山崎与次兵衛

ソフトウェア技術者。三輪眞弘とマーラーの研究者。スケジューリング学会、日本OR学会、 …

山崎与次兵衛

ソフトウェア技術者。三輪眞弘とマーラーの研究者。スケジューリング学会、日本OR学会、 国際マーラー協会各会員。日本マーラー協会元会員。 著書(共著)『配信芸術論』(アルテスパブリッシング)。『詩と音楽のための「洪水」』(洪水企画)、マーラー祝祭オーケストラプログラムなどに寄稿。

マガジン

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

    これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

    これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。

  • 山崎与次兵衛アーカイブ:透谷巡礼をめぐる16の断片

    ブログ「山崎与次兵衛アーカイブ:透谷巡礼」(https://tokoku-yojibee.blogspot.com/)で公開した透谷の「聖地」を巡ることをめぐっての文章をアーカイブ

  • 魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:ジッド『田園交響楽』を読む

    『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』別冊。ジッド『田園交響楽』の読解。原題「魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む」, 2013.9.15 Web公開, 2014.6.28 blogで再公開。

  • 日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』を読む

    『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』別冊。ジッド『狭き門』の読解。原題「日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ」, 2013.9.15 Web公開, 2014.6.28 blogで再公開。

最近の記事

マーラーを何故聴くのか

なぜ私はマーラーの音楽を聴くのか? なぜ(辛うじて生きる時代の一部を共有しはしていても)過去の、しかも文化的な環境も社会体制も全く異なる場所の作曲家の音楽を聴くのか? 何に惹かれ、何をそこから引き出そうとしてその音楽を繰り返し聴くのか? マーラーを聴くのは、知的な関心からではないし、娯楽としてでもない。 CDを買って聴く、(滅多にないことだが)コンサートに行く、というのは経済的な観点からいけば消費には違いない。 だが、それは暇つぶしではない。それを楽しみといってよいかどうかも

    • 武満徹

      1990.11.6 東京文化会館 新日本フィルハーモニー交響楽団第184回定期演奏会<武満徹 還暦記念作品集> 指揮:小澤征爾 弦楽のためのレクイエム ノヴェンバー・ステップス、琵琶:鶴田錦史、尺八:横山勝也 リヴァラン、ピアノ:ピーター・ゼルキン ア・ストリング・アラウンド・オータム(日本初演)、ヴィオラ:今井信子 武満徹を最初に聴いたのが何だったのか、はっきりした記憶はない。けれども最初に強く惹き付けられ、そして今でも自分にとっての「代表曲」が何であるかははっきりし

      • 断片II 墓参

        前日出張で熱海に宿泊し、その翌日の昼前に家に戻る途中、帰りに 小田原で少し時間ができたので、久しぶりに小田原駅の周辺を一人で歩いた。 時間にしてほんの30分強程度でひとめぐりしたのだが、出張に岩波文庫の 透谷の選集を持っていったこともあって、透谷の墓の場所を確認しようと、 朝、起き抜けの熱海のホテルでふと思い立ったのがきっかけである。 小学校の低学年のときに郊外に越すまでは、小田原駅から10分くらいの 町中に住んでいたし、その後は高校が小田原駅の裏の山の上だったので、 今度

        • 魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(3)

          3. であってみれば、新庄嘉章の解説もまた的外れに感じられる。ここにカトリック批判があるか?ジェルトリュードがカトリックに改宗していなければどうだったというのか? 「すべては許される」とでもいうのか?ここでは対抗すべきプロテスタンティズム自体が不在なのだ。在るのは(恐らくジッド自身が実践し、だが、 自分自身、それに説得されることが決してなかった)恣意的な聖書解釈だけだ。そこにあるのは卑劣で醜悪な自己正当化の具と化した 見せかけの信仰だ。ジッドはその限界を、無力を、虚偽を自覚

        マーラーを何故聴くのか

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        • 山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー
          38本
        • 山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集
          19本
        • 山崎与次兵衛アーカイブ:透谷巡礼をめぐる16の断片
          2本
        • 魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:ジッド『田園交響楽』を読む
          3本
        • 日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』を読む
          3本
        • 「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ
          2本

        記事

          日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(3)

          3. かつて私が最初に読んだのは、今から35年近く前、丁度マーラーの音楽と出逢い、「カラマーゾフの兄弟」と出逢ったのと同時期であり、それ以来、 この作品は、遠ざかっているときでも或る種の基調音として、時折は明確に主題的に自分に問いを突きつけるものであった。 最初に読んでから4,5年してからだろうか、しばらく距離をおいてから、改めて読み直したことがある。(ちなみに、最初に読んで以来、 私は山内義雄訳でずっと読んできて、しばらくしてから原文で読むようになったが、その後も翻訳の中

          日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(3)

          「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第1章 <二分心>の位置づけ

          第1章 <二分心>の位置づけ 1.心のシステムと社会のシステムの関わりを問うことの妥当性 まず心のシステムと社会のシステムの関係はおよそ自明ではなく、単純な同一視は許されないことに留意する必要がある。藤井貞和『古日本文学発生論』における古橋批判「国家成立以前的段階から以後へという展開が、意識の次元でとらえられているという決定的な弱点(…)」(同書, p.20)を常に念頭におく必要があるということだ。確かに古橋の議論には直ちには首肯し難いものが感じられるが、それがどうしてなの

          「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第1章 <二分心>の位置づけ

          (自)意識の音楽・自我の音楽:マーラーを聴くこととはどういうことか

          音楽を聴くということは、一体どういうことなのだろう。 私がマーラーの音楽を聴くとき、何が起きていると考えれば、その音楽に惹きつけられる理由が わかったり、あるいは、自分がそこで感じているものを説明できるだろうか。 勿論音楽には色々な聴き方があり、誰の作品を誰が聴くかによりそれは違っていてよい。 ある聴き方というのは、あるタイプの作品にのみ適用可能だろう。また、同じ音楽に対して 様々な聴き方が可能だろう。 だから、ここではマーラーを私が聴く場合に限定して考えてみよう。 手が

          (自)意識の音楽・自我の音楽:マーラーを聴くこととはどういうことか

          フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについてのメモ

          最初にお断りしておくが、私は「フレディーの墓/インターナショナル」という「作品」が提示していると私が感じ取り、あるいは認識しているものの意義の 大きさについて確信しているし、以下のような文章を書いたからといって、その評価を撤回なり補正なりすることを意図しているのではない。それ以前の三輪さん単独での 逆シミュレーション音楽の企図、その後のNeo都々逸シリーズの展開といった展望の中に位置づけたとき、「フレディーの墓/インターナショナル」の中の 「デジタル・ミュージック」における6

          フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについてのメモ

          音楽が未来を予言する?

          人はとかく音楽を未来を予言する書物に比し、作曲家を未来の預言者に仕立て上げたがるかのようだ。 さながらマーラーの音楽の場合なら、西欧の近代的な文化の没落を予見していた、みたいな ことがまことしやかに主張されることになる。 更には、例えばことばに比べて音というのはそれが何かは定かではないながらもある種の空気を察知する面が あるということを根拠に音楽が他の媒体に比べたとき、優れて予言に適した媒体ではないのかという 問いが為されることがある。 だがいわゆる表現媒体の違い、意味作用

          音楽が未来を予言する?

          喜多流職分会2004年10月自主公演

          狂言「鎌腹」 シテ・山本則俊 アド・山本則秀 アド・遠藤博義 狂言「鎌腹」の充実感はとてつもない。山本則俊さんの狂言を拝見していると、自分がとてつもなく 貴重な舞台に接しているのだという思いを強く抱く。全体の構成、細部の仕上げ、どこをとっても 最高度に完成された芸術品なのだ。緩むことのない、見所にとっては心地良くさえある緊張感。 無駄なく、完璧に均整のとれたかたちとことば。(小道具の扱いさえ、疎かにならないのだ。) そして、その裡から溢れ出てくる諧謔味。山本家の狂言は、型の

          喜多流職分会2004年10月自主公演

          自己組織化システムとしてのマーラーの交響曲についてのメモ

          マーラーの「交響曲」は小説的であり、ポリフォニックである。オペラとの対比では一見して交響曲は主観的な叙述であり、 モノローグ的であるという誤解が生じがちである。だが、オペラは文学的形式としては劇の類比物であり、寧ろモノローグ的 なのだ。そもそも「歌曲」からして、マーラーのそれは主観的な語りではありえない。 例えば以下のような文章で探り当てられようとしているのは、まさに寧ろ交響曲の方が、オペラのような一見 ハイブリッドでマルチメディア的なジャンルよりも多声的であることについて

          自己組織化システムとしてのマーラーの交響曲についてのメモ

          「第108回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成28年8月6日)

          「第108回川崎市定期能」第1部 能「六浦」 シテ・香川靖嗣 ワキ・森常好 ワキツレ・森常太郎 アイ・山本泰太郎 後見・友枝雄人・友枝雄太郎 笛・栗林祐輔 小鼓・森貴史 大鼓・大倉慶乃助 太鼓・小寺真佐人 地謡・大村定・中村邦生・長島茂・友枝真也・谷友矩・塩津圭介 能を拝見することには、或る種の非日常的な出来事の追体験といった側面があるように思われる。 それは能舞台での演能を介した仮想的な経験であり、決して現実の経験ではない。 「追体験」、という言い方をしたが、実のところ

          「第108回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成28年8月6日)

          歌曲の調性と声部指定について―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

          マーラーの楽曲における調性配置を気にしだすと、マーラーの作品におけるジャンルの問題が奇妙な仕方で 出現することに気付いたことがある。組曲形式における調性配置はマーラーにとっては重要な 視点であり、また時代遅れと揶揄されるほど全音階主義的なマーラーは、古典期までは 普通であった特定の調性と曲の性格の対応のようなものすら意識していたようで、実際例えば イ短調がマーラーにおける「悲劇の調性」ということになっていたり、それほど明確ではなくても ハ短調やニ短調あるいは変ホ長調、ホ長調と

          歌曲の調性と声部指定について―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

          ヤニス・クセナキス

          恐らく多聞にもれずというべきなのだろう、私の場合もクセナキスへのアプローチはその作曲の方法論への興味が先行した。つまり実際の音響的な実現を享受する以前に、確率的な音群の操作や音階についての考え方などを知って興味を持ったのだと思う。クセナキスの「理論」というのはいわば「後追いの理屈」みたいな部分があって、批判が多いのも仕方ないが、それによってその着想の部分の独創性まで否定されてしまったら、洗い桶の水もろとも赤子まで流すことになってしまうだろう。要するに彼の作曲の技法は、数学的な

          ヤニス・クセナキス

          マーラーの音楽の「風景」

          音楽を聴くとき、「想像上の風景」(イマジナリー・ランドスケープ)が頭の中に思い浮かぶことがある。それはその音楽が風景を描写した標題音楽であるか否かとは関係がないし、「想像上の」(イマジナリー)と書いたように、自分の知っている具体的な場所の記憶との連想でもない。もっと言えば、それは具体的な細部を欠いていて、実質を突き詰めていけば、音楽が惹き起こす幾つかのモーダルな質の複合に過ぎないのかも知れない場合もあるし、もう少し具体的な地形、季節、天候、時間帯といったものを備えていることも

          マーラーの音楽の「風景」

          断片I 120年後の透谷

          透谷の立っていた位置から1世紀後の人間は、一体どれだけ移動したというのか? 日本人の心性は、儒教的・仏教的なものに如何に深く根付き、だけれども 日本独特の神道的なものと(それ自体、極めて日本的な仕方で) 混淆していることか、西欧的な権利や義務の概念からの隔たりが如何に大きく、 あるいはまた、キリスト教的な一神教的、直線的な時間性から如何に遠いか。 しかもそうした日本人的な心性は、例えば東日本大震災のような状況において 端的なかたちで表れる。それは単純に西洋に対する東洋という

          断片I 120年後の透谷