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バルビローリのシベリウス演奏について

バルビローリのシベリウスについて言われていること。北欧的な演奏スタイルではないこと。 (誰も言わないが、さりとてドイツ的なスタイルでもない。更にイギリス的な演奏だという 言い方を聴いたこともない。)私はいわゆる同曲異盤聴き比べとかにはあまり関心がなく、 だからシベリウスはバルビローリでいいやと思っていて、他の演奏といっても手元にあるのは、 ザンデルリンクくらいだ。従って民族性と個人的な個性のどちらが勝っているのかもわからない。 どういうのが北欧的なのかもよくわからない。


多分、弦楽器のビブラートのかけかたや木管や金管の音色やバランスに関する一定の傾向を さしていると思われるが、少なくとも私はバルビローリの演奏に違和感を感じたことはない。 (違和感、という点ならバルビローリの場合、マーラーやブルックナーの方が大きい。 また、ザンデルリンクのシベリウス演奏では部分的に違和感を覚えることがある。しかし、 これとて、単に自分が慣れ親しんできた「刷り込まれた」演奏と異なるに過ぎないのか、 そうともいえないのかはよくわからない。)


拍節感が比較的明確で、弦楽器のビブラートが豊かな、いわゆる非北欧的な特長をはじめ、 一般に第1,2,5交響曲あたりの相性がいいということになるであろう点はザンデルリンクと 共通しているように思われる。同様に、解釈はフィンランディアや第1はややもすれば陳腐に なりかねないのが説得力があるのは両者ともどもさすがである。しかも、私見では バルビローリの場合もまた、シベリウスの後期様式に対する違和感がない。特に第6,7交響曲に ついて、両者ともそれぞれ説得力のある演奏だと思う。


しかし、実際にはバルビローリとザンデルリンクの演奏の間には、大きな違いもある。 バルト海を挟んで対岸に立つベルグルンドとザンデルリンクでは、シベリウスとブラームスの 両者を基本的に同質の音楽として演奏している。その結果シベリウスが少しブラームス的に なっているのと同じ程度に、ブラームスが少しシベリウス的になっているように思われるが、 バルビローリの場合は、それぞれに同じように距離をおいて接しているように思われる。 同様にザンデルリンクであればレパートリー上想定可能な、ブルックナー・シベリウス・ ブラームスと並べる併置法はバルビローリの場合にはあまり感じることができない。 端的に一例をあげるなら、ブラームスの第3交響曲のフレーズのちょっとした切れ目に 生じる間の豊かさは、ブルックナーのゲネラルパウゼや、マーラーの第9交響曲の あの漠とした空間を感じさせる経過部を思わせるような質を担ってはいるが、しかしそれは、 バルビローリの場合には、しいて言えばエルガー的なものに近づいているように思われる。 ここでは意識して音の有機的な組織を構成し、流れを作りだそうとする、極めて意識的な バルビローリの姿勢がある。バルビローリの音楽は実に周到に用意された音楽なのである。


「愛情がこもった熱い演奏。共感に満ちた演奏。」特に「熱い」ということばには個人的には あまり納得しない。共感ということばもあまり良くわからない。何に対する共感? けれども、いわんとすることはわかるような気がする。バルビローリは演奏がルーチンワークに ならないこと、音符への愛情をもって演奏することを求めたようだ。愛情をもって演奏したら、 聴き手にそれが伝わるといった単純なものではないとは思うが、逆はわかってしまうだろうから、 恐らくその演奏に愛情や共感が感じられるのは一つにはその結果なのだろう。それとは少し違った位相の 話だが、バルビローリのフレージングには独特のクセがあるようで、「バルビローリ節」あるいは 「バルビ節」という言い方を良く見かける。旋律をどう歌わせるか、ごくわずかな間合いを 延ばしたり詰めたりすることに、バルビローリはもの凄くこだわったようだ。このことが、 その音楽に独特の緊張感をもたらしていて、それが「熱い」ということになるのかも知れない。


多分、それと関連することで、最近そうと気づいたことに、交響詩や劇音楽の演奏のうまさがある。 これはストーリーテリングの巧みさという感じに近い。私はシベリウスは(特に後期の)交響曲が あれば十分で、交響詩としてはタピオラだけ別格(第7交響曲が交響曲ならこの曲も実質的には 交響曲だと思う)で、他の曲はほとんど聴かないのであまり気にしていなかった。たまたま他の演奏を 聴いて疑問に思ったことがあって聴いてみるまで、気づかなかったといっても良い。 (だいたい前回はいつ聴いたのか覚えていない。)


一言で言って、音楽の流れが良く、わかりやすい。これは音楽に構成感がある、とかリズムに推進力が あるとかというのとは異なる。その自然さ故に目立たないがテンポの設定は実はユニークで、 ここでは寧ろ一気に音楽の流れを作り出す率直なまでの運びが際立って高い説得力を生み出している ようだ。呼ばれるところの「バルビローリ風」は、基本的なテンポ設計より、寧ろその揺れの方に ついて言われるのだろうが、場合によっては極端なテンポの変化も、結局のところは錯綜とした 脈絡を解きほぐし、音楽の巨視的な経過を明確にすることに貢献しているように思われる。 あと、いわゆる雰囲気の描出が抜きんでて生々しいと感じられる。 この生々しさを人間の「歌」と考えれば「熱く」「共感に満ちた」ということに なるのかも知れないが、必ずしもそれは人間的な感情や情緒そのものではなく、「歌」とは 限らないと思う。けれども、それは「人間の感じたもの」であることは確かで、だから 例えば風景の描出とはいっても、客観的な描写が行なわれるわけではないし、バルビローリの 音楽に人間を超越した何かが現れることはないように思える。

(2005 公開, 2024.8.7 noteにて公開)

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