ある写真についての備忘
マーラーが生きた時代と今日との隔たりはおおよそ1世紀にもなるが、にも関わらず色々なレヴェルで地続きであることを感じさせられることが多い。 それもそのことが特徴的であり、目に付くという仕方ではなく、逆に地続きであるが故にうっかりすると気付かないのだが、何かのきっかけでそれを 意識するといった仕方でのことが多い。例えば街灯がつき、電話が開通し、鉄道網が形成され、といったことはマーラーの伝記に当たり前のように 出てくるが、もう半世紀遡れば事情は全く異なる。一方でアメリカとヨーロッパの往来は飛行機ではなく専ら船に依ったし、時代を代表する大指揮者にも 関わらず、ほんの十年くらいの差で演奏の録音が残っておらず、辛うじてピアノ・ロールへの記録があるに過ぎないとか、医療技術の限界から 今日であれば異なった治療法が可能であったものが、当時においては不治の病であったりといった点は時代の隔たりを感じさせる側面だろう。
マーラーその人を知る記録として膨大な自筆の書簡があるが、こちらはタイプライター、ワードプロセッサーを経て、今日であれば その一部は電子メールでやりとりされたかも知れない。その一方で動画こそないけれど写真によってマーラーその人やマーラーの周囲に居た人、 マーラーが生活した場所の記録が遺されているのは、これまた少し時代を遡れば望むべくもないことであり、マーラーその人に対するイメージの 形成に写真の果たしている役割は極めて大きなものがあるだろう。
ここでは「語録」「証言」のページによってマーラーが語ったと伝えられている言葉や、マーラーに関するイメージや価値形成に(少なくとも主観的には) 大きな影響のあった他者の言葉を、主として典拠の備忘の目的でまとめているが、写真についてはそうした作業の必要性をあまり感じてこなかった。 だが、ふと文献にあたっているうちに、マーラーのイメージ形成上、それなりの機能を果たしているであろう、ある1枚の写真を巡って気になることに 気付いてしまったので、備忘のためにここに記録しておくことにする。写真そのもの(の複製)を掲出することは、一つには著作権等の権利関係の 確認が煩瑣であることから、だが主として準備のための時間が取れないという理由で断念し、問題の写真を見ることのできる文献を記載することにする。
その写真は、私が尤も早期に入手した文献の1つである青土社の「音楽の手帖 マーラー」(1980)の中ほど、127ページから134ページの写真のコーナーで まず確認することができる。それはp.130の上半分を占めるマーラーが机に座っている室内の写真で、その机には大版の書物が幾つも広げられていて、 マーラーが背を向けている背景の壁には絵がかかっているもので、キャプションとして「早朝、オペラハウスの自室で、夏の間作曲した自分の作品を 清書するマーラー」という非常に具体的な記述がある。この記述を信じればその部屋は、どこかは特定できなくてもマーラーが勤務していた歌劇場の 執務室であって、広げられているのは自作のスコアや草稿なのだということになる。時期の特定についてはマーラー自身の容貌が手がかりになり、 マーラーの肖像写真を見慣れている人なら、この写真に写っているマーラーが40歳代の後半であることは容易に想像できるだろう。もっとも、 上記の文献の写真のページにおけるこの写真のおかれた場所、つまり前のページにアルマの写真と「ウィーン宮廷歌劇場へ向かう」途上と説明がついた マーラーの写真の後の位置、更には同じページの下に撮影年の特定された2枚の写真、つまり1906年の「ウィーンの街を行くマーラー」と 1909年の「夏の休暇中、避暑地で散歩するマーラー夫妻」があるという文脈から、これをウィーン宮廷歌劇場の執務室で撮影されたものと 考えてしまったとしても何ら不思議はないだろう。
同じ写真は、桜井健二さんの「マーラー 私の時代が来た」〈二見書房, 1987〉のp.94でも見ることができ、こちらは「歌劇場執務室でのマーラー」と いうキャプションがついている。見開きの隣である次ページにウィーン国立歌劇場歴代総監督の表があることからもわかるとおり、このページは 「"神聖な殿堂"への変革とその反感」と題された章の一部で、ウィーン宮廷歌劇場時代のマーラーについて書かれた部分であるし、 ここでの歌劇場はウィーン宮廷歌劇場のことに違いない。更には周到にも前のページには「歌劇場の執務室外景」の写真まで収められていて、 ページをめくると、その中に居るマーラーの写真に切り替わるといった配慮まで為されていて、まるでこの写真がウィーンの宮廷歌劇場で 撮影されたことは疑問の余地の無い事実であるかのような構成になっているのだ。さらに立風書房の「マーラー事典」(1989)のp.103にも 「ウィーン宮廷歌劇場執務室でのマーラー」というキャプションとともに同じ写真が載っている。
ところが、Kaplan Foundationが刊行したThe Mahler Album (1995)に収められた写真を調べていくと、驚くべき記述にぶつかる。 I. Mahlerの92番が同じ写真なのだが、同じ時に撮った別のショットである93番とともに、これが1907年にローマで撮影されたもので、彼の手元にあるのは コンサートで演奏する作品のスコアであるという説明がついているのだ。以下、念のため全文を引用しておこう。
なお、BMGMはパリのBibliothèque Musicale Gustav Mahlerとのことで、これはド・ラ・グランジュがやっているのだからと思って、ド・ラ・グランジュの マーラー伝を調べてみると、フランス語版にはないものの、英語版の第3巻"Vienna : Triumph and Disillusion (1904-1907)"(Oxford University Press, 1999)の 3番として収められていて、"Mahler annotating scores in Rome, March 1907"というキャプションが付いているのが確認できる。更には やはりド・ラ・グランジュが編集に関わっている最近出たマーラーのアルマ宛書簡を集めた"Ein Glück ohne Ruh'"(1997 )でも同様〈37番〉であることから、少なくとも 近年では1907年にローマで撮られたというのが定説のように窺える。するとこの写真がウィーンの宮廷歌劇場の執務室で撮影されたという主張は、誰がいつ したものなのだろうか。そう思ってみれば海外の文献ではそうした記述が確認できないのも不自然な気がしてくる。
そうであってみれば、仮にそのうちの1冊が自作の交響曲のスコアであったとしても、それは「夏の間作曲した自分の作品を清書」しているのでは 全くないだろうし、それをやっている場所(オペラハウスの自室)も間違っていれば、時間〈早朝〉だって本当かどうか疑わしいと言わざるをえない。 「夏の間作曲した自分の作品を清書」という記述の典拠がどこにあるのか私には今直ちには同定できない(アルマの2つの回想録のいずれも、 マーラーが早朝の出勤前に作業をしたという記述はあるが、出勤したオフィスで自作に関する作業をしたという記述は見当たらないようだ)が、 この写真を証拠に「公私混同」の廉で批難されることがあるとすれば、それはマーラー本人にとって不当なことに違いない。 いや、少なくとも私はこの写真を念頭において、(反語的な文脈ではあるけれど)そうした主旨の文章を書いたことが実際にあるのだ。 別にこの写真がなくても、それをもってマーラーがそうしていた嫌疑が晴れるわけではないのだが、いずれにしても本人にとっては迷惑な話に違いない。 (一方で若き日のマーラーが作曲に夢中になって歌劇場での職務を怠ったとして問題視されたのは事実のようだが、それとこの写真とは時期が ずれており、直接の関係はない筈である。)
なお、上述の青土社の「音楽の手帖 マーラー」の同じページにあった「ウィーンの街を行くマーラー」〈1906年〉というのも間違いである。 こちらは撮影年こそ1906年で正しいが、これはマーラーがオランダを訪れたときの写真である〈The Mahler Albumでは72番〉。また 前のページの「ウィーン宮廷歌劇場へ向かう」途上のマーラーの写真は、Kurt Blaukopf編のMahler, A Documentary Study(1976)では 222番として収められているが、その説明では「アルフレッド・ロラーによればこの写真は1904年に撮影され、マーラーが歌劇場のオフィスから 帰宅する途上」とある。ちなみにこの写真を巻頭に含めたヘンリー・A・リー「異邦人マーラー」の翻訳〈渡辺裕訳, 音楽之友社, 1987〉の キャプションは帰宅途上となっている。なお、この巻頭写真は日本語訳版のオリジナルのようで、私が持っている原書(Bouvier Verlag Herbert Grundmann, 1985)には写真は含まれない。
重箱の隅を突くようだが、この手の食い違いはちょっと探すと他にもあるようで、 もう二つ三つ例を挙げると、
マーラーとシュトラウスの往復書簡集(邦訳は音楽之友社, 1982)に収められている、マーラーがシュトラウスを どこかの建物の入り口で迎えている写真が1906年にザルツブルクのものであると説明されていて、ド・ラ・グランジュのマーラー伝第3巻の 14番でも同様の説明になっているのに対して、The Mahler Albumの77番および"Ein Glück ohne Ruh'"の28番では1906年5月16日グラーツでの 「サロメ」オーストリア初演のときものとなっている。ちなみに往復書簡集に付けられた「敵対と友情」と題されたヘルタ・ブラウコプフの論文中では 「サロメ」のオーストリア初演はグラーツで行われ、その折にシュトラウスとマーラーが会っていることが記載されている。一方、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の フランス語版第2巻にも同じ写真が収められているがこれのキャプションは間違っていて、「サロメ」の初演が1906年の8月にザルツブルクであったことに なってしまっている。
白水社版のアルマの「回想と手紙」〈酒田健一訳, 1973〉の巻頭のマーラーに話しかけるブルーノ・ワルターを収めた写真がウィーンで 撮られたことになっているのに、Oxford University Pressから再版されたMichael Kennedyのマーラー伝では1910年のミュンヘンで撮影された ことになっていて(もっともすぐ上に収められた1907年にローマで撮影したアルマと一緒の写真が1910年に撮影されていることになっていたりして、 この版のキャプションは信憑性に欠けるようだが)、The Mahler Albumの97番では1908年にプラハで第7交響曲の初演に際しての時のもので あることになっている。
ブラウコプフの「マーラー 未来の同時代者」の邦訳〈酒田健一訳, 白水社, 1974〉の巻頭では、どうみてもトーブラッハの 夏の別荘として使われた農家〈トレンカー家の所有〉が写っている写真に「アッター湖畔の別荘」というキャプションがついている。同一の写真は例えば ブラウコプフ夫妻が編纂したドイツ語版の資料集"Gustav Mahler, Leben und Werk in zeugnissen der Zeit" (Hatje, 1993)の27番で確認できるが、 そこでのキャプションは勿論トーブラッハの休暇の住まいとなっている。なお同じ写真・同じキャプションの誤りは音楽之友社の作曲家別名曲解説ライブラリの マーラーの巻(1992)のp.50でも繰り返されている。この作曲者別名曲解説ライブラリは、上記ページを含め、門馬直美氏執筆の箇所を中心に、 かなりの間違いや典拠不明の独自の主張を含んでいるので、利用にあたっては注意が必要である。
といった具合であって必ずしも青土社の「音楽の手帖 マーラー」だけが 間違えているというわけでもない。
しかしながらここで主題的に採り上げた1枚についていえば、そのキャプションにより「夏の作曲家」マーラーに関する或る種のイメージが形成されるのは 避け難いから、素通りしてしまってよいとも思えず、ここに気付いたことを記録しておく次第である。マーラーが歌劇場の職務をそっちのけで自作の 演奏旅行ばかりをしているというウィーンのマスコミの攻撃に、この写真は恰好の口実を提供してしまったかも知れないのである。もっとも彼らにすれば、 これがローマで撮影されていたのが事実だとわかれば、事実関係を誤認していたことなどそっちのけで今度は、やはりウィーンを離れて自作の普及に 励んでいる職務怠慢の証拠写真として、攻撃の材料に用いたことであろうが、、、
(2010.4.18,25, 執筆・公開、2024.8.6 noteにて公開)
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