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山崎与次兵衛アーカイブ:グスタフ・マーラー

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これまで30年に亘りWebページ、Blog記事、コンサートプログラムへの寄稿などの形で公開してきたグスタフ・マーラーについての文章をアーカイブ。
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記事一覧

証言:第9交響曲について:アルバン・ベルクが1912年に妻ヘレーネに宛てた手紙より

第9交響曲について:アルバン・ベルクが1912年に妻ヘレーネに宛てた手紙より(Kühn & Quander (hrsg.), Gustav Mahler : ein Lesebuch mit Bildern, 1982, p.145, 邦訳p.322) 最初にこの文章を読んだのは、マイケル・ケネディの著作―この著作は私が読んだはじめてのマーラーに関する文献だが、実に 素晴らしい本で、この本を最初に読んだのは幸運なことだったと思う―の中でだったが、実はこれには恐らく間違いがあ

証言:大地の歌について:ヴェーベルンが1911年にベルクに宛てた手紙より

大地の歌について:ヴェーベルンが1911年にベルクに宛てた手紙より(Wolfgang Schreiber, "Mahler", Rowohlt, 1971, p.168, 邦訳『大作曲家 マーラー』, 岩下眞好訳, 音楽之友社, 1993. p.249) ヴェーベルンがベルクともども熱烈なマーラー・ファンで、寧ろシェーンベルクの方が弟子に影響されて「改宗」した感じすら あることは良く知られているが、上記の文章は、大地の歌の1911年11月20日のミュンヘンでの初演にあたって

証言:第8交響曲に関するヴェーベルンのことば

第8交響曲に関するヴェーベルンのことば(Kühn & Quander (hrsg.), Gustav Mahler : ein Lesebuch mit Bildern, 1982, p.171, 邦訳p.375) 第8交響曲というのは私にとっては最も大きな躓きの石である。その音楽の持つ力の否定し難さと、その力に対する懐疑が拮抗する。 しかもこの後に続くのは「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲といった後期作品なのだ。その力の大きさに応じて、懐疑もまた深いものにならざるを得

語録:ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書381番, p.414。1979年版のマルトナーによる英語版では382番, p.329, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では404番, p.368) 一つ前の手紙の半年後にニューヨークから書かれた手紙。「大地の歌」と第9交響曲の間の時期に相当する。実は「大地の歌」の創作の時期については 異説があっ

語録:ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1908年7月18日トーブラッハ発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書378番, p.410。1979年版のマルトナーによる英語版では375番, p.324, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では396番, p.360) 丁度マーラーが「大地の歌」に取り組んでいる時期に、ヴァルターに宛てて書いた手紙の一部だが、これもまた、ヴァルターの「マーラー」伝を始めとして色

クルト・ザンデルリンクのこと

クルト・ザンデルリンクの聴き始めはショスタコーヴィチだと思う。第6交響曲と第8交響曲のCDをずっと持っていて聴いていた。この2つは際立って優れた演奏で、聴く頻度からいけばムラヴィンスキーより高いと思う。 ザンデルリンクはショスタコーヴィチの交響曲のうち一定の曲のみをレパートリーにしているが、これが私が聴きたい曲と一致しているのがうれしい。(海外のWebサイトで読むことのできる あるインタビューで、 poeticな曲の方がepicな曲よりも共感でき、印象的だと言っているが、そ

調査レポート(2)「ドロミテのマーラーの足跡を辿る―林邦之さんに―」

少し前のことだが、マーラーの生涯の記録媒体として重要な写真を巡る混乱について、「ある写真についての備忘」と題した備忘を記したことがある。 そこで主題的に扱った写真ではないが、マーラーが「晩年」(それはどちらかといえば後知恵で、その生涯の終りから逆算したものだが、にも関わらず まるきり内実がないともいえない時代区分であるが)の夏の休暇を過し、そこで「大地の歌」「第9交響曲」「第10交響曲」が作曲されたトープラッハの トレンカーホーフを巡っても混乱があることに気付いて、以下のよう

ある写真についての備忘

マーラーが生きた時代と今日との隔たりはおおよそ1世紀にもなるが、にも関わらず色々なレヴェルで地続きであることを感じさせられることが多い。 それもそのことが特徴的であり、目に付くという仕方ではなく、逆に地続きであるが故にうっかりすると気付かないのだが、何かのきっかけでそれを 意識するといった仕方でのことが多い。例えば街灯がつき、電話が開通し、鉄道網が形成され、といったことはマーラーの伝記に当たり前のように 出てくるが、もう半世紀遡れば事情は全く異なる。一方でアメリカとヨーロッパ

証言:ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの指揮者としての仕事ぶりについての回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーの指揮者としての仕事ぶりについての回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.23, 邦訳pp.27,28) マーラーの指揮者としての仕事ぶりについてはさまざまな証言が残っているが、その中には一緒に仕事をする人間に対する厳格で、時折過酷ですら ある態度に関するものも数多く含まれる。上記のヴァルターによる証言は、マーラーを擁護する立場から書かれているから、マーラーの態度を不当である と糾弾しているわけではないが、マーラ

証言:ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想

ヴァルターの「マーラー」にあるマーラーとの出会いの回想(原書1981年Noetzel Taschenbuch版pp.17,18, 邦訳pp.14,15) この文章の特に冒頭部分、即ち、ヴァルターがマーラーその人と初めて知己を得た際の印象は様々な文献に引かれていて著名なものであろう。 別のところでも述べたとおり、ヴァルターの「マーラー」がマーラーを直接知る自身もまた高名な指揮者の証言として大きな影響力を持っているのは疑いない。 そしてその結果、流布するマーラー像の形成に良かれ

カルロ・マリア・ジュリーニのこと

 実際にその演奏の記録に接するまでのジュリーニに対する印象は希薄なもので、何よりもマーラーの第9交響曲の演奏の評判の印象ばかりが強かった思う。LP時代からその存在と評判は耳にしていたのだが、高価なLPはそんなに手軽に買えるものではなく、迷っているうちにとうとうLPでは第9交響曲の演奏を入手することなくCDの時代になってしまった。  そうしたわけで、このジュリーニの演奏も永らく未聴で、録音されてから20年以上経過してようやく聴く機会を得たのであるが、それは全く「マーラー的」で

語録:アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉

アルマの「回想と手紙」に出てくる自己の「異邦人性」についてのマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」、1971年版原書p.137, 白水社版邦訳(酒田健一訳)p.129) この言葉はマーラーの評伝の類ではおなじみの、あまりに有名なものだが、実はその典拠はというとアルマの「回想と手紙」が唯一のものらしい。そしてこの言葉が出現する 「回想」における文脈というのは、あの1907年の出来事を語る章の冒頭で、或る種の寄り道というか息抜きとして紹介されるマーラーの若き日の出来事を語る中で

証言:ヴァルターの「マーラー」より:その「作品」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.85, 邦訳pp.149-150):その「作品」についての回想 ここでのヴァルターの言葉の説得力もまた、その作品は勿論のこと、マーラーその人を非常に良く知っていて、その人と音楽との関係をまさに 目の当りにした経験に根差しているのであろう。音楽一般がどうかとか、当時のヨーロッパの音楽の傾向がどうだとかいうのは、登ったら外す梯子の はずであって、最後はマーラーの個別の場合が問題なのだ。そして

証言:ヴァルターの「マーラー」より:その「人」についての回想

ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.113, 邦訳p.207):その「人」についての回想 ヴァルターはここで晩年のマーラーが彼宛に送った書簡を思い浮かべながら、マーラーの「態度」について非常に説得力のある説明をしていると私には思われる。 この文章には、長年に亙ってマーラーと親しく接した人ならではの、決して一時の印象に引きずられない視線が感じられる。(もとの書簡も「語録」の方で 紹介しているので興味のある方は参照されたい。)