皆無に等しい反響の一つを構成していたに過ぎない。しかもひどく遅れて、全く別の展望からの感想を記し、公開したに過ぎない。それは如何なる 意味でも客観的には「共に」ではありえないと診断されるであろう。

(ちなみに聴講者の質問の一つは、反響の大きさを知る基準として「中部電力芸術宣言」のWebページの アクセス数を問うていたが、三輪さんはそもそも測定していないのでわからないと回答していた。 私はといえば、自分が公開しているWebページのアクセス数は把握しているが、それでわかることは、誰かが読んでいるらしい、 全くのノーマンズランドではないらしいということくらいである。アクセス解析の技術はロングテールの先の先向けではなく、 統計的にある程度の有意性のある分析が出来る程度のスケールのマスマーケティングをまずは想定しているから、分析結果から何かを引き出すのは 「ほとんど反響がない」場合には無理な話である。(ただし、ネットワークがロングテールの先の先の存在を許容するばかりではなく、もしかしたらそうした ロングテールの先の先が最大の受益者かも知れないという点には留意されていいだろう。)ブログのコメント、ツイッターのフォローと、もっと反応を知るのに適した手段を 備えた媒体や装置はあろうが、そうしたコメントやフォローが「中部電力芸術宣言」に対する応答のための媒体として適しているかどうかは別の問題であろう。 あるいはまたSNSのような媒体なら相手が見えるかも知れないが、その代わり、SNSは原則として不透明で、その外にいる人間はその中の様子を知ることができない。 国境があり、異邦人はsans papierでは排除されるしかない。SNSによって選別と排除の論理がそのままネットワークの空間上で実現されているのである。 無論このこと自体は単なる事実の確認で、価値論的は判断を含むわけではないが、それにしてもこうした差異にお構い無しに単純にreal/virtuelを 対立的に捉えたところで、デリダの「新しいインターナショナル」のような様態について語ることが果たしてできるのだろうか。この点は一見したところ、括弧を閉じれば 忘れ去られる脱線に見えるかも知れないが、後ほど報告するように藤幡さんが的確に最初に提起した「宣言」のトポスの問題、あるいは「美術館」「コンサートホール」 「図書館」といったメディア、制度、トポスの問題と無関係ではない筈である。)

だが、私はさしあたりはこの文章の題名を変えるつもりはない。私は「共に」が私の狭隘な主観の思い込み、否、それ以前の「かくあって欲しい」という当てのない 期待、事実上も権利上も許容されない、だがそれなしでは生きていくことができないものであること(ここでカント的な「理念」を思い浮かべていただいても 構わない)を認め、だからタイトルが行為遂行的なものである(「宣言」がそうであるように、と私は呟く)ことを、「共に」がこの文章の前提となる 事実ではなく、そうであることを願いつつ文章が書かれ公開されるものである(またもや「宣言」がそうであることの「応答」として、と私は呟く) ことを認めよう。


視聴する人は、冒頭いきなり、開講にあたってのセンターの助教である城一裕さんによる三輪さんの紹介において「中部電力芸術宣言」が繰り返し 「中部電力宣言」と呼ばれ、しかも恰もそれが伝染するかのように、三輪さん自身、少なくとも一度はその「言い間違い」、「芸術」の言い落としに 巻き込まれるのを聴いて驚くかも知れない。 いや、それともリアルタイムのその時、その場では気にせずに聞き流されてしまうのだろうか。あるいはライブストリーミングでの視聴においてすら。 だが、私自身は後からストリーミングにより視聴して、ひどく驚いて、もう一度当該箇所を「反復」して確認してしまった。(ところでこのような 事後的に、それが私の聞き違えでないことを確認したこと、それを可能にした録画アーカイブの反復可能性は留意するに値しないだろうか。 ライブストリーミングの同時性が、同じものの反復がアーカイブされた画像のストリーミングによる再生によって原理的には何度でも可能であることによって 無効にされ、破壊される点とともに。) 勿論、リアルタイムで本人が気付けば「前言撤回」「言い直し」(私はレヴィナスが「全体性と無限」等で取り上げていることを意識して書いている)の 可能性もあっただろうが、実際には気付かれずか、気付かれても敢えて訂正の必要が感じられなかったのか、言い直しは為されなかった。(ちなみに、後から編集により 「修正」したものに置き換えること、従って厳密に同じものの反復ではない「再生」により事後的にそうした過誤を抹消することも技術的には可能であろうが、 少なくともここで言及している「言い落とし」についてはそのままである。)

ここで「言い間違い」「言い落とし」についての精神分析的な解釈を試みようとは私自身は思わないが、よりによって「芸術」を専門分野とする大学で、 講義名にも「芸術」が含まれている環境でそうした「言い落とし」が起きたことを何かの兆候として解釈することに意義を見出す人もいるであろうから、 そのことをとにかく事実としてここに記録しておこう。それと関係あるかどうかもまたその能力のある方の分析に委ねるとして、三輪さんが講義の中で 「美学的」なことが問題なのではなく、あえて言えば「倫理的」なことが今や問題なのだと述べたことも併せて指摘しておこう。 例えばの話、主催者・招聘者側の紹介においては「芸術」は自明であったから言い落とされたのかも知れないし、逆に三輪さんの場合には、 一般的に「芸術」に纏わる様々な主題系ではないものを取り上げようとしていたからこそなのかも知れないではないか。 (こう書いておきつつ、だが私はこのいずれの可能性も個人的には信じていないこともまた、念のために付け加えておこう。)


([2011/7/1,2付け欄外注記]私は文章を公開してから再度推敲する習慣を持っている。勿論事前にもするのだが、どういう心理的機制によってか 公開したものを読まないと発見できない誤りが多く、ある時期以降腹をくくって、公開後の推敲をいわば「標準化されたプロセス」として 受容することにしたのだ。ところで今回、私は「東京藝術大学芸術情報センター」という固有名を「東京藝術大学芸術センター」と誤記していた ことに気付いた。規則的に何度も、というのはここでは「コピー&ペースト」というデジタルな編集方法に起因するのだが、少なくとも最初の 一度は「言い違い」をしたことになる。私は自分で苦笑し、ここにユーモアを、あるいはある種のアイロニーを認めざるを得ない。何たることか、 今度はソフトウェア技術者、情報処理技術者による「情報」の「言い落とし」である。私は思わず自己分析をしたい誘惑に駆られたが、その 結果はここには書かないで置こう。だがその一方で私はこうして修正の痕跡を残しつつ、「言い落とし」を訂正し抹消することにする。 更にもう何点か、確認のために「東京藝術大学芸術情報センター」のWebページを参照して気付いたことを書き付けておく。

1.「東京藝術大学芸術情報センター」の英語名は、 Tokyo University of the Arts - Art Media Centerであるらしい(センターのWebページはそう「宣言」している)。するとここでは「情報」の 訳語がMediaなのである。(いやそれは翻訳ではないし、そういう逐語的な対応づけは単なる揚げ足取りであり、そういう「子供じみた」議論は 無視してしまおうという人がいるかも知れないので断っておくが、私はあえて、故意にそれをやっている。しかも必要なら、それが必ずしも 曲解ではなく、実は「翻訳」の問題、わけても「固有名詞」の翻訳の問題とはまさにこうした問題なのだということを論証してみせることもできるだろうが、 今はその余裕がない。)少なくとも私の専門領域では、「情報」はMediaの訳語ではありえない。(翻訳の向きをあえて変えて書いていることにも 注意されたい。)ところで、では一体、私の上記の「言い落とし」はどちらを対象にしていたのだろう。少なくともここにもまた、後述の 「東京藝術大学芸術情報センター長」である藤幡さんが提起した「翻訳」の問題があるというわけだ。藤幡さんはここでも件の翻訳について 「私は関与していない」と言うだろうか。更には「翻訳」の元の言語と先の言語の差異ではない、寧ろ複数の翻訳の、「芸術」分野と 「情報」分野の翻訳の間の差異、つまることろ先の言語における複数性、「言語の違い」があるのではなかろうか。「芸術村」の国境があり、そこには 門番がいて、Sans papierでは立ち入ることができない。そもそも門番が従うプロトコルを別の村の住人、異邦人、別の言語を話す私は知らない。 Sans papierは手続き未済の謂ではない。そうではなくて、手続きの仕方を知らず、手続きがそもそもできないこと、より根源的な「異邦性」であり、 ムラの論理における「違法性」ではないだろうか。「芸術センター」ならぬ「芸術情報センター」でありながら、もしかしたらそこでは「情報」が シボレートであり、Mediaと翻訳できなければ立ち入ることができない、、、

2.再び「芸術」の、だが今度は翻訳ではなく、表面上は日本語内の表記の問題。 「東京藝術大学芸術情報センター」には「藝術」と「芸術」が、異体字による差異が含まれている。ここで「藝術」と「芸術」は同じものなのか、 異なるのか。いずれも固有名詞であることに注意しよう。つまりここでは「芸術」大学という制度の歴史と、そこでの「芸術」の自己認識の 変容の問題が兆候的に現れているのかも知れないのだ。更に、「芸術情報センター」の「芸術」は、「宣言」のタイトルというもう一つの、 だが、ここでは一人の部外者、しかしなお他の大学の教授であり、従って「芸術」と「大学」の2つの制度において同業者である(ことが含意され、 暗黙裡に「表明」され「宣言」されていると私には読みとれる)「三輪 眞弘 先生」の「中部電力芸術宣言」における「芸術」と、同じ表記であるが ゆえに同一なのだろうか。あるいはより一般に「メディアアート(Media Art)」の「アート」と「芸術」はどうだろうか。あるいは更に「音響」ならぬ「音楽」を投げ込んだら どうだろう。人はそこに「バベルの塔」を見出すかも知れない、と私は呟く。呟きはだがここでは独語でありながら常に他者に宛てられて、こうしてネットワークの海に 投げ込まれる。誰かが別の岸辺で拾い上げてくれることを期待しながら。)


講義の内容は、「中部電力芸術宣言」と「文部科学大臣賞をいただくにあたって」という2つの文章を三輪さんが読み上げ、補足していくいわば「本論」の部分の前に、 序論的な、だが講義題目である「いま中部電力芸術宣言について考える」に「私(=三輪さん)が」という主語を補った場合の「遂行」としては寧ろそここそが 本論であろうパートがあり、本論部分の後に既に述べた三輪さんの「共闘者」を自負する藤幡教授・センター長による補足とも質疑ともつかぬパートが続き、 最後に回収された聴講者の質疑に対する三輪さんの応答があって終了といった構成であった。ストリーミングによって何度でも視聴できる以上、 細部について紹介するのは不要だし、もし必要ならばそれは主催者側の「権利」でもあろうし、いつものように時間の制約に迫られていることもあるので、 詳細な紹介はせずに、ここでは特に印象に残った部分についてだけ、簡単に書き留めておくことにする。

従って、ここに記載する内容はそれが一見三輪さんの 発言の引用に見えるところでも、基本的にはそうではなくてあくまでも私が聴いたこと、受け止めたことであるという認識に立つのが正当であろう。 そしてまた、これも毎度のことだが、私には三輪さんの発言の持つ射程を「芸術家」、音楽家ないしメディアアーティストの立場、美学者、 メディア理論家の立場で理解し、あるいは批判し、展開させることもできない。 そうしたことは三輪さんの「知人」(当然、藤幡さんや城さんも含む)の、そうした資格を備えた方々の「権利」でもあろうから、ここに記すのは主観的な感想、 アートやメディアに関する理論上、如何なる意義も主張しない単なる感想であることを確認しておこう。 「共に」を願いつつ、だがそれが到達不可能であるという自覚の上で、価値の上でほとんど無に等しい、それこそ文章が公開されたという事実性以外の価値を 認めることができないようなものであるという点を改めて強調しておきたい。免罪符はと言えば、三輪さんの講演の中で、専門分化による「究極主義」と 三輪さんが呼ぶようなあり方に対して、「子供でもわかること」に気付くこと、専門領域でないことについて、だがおかしいと感じたことをおかしいと発言することに 意義を見出していた点に求められるだろうか。であってみれば、通りすがりのソフトウェア技術者のこうした感想が何某かの寄与を為しうる可能性に賭けるほかない。 さもなくば沈黙あるのみ、である。


そういうわけで、印象に残ったのは「本論」部分よりも、序論にあたる部分であった。三輪さんの論旨はいつもそうであるようにここでも非常に明快で 「子供にもわかる」、私のような「国境外」の「異邦人」、身分証明なし(sans papier)に勝手に潜り込んだ聴き手にとってもわかりやすいものであったので、 特に「中部電力芸術宣言」と「文部科学大臣賞をいただくにあたって」の内容とは直接関係のない部分で印象に残った部分に限り、 簡潔にまとめてしまうことにする。(既に触れたとおり、藤幡さんは全く逆の評価に基づき三輪さんの発言の「補足」に踏み切ったのだが、皮肉なことに私にとっては そうした藤幡さんのコメントの方が何倍も難解であり、その論理の展開を追うことに困難を覚えたくらいである。だから実は三輪さんの講演内容は、 「国境外」の「異邦人」、身分証明なし(sans papier)に勝手に潜り込んだ聴き手、非専門家、「子供」に等しい私のような存在にとって「こそ」わかりやすく、 かえって専門家には理解しがたいものであったのかも知れない。)

A.3月11日以降の芸術家の課題は、最早「美学」の領域には属さないという発言。その代わり求められるのは、「子供にもわかることに気付く」ことであること。 これには非常に驚いた。会場がどよめいたようには見えなかったのが不思議に思われるほどに。表面的には芸術作品の創作とは「別の」、例えば今回 主題化された「宣言」のような水準に専ら関係しているように思われるかも知れないが、実はそうではないだろう。三輪さんも補足するとおり、 ここでの主旨はいわゆる「芸術至上主義」の問題視であり、「美学」への自閉が疑問に付されているのであって、だから全く「美学」を、「芸術」を 否定しているわけではない。寧ろ「美学」はその語源が示すとおり、ある媒体を基底に生み出される「効果」にフォーカスが当り勝ちであるのに対し、 もともと三輪さんは「音楽」をより広範な活動の総体として捉えてきた。例えば「逆シミュレーション音楽」の定義にそれは最も端的に、集約されて 現れている。そうした背景を踏まえればこの発言は決して唐突なものではないが、きちんとそうした整合性を追跡する作業は、単に確認の目的のみ になるとはいえ、別途必要になるだろう。

B.Aの前提として、3月11日以降の状況下では芸術家は「役立たず」であるという認識を持つべきだということ。その上で役に立たないなりに、あるいは役に立たないから こそ芸術にしかできないことがあるというのがAの主張に繋がっていく。三輪さんは、恐らく他の「芸術家」がそうすることを否定はしないだろうが、自分自身が 例えば被災地に行って明るい音楽で被災された方々を慰めたり、あるいは亡くなった方を慰霊し、鎮魂する作品を作曲することには違和感を抱いている。 ちなみにこの発言は、現実の時系列ではこの講義の3日後の「舞楽 算命楽」日本初演のコンサートにおける三輪さんの姿勢と一貫していることを 確認しておきたい。


大急ぎで、後半のコメントの部分について。とはいえ聴講者の質疑については、三輪さんの従来よりの活動について知っている人が あまりいなかったようで、ここであえてコメントしたいと感じたものはなかった。寧ろ私にとっては三輪さんの活動を知っている聴講者がそんなにも少ないことに 驚きを禁じえなかった程である。恐らく聴講者の専攻の違いがあって、三輪さんはそこではまずは「音楽家」であり、異分野の人なのかも知れないし (だとしたらここではあろうことか、「芸術情報センター」の「芸術」ないし「アート」と「音楽」の(無)関係が問題になっているのだということを注記しておく)、 科学技術同様、細分化された今日の芸術活動では、外部から想像する以上に各領域の内部が豊かになっていて、それゆえ離れた領域の活動を ウォッチするような状況ではないのかも知れない。あるいは自分の創作活動に沈潜して、他人の活動など気にしている余裕がないのかも知れない。 とにかく私にはわからない理由によって、私のような芸術村の外部の人間の方が、それを理解しているかについてはおくとしても、知識としては三輪さんの 活動を詳しく知っているというパラドキシカルな状況は率直に言って意外であった。

実のところ、「いま中部電力芸術宣言について考える」という題目の 考えるの主語は当然「私(=三輪さん)」だろうという予断を私は持っていて、「今」というダイクシスの時間の経過による指示対象の変化を踏まえた 話を聴けるものと頭から信じ込んでいたのだが、実際にはそうではなく「いま中部電力芸術宣言について考える」の主語は実は聴講者を含む「われわれ」 (三輪さん自身を含むかどうかについての議論はあるだろうが、それは擱くとして、私のように遅れて、別の場所で「幽霊」的に聴講した人間も そこに含まれるのは間違いないだろう)であったのではないかと再考を強いられることになった。つまりここでも三輪さんの意図は(フォルマント兄弟の 「お化け屋敷」がそうであったように)極めて啓蒙的で、そうしたことを考えていないであろう聴き手への呼びかけ、誘いであったのかも知れないのだ、ということに 不覚にも気付いたのは、上述したような三輪さんの活動への聴き手の無関心を認識してからであった。

従って、(またもや順序が逆になるが)それに先行する藤幡さんのコメントにどうしても印象が集中することになる。だがこちらはこちらで、 恐らくは即興で為されたに違いないスピーチであり、しかもエジソン晩年の亡霊との通信の研究(私にはウィリアム・ジェームズの方が馴染みが深いが)への言及から始まって、 device/apparatusの訳語としての「装置」の曖昧さなどを例とした翻訳の、あるいは翻訳しないことの問題、電力については統制的・中央集権的な供給体制にこそ問題が あるのであって、電力についても自給自足になるべきだといった主張がされるかと思えば、「コンサートホール」「美術館」についてのコメント、 それと対比的に提示された「図書館」の問題と、非常に多岐のテーマに次々と飛び移っていくため、個人的には途中にある論理的飛躍(と私には 見えるもの)を埋めることができなかったたりしたこともあり、ニュアンスも正確に掴み切れているとは思えない。個々のテーマは興味深いものだが、 ほぼ条件反射的な感想しか書けないのが残念だが、それでも幾つかの点については触れておきたい。

その前に一点。実は藤幡さんが真っ先に指摘し、三輪さんに問いかけたのは、そもそもなぜ「宣言」なのか、そうしたスタイルを選択したのかという質問、 更にそれに関連して「宣言に含まれるユーモア」の問題、三輪さん自身が「宣言」の初期のバージョンにはより多く存在し、だが、坂本龍一さんなどの 意見を聞いて修正している裡になくなっていったと語ったユーモアの要素についてだった。藤幡さんも指摘している通り、三輪さんは「本論」のコメントの中で、 3月11日震災前には笑いが取れただろうが、最早笑い事ではなくなってしまった箇所についても宣言していた程であり、従ってユーモアの退却の過程に 無自覚であったとは考えられないが、そこから導き出される帰結については結局触れられず仕舞いであった。

私個人の印象としても、ユーモアの側面は三輪さんの 活動のかなりの範囲に渉って確認することができると感じているし、しかもそれは三輪さんの活動にとって決して瑣末な側面ではないと感じてきた(私は 「洪水」誌に寄稿した論考でも、三輪さんの作品におけるユーモアについて触れている)だけに、時間的な制約もあったではあろうが、 この点についての議論が充分になされなかったのは残念であった。例えばユーモアは例えば「逆シミュレーション音楽」では 必須であり、それ以外の三輪さんの作品にもかなりの割合で見られるカバーストーリーの存在と密接に関係しており、それが芸術の「仮象性」、 不正確で些か乱暴な言い換えをすれば「役に立たないこと」に本質的な形で関わっているであろうが故に、単なるレトリック、表現上の文彩のレベルの 指摘に留まらずに、「宣言」の内容に、今回の講義においては、「本論」に先立つ「序論」部分での三輪さんの発言に関連付けた検討が為される 必要があるだろう。

その意味で、続く藤幡さんの「宣言」のようなテキストと「音楽作品」の関係についての問い(ただしそれは一部は「逆シミュレーション音楽」に対する 誤解を含むものであったが)もまた確認する意義のあるポイントであったと思うし、「カバーストーリー」の持つ機能と「宣言」のそれとはまず少なくとも 一旦ははっきり区別されるべきであること、つまり「カバーストーリー」は「逆シミュレーション音楽」の必須の構成要素、その一部だから、それもまた 「音楽」の構成要素である(これは考えてみれば、極めて大胆な基底、驚くべき規定ではなかろうか)のであって、寧ろ「音楽作品」の「芸術」としての 「仮象性」を担保する機構であるのに対し、「宣言」は「逆シミュレーション音楽」の構成要素ではないという点にも、それが寧ろ近年のフォルマント 兄弟の活動に関連することの確認にも異論はない。従ってどちらかといえば「パースペクティブ」や「厄除け札」の側に「宣言」は近接することになろう。 ただし、実際には個別の事情は単純化を許さない。「厄除け札」は「お化け屋敷」という「作品でないもの」の、だが一部ではあろうし、 「パースペクティブ」は「宣言」とは異なり、「フレディの墓/インターナショナル」という対応物を持っている。 (実は私は「フレディの墓/インターナショナル」についての感想において、あえて「パースペクティブ」を「由来」と呼び、上記のような区別を踏み越えた ことがある。だがそこにに私は「ユーモア」を、イロニーを、あるいは批判的な毒をも含めたつもりであった。寧ろ、上記のような区別が仮定されているにも 関わらず、「パースペクティブ」の内容が含み持つ様々な側面が、わけても「ソーカル事件」を思い起こさせるような、まるで出来の悪いカルチュラル・スタディーの 論文のような似非哲学的、擬似理論的な装いが、そうした区別を破壊し、意図してか意図せずしてか「カバーストーリー」の側に倒れこんでしまっているのでは、 いずれにしてもそこにユーモアが生じているのでは、という疑念を呈したのであった。それは「お化け屋敷」の「厄除け札」についても同様で、 それに対して「宣言」については、そうした疑念を抱くことなく、三輪さんの意図する区別の通りに受け止めらるように私には感じられたのであった。)

続く藤幡さんの問題提起、「メディア」の問題をもっと掘り下げて扱うべきであるという指摘もまた、正鵠を射ているように感じられるとともに、 三輪さんの発言、それが「宣言」の範囲を超えてしまうというコメントも納得がいくものであり、私としては三輪さんにというよりは「フォルマント兄弟」に、 藤幡さんが浮かび上がらせた来るべき「論考」を期待したいと思いはするものの(違った文脈で、しかもそこでは寧ろ専ら「理論」に関する「専門家」であるはずの 「フォルマント弟」に対して私はそれを再度求めたばかりであるし)、更にメディアについて、しかもスティグレールの研究で知られる東京大学の情報学環との 過去のジョイントプロジェクトに言及しつつ「亡霊」について言及されたことから、私はその後の議論の展開を期待した。

だが実際には、メディアについての議論は藤幡さんが「亡霊」を呼び出した途端に、まるで憑き物が憑いたかのように変調を来たし、 以下のような指摘の連鎖、論理的にはアクロバットにしか感じられない「離れ業」が続く。私は論理の飛躍についていけず、発言の意図や 含意も把握できずに途方に暮れてしまう。これは非常に強い既視感を伴う光景であると思って反芻してみるに、メディアアート系の対談の類で割合と 高い確率で遭遇しているのだということに気付く。もしかしたら私には秘められた「論理」があって、講義の当日にその場にいた人、「メディアアート」のムラの 住人には簡単にわかることなのかも知れないという懸念は常に(強迫のように)私に憑いているが、今回の打ち合わせでそれが一層強化されたように感じる。 或る種のシボレート(その意味合いについてはデリダを経由しつつ受け取っていただいて構わない)なのだろうか。少なくとも「子供にもわかること」では なさそうに感じたが、もしかしたら「子供にわかる」ことが私にはわからないのかも知れない。だが、それをここで反芻しても仕方ないので、以下には 感じた疑問を単純に並べるだけにする。


1.亡霊、だがここではただちに「エジソンの亡霊」の問題。事実関係は擱くとして、いわゆる一般的な本物(?)の亡霊と、複製芸術におけるアウラの消滅や 事後性(フロイト的な意味合いで)の文脈での「亡霊」概念、非常に単純化して言えば「再生」されたものは「幽霊」でしかあり得ないといった主張における 「亡霊」「幽霊」(だからこれは本来は別の事態を指し示すための言い換えとまずは見做すべきなのだ)とを単純に結びつけ、 エジソンの晩年の活動を「象徴的な例」と見做すのは、議論の余地はないのだろうか。そこには不当ではないにしても慎重であるべき踏み越えが、あるいは ここでは転倒がないと言い切れるだろうか。心霊写真、聖骸布、そして今度は亡霊との通信。象徴でも喩でも結構だが、私にとって興味深いのは、 何故、メディアアーティストやらメディア理論家やらが、文化的・歴史的背景の違いを易々と乗り越えて、ほぼ1世紀前の欧米の、 進化論(ダーウィン)と唯物論(マルクス)と無意識(フロイト)の脅威に晒され、神の死を 宣言され(ニーチェ)て既存の宗教的権威に最早頼ることができなくなった人々がその時、その場で向かった途を、違う時、違う場所である、今、 ここで「象徴」視するのかの方である。それは基本的な問題が変化していないから、つまり違う時、違う場所にいるという認識に過誤が潜んでいる ということなのだろうか。(「子供」は単純に、それに異議を唱えるのではなかろうか。)「昔むかし」という「枠」すらなしの、メディア論の文脈で繰り返される 「物語」、メディア論の研究者に、メディアアーティストにまさに憑いているかのような亡霊の物語は、一体何を背後に秘めているのだろうか。

2.その一方で、輸入された外来語をそのまま翻訳せずに使うことに起因する誤解や、翻訳という変換過程で異なる概念やモノが混同され、区別がなくなる ことに起因する誤解について、藤幡さんは非常に敏感である。一方でdevice/apparatus, instrument/tool, utility/applicationの3つの例示 (ここでそれぞれの当否、対立そのものの是非についての判断は行わない)によってこれらの区別の認識にまつわる問題が例示され、 他方でカタカナで表記される外来語に対する理解の限界についての言及があり、更には後述のように、その敏感さは「図書館」の「輸入」における「誤解」、 文化的誤訳にすら及ぶのだ。 だが私見では上述の「亡霊」「幽霊」の方も、控えめに言っても同程度には翻訳の問題、文化的な背景の違いの問題を抱えている筈である。にも関わらず この感度の差異は一体何に由来するのだろう。その一方で、そうした誤解が問題であることを一旦認めるにせよ、その上でそうした状況への対処については どう考えられているのかは結局明確に示されなかったので、そもそもそうした問題提起の意図は何なのかについても理解できないままとなった。 要するにそうした問題はメディアアートや音楽のみの問題もないし、「芸術」一般に限定されるのですらなく、非常に一般的な問題であって、だからここでは そうした理解の限界が「芸術」においてはどういう影響を生じているのか、あるいは「芸術」においてそれにどう対処しうるのかといった点もまた、杳として 知れないままに終わってしまったのである。そう、何たることか、ここでもまた「芸術」の言い落としが生じているという感覚を免れるのは非常に難しい。

3.「美術館」「コンサートホール」によって美術ないし音楽が「守られている」というのは間違いであるといったニュアンスの発言について。まず、それが 間違いであるかどうかはおくとして、そうした通念がどこで蔓延しているのか、それによってどのような(恐らくはネガティブな)影響が出ているのかといった 前提の部分が私には共有できていないので、それらが「なくなってもいい」と「なくなっても不思議ではない」を同一視しているのか、区別されているのか、 もっと言えば後者はどういうニュアンスで論じられているのかもわからなかった。そもそも三輪さんが「コンサートホール」を引き合いに出したのは、 仮にアコースティックで電気を使っていない作品の演奏であっても、それが「コンサートホール」という場でリアライズされる以上、 電力に依存していること、コンサートホールへの交通アクセスがそもそも電力に依存していることから伺えるように、 表面的ないし局所的な「電力」への絶縁は、何ら本質的な解決になっていないということであった筈である。仮に「メディアアート」は最早 既成の「美術館」のような「装置」なり「制度」を必要としていない、だから津波で流されてしまっても、地震で破壊されても困らないという意味だとしたならば (例えばフランス語ならここは条件法で、スペイン語なら接続法で書くところであるが、日本語ではそれができずに、 ややもすると「誤解」を生じかねないのは遺憾である)、それはそれで結構だが、せめて三輪さんの「中部電力芸術宣言」の文脈に立ち返って、 「美術館」に代わる、ただし「電力非依存」のプレゼンテーションの場が、わけても「メディアアート」についてどのように可能なのか、 具体的に示していただきたいように感じる。否、もっと端的に、「電力非依存」の「メディアアート」が如何にして可能か、場合によっては定義をずらしたり、 変更したりするのは結構だが、その場合には(自作も含めて)従来、メディアアートと呼ばれてきた作品はどうなるのかの説明がなければ不誠実と いうことになるであろう。

4.「美術館」や「コンサートホール」と対比するように「図書館」の方がより大きな問題であるという主張がなされ、図書館が、ここでもまた外来の 制度であって、無理解なまま取り込まれた結果、その意義のすり替えが生じ、結果として「ハリーポッターが50冊も架蔵される」「貸本屋」のような 状況になっているといった現状への批判的な認識が語られる。図書館の「本来的な」「真正な」存在意義に ついての議論の当否そのものはおくとして、一体そのことが例えば直接に「中部電力芸術宣言」に、あるいは間接的に(最初にそう自ら宣言されたように) 三輪さんの活動の紹介に繋がるのかがやはりよくわからなかった。仮にこちらは逆に「中部電力芸術宣言」の文脈との関連は問わないことにしても、 3月11日以降の状況下で物流が麻痺し、書店に届いた雑誌や書籍をまわし読みするような状況が一時的であれ生じたり、公的・私的を問わず、 「貸本屋」すら維持が覚束無い状況が場所によっては継続しているこの時期に、一体どのような意図での発言なのか私には全く 理解できない。実のところ「図書館」のあるべき姿についての主張そのものについては、恐らく私個人としては同意できる点も見出せるのではないかと思うが (念のため繰り返すが、「電力非依存」の方をここでは括弧に入れる前提で)これまで図書館に求められていた機能は、電子アーカイブ等による代替によって その一部をより一層本来の意図に叶った形態で実現できる可能性があるのではないか。個人的に私は「ハリー・ポッター」を読んだことはないし、読む気もないが、 それが必要とされているのであれば、その需要を充たす機能を果たすものがあって何故いけないのか、どういう価値に基づいてか、それを否定し、奪い取る 権利を「芸術家」が有するのか、説明をしていただきたいと感じずにはいられなかった。(藤幡さんはコメントの開始にあたり震災や原子力災害といった ような事態に直面した芸術家はしばしば極端な発言をしがちだが、三輪さんの発言の内容は聴講者にとって共有できるものではないかといったことを 述べたが、私には逆に、藤幡さんのコメントの特に後半部分、つまり「亡霊」が召喚されて以降のそれに、ごく素朴に、些か子供じみた反応だとは 思いつつも、芸術家ならではの極論を感じずにはいられなかった。)

念のため繰り返すが、極めて即興的に行われた印象を持つ藤幡さんのコメントについてこうした疑問を述べることの妥当性、そこにあまりにも論理的な 整合性を要求することの正当性については私は確信が持てないでいる。だがその一方で、これらのコメントは三輪さんの講演内容を補足する意図で 為されている筈(藤幡さん本人がそう「宣言」している)であるのだから、その「宣言」の遂行の首尾について抱いた上記のような疑問を書き留めることは 不当とはいえないだろうと思う。そしてこれらの一連の疑問には、一般には私の側の不勉強とされるであろう文脈、知識の欠如、とりわけ藤幡さんの 活動に対する情報の欠落に起因するものもあるだろう。論理の飛躍を感じられたものも、文脈がありさえすれば容易に補完できるものでありえよう。 藤幡さんの言う「共闘」の結果の成否についても、勿論私は判断の留保をせざるをえない。

(もっとも、藤幡さんとの接点が、この講演のコメントの 1点に限定されるわけではないことはここで断っておくべきだろう。私は3月11日に先立って「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」を訪問したときに、ふとした 偶然で藤幡さんの「モレルのパノラマ」に接する機会があったのだが、思い起こせばそこでも、「エジソンの亡霊」と同様のパースペクティブのずれや、 論理のアクロバティックな流れ、そしてやはり「翻訳」にまつわる違和感(ただしそこでは、何故作者が「モレルの発明」を日本語の「翻訳」で読むのか という点に関する素朴な違和感だったのだが)を感じたのだった。だからわずかに2点で接しているのみとはいいながら、実は印象は一貫しているようにも 思われるのだが。)


「子供でもわかることに気付くこと」。それは芸術家のみに課せられているのだろうか。それは「ムラ」の外にいる私にも課せられているのではなかろうか。 この講義は、リアルタイムのそれも一般に公開されていたし、ライブストリーミング、アーカイブのストリーミングによる再生についても 「デジタルデバイド」の問題を除けば、誰でも利用し、視聴できる。だからこそこうして外部の人間である私が視聴した感想をまとめることが可能なのだ。 私はこの点に関して、 東京藝術大学芸術情報センター(従って、その長である藤幡さんに対して)、およびこの講義の企画をされた先生方、配信を実現するために尽力された方々に 対して率直に感謝の意を表したい。藤幡さんは「エジソンの亡霊」に関連して、電力供給の中央集権化の弊害と、それへの対策として自家発電による 分散を主張されていたが、是非、東京藝術大学芸術情報センターにおける自家発電の実現を期待したい。勿論、 芸大のサーバーやネットワークが落ちないだけでネットワーク配信体制の維持ができるわけではないが、芸大を起点とする自家発電のネットワーク化の 実現の意義は非常に大きいと思われる。

三輪さんの宣言もまた、知人たちのネットワーク、例えばSNSの空間内で公開されたのではなく、やはり誰でもアクセス可能な(ただし、 電力の供給と一定のメディアリテラシーが前提であることを、くどくても確認しておこう)場に公開されている。私のような芸術家ならぬ部外者は お呼びではないのかも知れない。改めて「共に」と語る権利はないのかも知れない。だが事実として三輪さんの宣言は私に届き、 私はそれにこうして繰り返して、改めて返答する。三輪さんに宛てて秘密裡ではなく、返答をこのように公開することによって 宣言の行為遂行性に応えるべく。「子供でもわかることに気付くこと」が自分にはひどく困難であろうこと、その意味でも改めて応答の困難さを認識しつつ。

その代わりといっては何だが、「共同体」になくてはならない複数性に思いを致しつつ、もう一度、「いま中部電力芸術宣言について考える」のは「誰」だろう。 それは決して単数ではない。まず「宣言」が他者に対する呼びかけであり、「お友達」の多少に関わらず、否、事実上不在であろうが、「宣言」は予め他者に宛てられている。 そうした差し向けの行為について考える人は、この場合の差し向けた当人である「私(=三輪さん)」(だがそれは厳密に同じといいうるだろうか?)だけでもなければ、 ネットワークの海の対岸に辿りついたその「宣言」を受け取ったこの私(だが、こちらも単数ではない。「宣言」の差し向けは、常に複数の「他者」に対してのもので しかあり得ない)だけでもなく、勿論のこと、二者だけでもない。閉じた送受信の、コミュニケーションの回路が形成する「われわれ」の閉鎖性を、「宣言」の構造は 許容しない。常に少しずつ、それぞれがそれぞれに遅れて、別の場所で、それでもなお「共に」あることを願って。或る閉じた「われわれ」のためのだけではなく、 先行した者の、遅れてくる者のためにも、なおかつ、その都度違った「われわれ」によって、繰り返し、繰り返し(…)

(2011.6.30未定稿のまま暫定公開, 7.1,2誤記訂正・欄外注記加筆, 7.4誤記訂正・加筆, 2024.7.3 noteにて公開)

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