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言葉の宝箱 0350【大人になっても若い頃のようにかっこつけて生きる、それもちょっと、憧れますよ】

『風のベーコンサンド 高原カフェ日誌』柴田よしき(文藝春秋2014/12/15)

経営不振に陥ったペンションを改装したカフェの六話連作短編集。
この本は
接客業、カフェのお仕事小説といえるノウハウが記され、興味深い。

・わたしの夢の庭。奈穂はあらためて、カフェの店内を見回す。
ここでわたしは、何を生み出すことが出来るのだろう。
無我夢中で四カ月ほどを過して来て、
まだ自分で納得できるものは何ひとつ、生み出せていない気がする。
カフェが人々に提供できるものは、飲み物や食べ物だけではないのです、と、カフェスクールで何度も教えられた。
食べたり飲んだりしたいだけなら、他にレストランでもなんでもあります。ファーストフードのほうが手軽で安くていいという人もいます。
それでもカフェに来てくださるお客様は、
カフェが提供する空間と時間を楽しむ為にお金を払ってくださるのです。
空間と、時間。心地よい空気と、心地よい時。
そうしたものにひたることで、ひと時、幸せそうな顔になること。
幸福と満足。それがこの夢の庭で織られる、黄金の布の名前だ P63

・「どこ行っても同じ、なのかな」ひとり言のように小枝は言う。
「わからない」奈穂はこたえた。
「この世界のどこかには、
自分にとっていちばん居心地のいい豊かさがあるのかもしれない。
その豊かさにならば飽きることもうんざりすることもなく、
ただただ、それにひたって幸せだと感じられるような・・・そんな場所が。わたしにはここが、その場所であればいいなと思ってここに来た。
さっきの質問に答えるわね。
ここはそんないいところなのか。わからない。
わからないけれど・・・いいところであって欲しいと、
わたしは心から願ってここに暮してる」  P158

・「・・・一人はもう・・・嫌だ。
小さい頃から・・・いつも一人だった(略)」
「どうやったらいいのか・・・わからない。
誰かに好かれるには・・・どうしたら。
君は・・・僕を好きだと言った・・・くれた。
なのに君も・・・出て行った」
「わかってたなら、なんで直してくれなかったの!
いつもわたしのことを蔑んで、侮辱して、いじめて・・・。
それでわたしの心が離れたとわかっていたなら。
とにかく、すぐ戻ってくるから」(略)
「戻って来ても・・・君はまた僕を捨てて行く。
だったら、戻ってくるな。このままにしといてくれ」(略)
「わたしは、あなたから自由になりたいの。
このままここにあなたを置き去りにしてしまったら、
わたしは死ぬまで、生涯、あなたから自由になれない!
心の中でいつまでも、
雪の中のあなたの顔を見つめて生きていくしかなくなるのよ!
そんなのは、ごめんなの!」(略)
「待っていて!わたしが妻としてあなたにしてあげられる、
これが最後のことだから、あなたをぜったいに助けてあげる!」 P219

・わたしの心の中に棲んでいる、鬼。そう、その通りだ。
わたしの心の中には、鬼が棲んでいた。奈穂は思った。
あの人の心を開かせられなかったのは、わたしの心の中の鬼のせいなのだ。憎むこと。蔑むこと。嫌いになること。
そうした負の感情に、押し流されてしまうこと。
それでも、鬼がいてくれて良かった、と、奈穂は思う。
鬼がいてくれたから、逃げる決心がついた。捨ててしまう決意が生まれた。仏様のような心を誰しもが持てるわけではない。
人の心は、本当は、鬼に支えられているのかもしれない。
そして今、わたしの心の中の鬼は静かに眠りについた。
このままずっと、夢見て眠っていてくれればいいけれど、
いつの日か、この高原で暮らしていてさえも、
また心の鬼は目覚めてしまうかもしれない P226

・「また来ます」美沙は言った。
何もかも、きちんとしてから、また。
もう、かっこつける人生はおしまいにします」
「はい、お待ちしています。
でも、大人になっても若い頃のようにかっこつけて生きる、
それもちょっと、憧れますよ、わたし」
「そうね」美沙は笑って、ベンツのドアを開けた。
「たぶん、全部捨てることなんて出来ないわ。わたしは臆病ですもの。
でも、いちばん大事なものをいつも目の前に見ていたいから、
その程度には視界をクリアにします P264

・あんたは今、幸せなんだな。
さっきの田中さんの言葉が、奈穂の耳に甦る。
そうね。きっとわたしは今、幸せなのだ。
でもまだまだ、手放しの、能天気な幸せには少し遠い。
あの雪の中で、
身動きのできない元夫に向かって冷たい言葉を放つしかなかった、
それしか出来なかった自分という人間への嫌悪感が、
まだ澱となって心の底に沈んだままだ。
それでもこの高原は、そんなわたしを包み込む。
時はめぐり、風がそよいでまた夏が来る。
いつかは本物の幸せをこの掌に感じられる日が来ると、
高原の風が笑いながら、わたしにそっと、教えてくれる P301


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