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山崎与次兵衛アーカイブ:作曲家論集

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これまでWebページ、Blog記事として公開してきた、クラシック・現代音楽の作曲家の人と作品についての文章をアーカイブ。
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バルビローリのシベリウス:第6交響曲 ハレ管弦楽団(1970)

他の演奏と比較した時、第1楽章のゆっくりとしたテンポが印象的。 ゆっくりした流れの向こう側から立ち上ってくるものを感じる。 個人的に最もシベリウスらしいと思っている曲。音を秩序づける主観をほとんど感じさせない、 無人の音楽。シベリウスの沈黙は、音楽を構築してしまうこと、 音の「自然」に対する主観の暴力への抵抗ではなかったか? そんな自然がどこにあるかという問いは、例えばこの曲を聴くと空しく思える。 音楽が湧き出てくる少し手前に間違いなく存在しているように感じられるから。

バルビローリのブラームス演奏について

 バルビローリのブラームスに対する私の最初の印象は、 第2交響曲のウィーン・フィルとの演奏に基づくものだ。私はこれはLPレコードで入手して、繰り返し聴いたものだ。一般には粘るような 歌い方で、情緒たっぷりの演奏というような評が普通のようだが、 私の印象はかなり異なって、涼しげで透明感さえ感じさせる空気の爽やかさが 特徴と感じられた。それはその後CDで聴くことになった他の曲でも同様である。 (なおブラームスの交響曲一般についてということであれば、上記のバルビローリとウィーン・

バルビローリのシベリウス演奏について

バルビローリのシベリウスについて言われていること。北欧的な演奏スタイルではないこと。 (誰も言わないが、さりとてドイツ的なスタイルでもない。更にイギリス的な演奏だという 言い方を聴いたこともない。)私はいわゆる同曲異盤聴き比べとかにはあまり関心がなく、 だからシベリウスはバルビローリでいいやと思っていて、他の演奏といっても手元にあるのは、 ザンデルリンクくらいだ。従って民族性と個人的な個性のどちらが勝っているのかもわからない。 どういうのが北欧的なのかもよくわからない。 多

オイゲン・ヨッフムのブルックナー(2):録音を聴いた感想

ヨッフムは実演を聴いて感銘を受けた数少ない指揮者の一人。聴いた演奏ではないが、同じ来日公演の同一曲の演奏記録のCDがリリースされたので聴くことができる。ひと頃はコンサートに行かなかったわけではないが、出不精もあって、圧倒的な印象を受けた実演に接したことは非常に少ない。かつまた音楽の聴き方はやはり変わっていくもので、嗜好も当然変化する。そうした中で、演奏の記録を聴き返すたびに、なお感動を新たにする演奏家で、かつ素晴らしい実演に接することができたという点で、ヨッフムは私にとっては

オイゲン・ヨッフムのブルックナー(1) : 実演に接した感想

1986.9.16 東京文化会館 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 ワグナー トリスタンとイゾルデ 前奏曲と愛の死 ブルックナー 交響曲第7番 もう聴いて20年近く経つが、この演奏会は当時の私にとっても今の私にとっても群を抜く、圧倒的な経験だった。 当時の私にとっては、ヨッフムは特に熱心なファンではないけれど、1度目のブルックナー全集(その当時、第9、第5、第2を持っていた)や、コンセルトヘボウ管弦楽団との「大地の歌」のレコードで馴染みの指揮者で、「あの」コンセルトヘボウ

クリストフ・ヴィリバルト・グルック

グルックの名は一般には「オペラ改革」の担い手、グルック・ピッチンニ論争の 一方の当事者として語られることが多いのだろう。いわゆるピリオド・スタイルの 演奏が定着した現在、時折、辛うじて「オルフェオとエウリディケ」のみが、 それ以降のオペラの先駆として定期的に歌劇場で再演される伝統的なレパートリーに 残っているのを除くと、寧ろそれはバロック・オペラの掉尾を飾る作品群に 分類されることが一般的になりつつあるかのようだ。「改革オペラ」の実作例である 「アルチェステ」「アルミーデ」「

バルビローリのブルックナー:第7交響曲・ハレ管弦楽団(1967年4月26日・マンチェスター、自由貿易ホール)

バルビローリがブルックナーの音楽を非常に好んでいたのは、ブルックナーの評価がドイツ語圏にほぼ 限定されていて、まだ評価が定まっていなかった時期のイギリスとアメリカで、それをしばしば取り上げた ことからも窺える。恐らくはレパートリー上の棲み分けの問題などもあって、正規のスタジオ録音が なかったため、バルビローリのレパートリーの中でブルックナーが占めている位置の大きさを知ることは、 近年のBBCによる放送音源や演奏会のライブ録音のリリースまでは一般には困難であったと言って良い。

バルビローリのブルックナー:第3交響曲・ハレ管弦楽団(1964年12月18日・マンチェスター、自由貿易ホール)

ハレ管弦楽団の根拠であるマンチェスターのフリー・トレード・ホールにて収録された放送用 音源をBBCがCD化したものである。同年9月に3回この曲は演奏会で取り上げられており、 それを踏まえて放送用に収録したものとのことである。放送用音源の多くがそうであるように、 これもまたモノラルで、音質が気になる人は聴取に抵抗を覚えるかも知れない。 流石にバルビローリのブルックナーの3曲目になるとどういう演奏になるかは或る程度 想像がつくようになるので、第9交響曲や第8交響曲を聴いたときの

バルビローリのブルックナー:第9交響曲・ハレ管弦楽団(1966年7月29日・ロイヤルアルバートホール)

ロンドンのロイヤルアルバートホールでの演奏の録音。マーラーの第7交響曲とのカップリングで BBCのレジェンドシリーズでリリースされたものだ。 上述のようにいわゆる今日標準的と見なされるであろうブルックナー演奏の様式からは まったくかけ離れた演奏だ。多分バルビローリは他の作曲家の作品と基本的には同じ スタンスで臨んでいるのだと思うが、テンポの設定、フレージング、強弱法、どれを とっても極めて個性的な演奏になっている。 バルビローリの演奏が意識の音楽であることが些か極端なかた

バルビローリのブルックナー:第8交響曲・ハレ管弦楽団(1970年5月20日・ロイヤルフェスティバルホール)

これはバルビローリの生涯の最後の年の演奏で、これに先立つこと約1ヶ月の4月30日に マンチェスターで同じ曲を演奏した時に、バルビローリは心臓の発作に見舞われたらしい。 その演奏の驚くべき覇気は、これが最後になるかも知れないという意識と無関係ではないのだろう。 それはあの7月24日の演奏会のエルガーと同じような、切羽詰った何かを感じさせる演奏だ。 演奏の様式は、現代ではもはや前時代的とされるものだが、一聴して驚かされるのは その解釈の緻密さだ。激しいテンポの変化も、旋律に対す

バルビローリのブルックナー演奏について

ブルックナーとバルビローリというのは、直感的にはあいそうにない。とりわけブルックナーの 音楽がある種の宗教性と結び付けられている限りにおいて、そのように思っていた。例えばシベリウスの交響曲にある種の超越を感じ取ることは可能だろうとは思うが、それはいわば 垂直軸を著しく欠いている。音楽は地平線の彼方を目指すのであって、天上をではない。 バルビローリのブルックナーというのは、BBCの録音が出るまでは、その存在すら知らなかった。実際に聴いてみれば、やはり普通のブルックナー演奏とは

ヘルムート・ラッヘンマン

恐らく「特殊奏法」と「異化」はラッヘンマンについて語るときに欠かせない「キャッチコピー」なのだろう。ところで、異化というのは文脈を必要とする。文脈を共有できるかどうかは実際のところ程度問題であるのだが、例えば一時期「モード」になったとまで言われた、かの「黄昏の地」における「形而上学の歴史の脱構築」とやらにしてもそうであるように、全く無関係であると言い切ることもまた困難であるにしても、ではそれが自分の喫緊の問題であるかといえば、自分が持つ文脈の頼りなさを思うにつけ、決してそうと

武満徹

1990.11.6 東京文化会館 新日本フィルハーモニー交響楽団第184回定期演奏会<武満徹 還暦記念作品集> 指揮:小澤征爾 弦楽のためのレクイエム ノヴェンバー・ステップス、琵琶:鶴田錦史、尺八:横山勝也 リヴァラン、ピアノ:ピーター・ゼルキン ア・ストリング・アラウンド・オータム(日本初演)、ヴィオラ:今井信子 武満徹を最初に聴いたのが何だったのか、はっきりした記憶はない。けれども最初に強く惹き付けられ、そして今でも自分にとっての「代表曲」が何であるかははっきりし

ヤニス・クセナキス

恐らく多聞にもれずというべきなのだろう、私の場合もクセナキスへのアプローチはその作曲の方法論への興味が先行した。つまり実際の音響的な実現を享受する以前に、確率的な音群の操作や音階についての考え方などを知って興味を持ったのだと思う。クセナキスの「理論」というのはいわば「後追いの理屈」みたいな部分があって、批判が多いのも仕方ないが、それによってその着想の部分の独創性まで否定されてしまったら、洗い桶の水もろとも赤子まで流すことになってしまうだろう。要するに彼の作曲の技法は、数学的な