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バルビローリのブラームス演奏について

 バルビローリのブラームスに対する私の最初の印象は、 第2交響曲のウィーン・フィルとの演奏に基づくものだ。私はこれはLPレコードで入手して、繰り返し聴いたものだ。一般には粘るような 歌い方で、情緒たっぷりの演奏というような評が普通のようだが、 私の印象はかなり異なって、涼しげで透明感さえ感じさせる空気の爽やかさが 特徴と感じられた。それはその後CDで聴くことになった他の曲でも同様である。

(なおブラームスの交響曲一般についてということであれば、上記のバルビローリとウィーン・フィルの第2交響曲のLPレコードに先行して、フルトヴェングラーとベルリン・フィルが第3交響曲を1954年4月27日にティタニア・パラストで演奏したのを収録した、古いモノラル録音のLPレコードを持っていて、第3交響曲の印象を形作るのには大きく影響したと思う。と同時に父がFM放送をエアチェックしてカセットテープに記録したコレクションの中に含まれていた、ベームとウィーン・フィルによる第1、第4交響曲(多分これらはライブ)、カラヤンとベルリン・フィルによる第3交響曲(これはLPでリリースされたスタジオ録音だった筈)、更にはチェリビダッケとシュトゥットガルト放送交響楽団による第2交響曲の録音を少なからず繰り返し聞いていて、これらもブラームスの交響曲についての印象の形成という点ではバルビローリの演奏に先行している。一方で私が買ってきた上記のバルビローリとウィーン・フィルの第2交響曲の演奏は、父もとても気に入った演奏のようで、ほとんど会話を交わすことがなかった父が、自分の方から聴取の印象をふとした折に漏らしたことがあったのを鮮明に記憶している。)

 バルビローリのブラームスに対する接し方は、その音楽の擬古典派的な 構成する意図よりも、それに抵抗する素材の振る舞いの方により多く寄り添っている点に その特徴があるだろう。もっともこの姿勢はバルビローリの基本的なスタンスであって、 エルガーを中心として、シベリウスにせよ、マーラーにせよ同じ姿勢に貫かれている ように思われる。否、通常はそういうものとしては解釈されないブルックナー、 更には、シューベルトもモーツァルトについても事情は同じであろう。 バルビローリのベートーヴェンが、聴く人によっては「焦点の定まらない」印象を 与えるのは、恐らく特に中期において(ということは交響曲においては最後まで ほぼ一貫して、ということになるが)著しく構成する意図に偏倚した均衡を 持つ音楽に、そうしたバルビローリの姿勢が調和しないからでなかろうか。

 バルビローリのブラームスは、従って、表面上の「粘った」歌いまわし以上に、 ブラームスの音楽の「移ろい」にフォーカスした演奏という点が印象的で、 もしかしたら作曲者の意図に反して、その音楽の基層にある「経験」を 救い出すのだ。しかもその手つきはこの上も無く丁寧で慈しみに満ちている。

 それゆえこれらの演奏は、ブラームスの解釈としてはポレミックな地位を占め続けるだろう。 ある人にとっては、かけがえのないものがはっきりと聴き取れる稀有の演奏だろうし、 別の人にとっては聴くに耐えない演奏ということになるのだろう。もしかしたら 音楽そのものが作曲者の意図を既に裏切っているかも知れない第3交響曲については、 後者の見解の持ち主もこの演奏の価値を認めざるを得ないかも知れないが。

(2005.1公開, 2024.8.10 noteにて公開)

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