山崎与次兵衛

ソフトウェア技術者。三輪眞弘とマーラーの研究者。スケジューリング学会、日本OR学会、 …

山崎与次兵衛

ソフトウェア技術者。三輪眞弘とマーラーの研究者。スケジューリング学会、日本OR学会、 国際マーラー協会各会員。日本マーラー協会元会員。 著書(共著)『配信芸術論』(アルテスパブリッシング)。『詩と音楽のための「洪水」』(洪水企画)、マーラー祝祭オーケストラプログラムなどに寄稿。

マガジン

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:山本家狂言鑑賞記録

    これまでWebで公開してきた、大蔵流狂言師山本則俊師の舞台を中心とした山本家の狂言の鑑賞記録を、2023年11月に逝去された山本則俊師を偲びつつアーカイブ。

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

    これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

    これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。

  • 魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:ジッド『田園交響楽』を読む

    『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』別冊。ジッド『田園交響楽』の読解。原題「魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む」, 2013.9.15 Web公開, 2014.6.28 blogで再公開。

  • 山崎与治兵衛アーカイブ:香川靖嗣演能鑑賞記録

    これまで20年に亘りWebで公開してきた、喜多流能楽師香川靖嗣師の演能の鑑賞記録をアーカイブ。

最近の記事

ハゲマス会「第8回狂言の会」を観て

「柿山伏」山本東次郎・山本則俊 「那須」山本則俊 「木六駄」山本則俊・山本東次郎・山本則直・山本泰太郎 小舞「暁の明星」山本則直 小舞「蛸」山本東次郎 「六地蔵」山本則重・山本則秀・山本則孝・遠藤博義 麻生文化センターを会場とするハゲマス会主催の大蔵流山本家による狂言の会は、第7回を一昨年拝見している。 1月29日の第8回の番組にお誘いを受けて出かけた。番組は「柿山伏」、「那須」、「木六駄」、「六地蔵」に、小舞二曲と いう盛りだくさんなもの。 「柿山伏」は一見、物まねの演

    • アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について(2)英訳の場合

      アドルノのマーラー論での第4交響曲への言及に関して、新しい邦訳と私見との相違を別の記事でまとめたが、 その後、英訳(Mahler - A Musical Physiognomy, translated by Edmund Jephcott, 1992, The University of Chicago Press)を入手して確認したところ、英訳版ではアドルノの注の 付け方を練習番号との相対位置に基本的に改める方針をとっていることがわかった。 (ただし厳密には参照できたのは1

      • クリストフ・ヴィリバルト・グルック

        グルックの名は一般には「オペラ改革」の担い手、グルック・ピッチンニ論争の 一方の当事者として語られることが多いのだろう。いわゆるピリオド・スタイルの 演奏が定着した現在、時折、辛うじて「オルフェオとエウリディケ」のみが、 それ以降のオペラの先駆として定期的に歌劇場で再演される伝統的なレパートリーに 残っているのを除くと、寧ろそれはバロック・オペラの掉尾を飾る作品群に 分類されることが一般的になりつつあるかのようだ。「改革オペラ」の実作例である 「アルチェステ」「アルミーデ」「

        • 語録:アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉

          アルマの「回想と手紙」にある自分の墓と葬儀についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.226, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.228) 最後のマーラー自身が言ったものとして記録された言葉は有名だろう。ご存知の方も多いと思われるが、墓石についての彼の希望は入れられ、 分離派のヨーゼフ・ホフマンのデザインによる墓石には、彼の名前のみが刻まれている。行列と弔辞の方はどうだったろうか? マーラーがここで拒絶したのは、 ウィーンでは伝統のある、大勢の市民が行列

        ハゲマス会「第8回狂言の会」を観て

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        • 山崎与次兵衛アーカイブ:山本家狂言鑑賞記録
          5本
        • 山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー
          66本
        • 山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集
          26本
        • 魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:ジッド『田園交響楽』を読む
          19本
        • 山崎与治兵衛アーカイブ:香川靖嗣演能鑑賞記録
          14本
        • バルビローリのマーラーを聴く
          13本

        記事

          魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(19)

          だが、例えばジャン・ドラノワの映画の結末をもって、ジッドの「田園交響楽」の解説とする(しかもそれがジッドの作品の持つ多義性とやらを 口実になされたりする)人間が自ら作家を自称するのを見れば絶句せざるを得なくなる。ドラノワの作品は、原作であるジッドのそれとは まずは全く別の作品であると考えるべきだ。主要な登場人物の人間関係がかくまで改変され、原作にない場面が夥しく追加されてしまえば、 ある行為の持つ意味は、その文脈の違いに応じて全く異なったものに変質する。もっとも、それは映画作

          魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(19)

          語録:1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉

          1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4。なお1996年版では、1924年版書簡集原書153番は180番を始めとする幾

          語録:1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉

          「第7回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成25年4月6日)

          能「伯母捨」 シテ・香川靖嗣 ワキ・宝生閑 ワキツレ・宝生欣哉・御厨誠吾 アイ・山本東次郎 後見・塩津哲生・中村邦生・友枝雄人 笛・一噌仙幸 小鼓・大倉源次郎 大鼓・柿原崇志 太鼓・観世元伯 地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・内田成信・金子敬一郎・大島輝久・佐々木多門 2007年の初回から数えて7回目となる今回の香川靖嗣の會は、老女物の中でもいわゆる「三老女」の一つである「伯母捨」が取り上げられた。 いつもの通りの公演冒頭の馬場さんのお話では、永く能に親しみ、とり

          「第7回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成25年4月6日)

          バルビローリのマーラー:第1交響曲・ハレ管弦楽団(1957)

          LPでのリリースが知られていながらCD化されていなかったものをバルビローリ協会が 復刻したもの。1957年6月11,12日にハレ管弦楽団の本拠地であるマンチェスターの 自由貿易ホールで録音され、Pye Recordsからリリースされたものである。 この曲は、マーラー演奏が「普通」になる以前でも相対的に演奏・録音の機会が多 かったのだが、今日ではかえって取り上げられる頻度が減少している感すらある。 恐らくその音楽があまりにナイーブに過ぎて、耳がすっかり肥えてしまい、 マーラー

          バルビローリのマーラー:第1交響曲・ハレ管弦楽団(1957)

          魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(18)

          18. もう一つの偶然の一致。ジェルトリュードとナスターシャの両方を演じた女優が実は日本にいる。原節子だ。もっとも原作とは逆に、 原節子はジェルトリュードを演じた後にナスターシャを演じているのだが。これは原節子のステロタイプ的なイメージからすれば意外だが、 黒澤の「白痴」を評価し、そこでの原節子の演技を評価するのであれば、出来すぎた符合という他ない。

          魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(18)

          アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について

          アドルノのマーラー論は全編にわたって具体的な楽曲への言及がされているが、 それらは全て注の形をとっている。そしてその指示は、アドルノが参照した研究用スコアの ページとページ相対の小節数によっている場合が多い。この方式の問題点は、 アドルノが参照したものと同一の版でないと指示している場所が確定できないことである。 (練習番号で指示がされている場合もあり、こちらは版に拠らないので問題はない。) 実際には、訳注で述べられている通り、第4交響曲の場合が問題で、現在一般に使用されている

          アドルノのマーラー論における第4交響曲への言及について

          「科学技術終結期」に旧人によって書かれたメモ

          三輪眞弘「感情礼賛」(2008年11月7日初演)「今年の感情礼賛について 《学長の挨拶》」(「三輪眞弘音楽藝術」所収) (...) 意識は存在しないのか?クオリアは存在しないのか? 意識は存在しない、或いは、クオリアは存在しない、といった言い回しは、 人を驚かし、興味を惹き付けるレトリックとしての意義はあるだろう。 だがそうした主張は、決まってまず、意識なりクオリアなりの定義が曖昧であることを 指摘し、自分なりに意識なりクオリアなりを定義し直し、そして自分の定義した 意識

          「科学技術終結期」に旧人によって書かれたメモ

          私のマーラー受容:マーラーとの出会い

          マーラーを初めて聴いた時のことは比較的はっきり覚えている。何を聴いたかだけではなく、聴いたときの状況や、 視覚的な情景まではっきりと記憶している。 中学生になった最初の夏の夏休みの恐らくは午後、確か、夏休みの宿題であった火災予防か何かのポスターを 作っている最中に、たまたまポータブルのラジカセをつけたら流れてきたFM放送で第1交響曲を聴いたのが最初であった。 その時に放送されたのは、小澤征爾指揮のボストン交響楽団の録音で通常の4楽章形態であった。 当時の私は既にフランクの晩

          私のマーラー受容:マーラーとの出会い

          第2章:双分観と三分観

          1. 狩俣における双分構造の複合と重層の様相 以下、双分観に関して、双分構造の複合と重層の様相を把握しつつ、それと三分観の関わりを描き出すことを試みる。 まずは東西の方位観について、8月15日の十五夜の綱引きを手掛かりに見ていくことにする。 当然のこととして、南西諸島に共通する、男(ビキリ)/女(ブナリ)の双分観をまず見ることができる。ここでは西がブナリであり、ブナリが勝つと豊作で、他の地域の綱引きでしばしば見られるように、綱引きの結果が非対称の場合には、実質的には正

          第2章:双分観と三分観

          バルビローリのマーラー:第9交響曲・トリノ・イタリア放送管弦楽団(1960.11)

          既述のように、バルビローリがマーラーを取り上げるようになったのは第二次世界大戦後のことだが、最初に取り上げた交響曲が 第9交響曲(1954年2月)であったことは銘記されて良いだろう。バルビローリはある作品を取り上げるにあたって場合によっては 数年前から念入りに準備をして臨んだだけに、どのような経緯がそこにあったにせよ、第9交響曲を他の作品に先駆けて研究し、 まさに己の血肉となるまで消化したという事実は確認されて良い。そしてその第9交響曲の演奏記録のうち最も時代的に早いのが こ

          バルビローリのマーラー:第9交響曲・トリノ・イタリア放送管弦楽団(1960.11)

          日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(11)

          11. もう一点。ジッドは「狭き門」を書きあぐねて、マドレーヌが若き日に(つまりマドレーヌが丁度アリサのような立場にあった時期に)書いた日記を 見せてもらい、その一部を利用しているらしい。ジッド自身は、ほとんど収穫がなかったような言い方をしているらしいが、それでも文脈を変え、 幾つかがマドレーヌの日記から取られているのは実証できるようだ。しかし、それ以前に、マドレーヌがジッドに送った書簡は、その一部はほとんど 文字通りそのまま作品に取り込まれていること、失望することになった

          日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(11)

          証言:丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より

          丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」(in 「音楽の手帖 マーラー」(青土社, 1980))より  丸山桂介の上記の文章に出会ったのは、今から35年前に、音楽の手帖「マーラー」(青土社, 1980)に 掲載されているのを読んだときのことであるが、私見では、日本語で書かれたマーラーを巡る文章の中でも 群を抜いて、圧倒的で永続的な印象を与えられた文章であり、今尚読み直しても、その内容は聊かも古びて いないと思われる。バッハとベートーヴェンの研究者として知ら

          証言:丸山桂介「隠れたる神 第九交響曲の「アダージョ」に寄せて」より