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言葉の宝箱 0294【寂しいことを言うと寂しくなくなるの】

『わかって下さい』藤田宜永(新潮社2018/3/20)

表題の『わかって下さい』は因幡晃の往年のヒット曲からとっている。主人公の平間聡介は大学卒業後、製紙会社に就職。最後は総務部副部長として定年退職を迎え、65歳までは子会社で勤めた。今は特段やることのない日々を送っている。そんな中、娘のプレゼントで出かけた「青春のフォークソング」というコンサートで、かつての恋人、美奈子と隣り合わせの席になる。2人は結婚を約束したものの、美奈子は唐突にそれを断って姿を消した。それ以来、40年ぶりの再会である。しかし、彼女は盲目になっており、聡介だとは気づかない。『観覧車』の小堀孝は小さな出版社を経営している。40代半ばだが、それなりの財を成した父のおかげで都内のマンションに住む、不自由のない暮らしに、安田千咲という20代後半の若い女性が現れる。千咲は若き孝に初体験の手ほどきをした年上の女性の娘であった。千咲との出会いによって孝のなかで現在と過去が交錯していく。これら物語のBGMとして文中に挿入されるのが冒頭の『わかって下さい』の他、伊勢正三、太田裕美、オリビア・ニュートン=ジョンやライオネル・リッチーらの作品である。ここで若者とおじさんが同席しているカラオケボックスを想定してほしい。おじさん達は昔懐かしい歌の数々を熱唱し始め、その姿に若い男女は鼻白む光景が目に浮かばないだろうか。カラオケではなく、文学であってもそれは同じ。登場人物のノスタルジーをストーリー仕立てで伝えられても、同じ世代以外の読者の多くはそっぽを向くに違いない。舞台設定ができすぎている、とも思ったのであるが、油断させておいて、その後に二重、三重の仕掛けを施し、ある日ふと立ち上がってきた過去に向かい合う人間の心のさざめきを、表向きは静かに、しかし内面は大きく揺れ動いている様が俄然リアルなのだ。「戻りたい場所などないよ。確かだと思っていたことが、全部、実体なんか何にもない幻のようなものだったってことに、最近、気づいたんだ」『エアギターを抱いた男』に登場するギタリスト、大原史郎の台詞。彼のお気に入りの場所、恵比寿のビル屋上の菜園に足を踏み入れた画家の津田久男との出会いを喜んだ大原はその後、亡くなり、津田は大原の妻である照代に恋心を抱く。しかし、照代も交通事故で命を落とす。全編を通して強く印象に残ったのが大原の先の言葉だった。人生の終焉のとば口に差し掛かっているような、諦観を漂わせた主人公達は恋をすることで「実体なんか何にもない幻のような」日々にわずかに抗い、生きている実感を少しだけ取り戻そうとする。どの作品も、一見ノスタルジーを装いつつ、未来への小さな回路を設定しているのだ。『土産話』に登場する67歳の堀池幸司は妻の死後、長年思いを寄せ続けていた安堂小夜と添い続ける決心をする。それは都市銀行を早期退職し関連会社に移って定年という、よくある無風な人生を歩んできた堀池の新たな旅立ちであった。若い読者も鼻白んだり、そっぽを向いたりすることなく、作品のもつ世界観に入っていける。日本では未婚率が上がり始めて久しい。それには色々な社会背景があるだろうが、若者は余計な傷を負わないで済むよう恋愛を回避しているようにも見受けられる。そんな彼らがこれらの作品に触れることによって、登場人物たちへの共感や反発に加えて自分の経験が投影されるかもしれない。そこには、時代に制約されざるをえないものと、時代を超えた本質的なものの両方が浮かび上がるはずだ。本作品が異彩を放つか、ノスタルジー的な世界に留まるかは、登場人物とは世代も趣向も違う読者が、この恋愛小説集をどれだけ自分に引き寄せて読むかにかかっていると思う。

『わかって下さい』『白いシャクナゲ』『恋ものがたり』『観覧車』
『エアギターを抱いた男』『土産話』6編の恋愛小説集。

・取り立てて不満のない人生である。
不満がないからと言って充実しているわけではない P6

・たまにはいいけど、
昔の曲ばかり聴いていると、何となく寂しくなってくる P8

・老け込んでも、困ることなど何もないが、
お洒落をするとやはり気分が変わった P11

・ささくれ立った過去も、
長い間波に洗われ、丸くなった石のようものに変わっていた P48

・寂しいことを言うと寂しくなくなるの P85

・残酷な結果に終わることもありますが、恋はいいものですよ P101

・疲れが肩に重くのしかかり、
深呼吸しても、ほっとするだけの酸素が躰に回らない。
原因はよく分からない。
掃除機がどんなゴミを吸い込んだのか、
一言で言い当てることができないように P126

・小さな幸せの中で小さく生きていけることが望み P168

・新しいものというのは、私を刺激してやまない何か、
つまり、自己満足をあたえてくれる何かなのだ。
すべてのアーティストは自己満足を求めて作品を作っている(略)
世間的評判も名声も後でついてくるものだ(略)
自己満足できなければ描かない(略)
新しいものを世に問わなければ辞めたも同然である P174

・仕舞い放しになっていた古いものを引っ張り出し、
置く場所を変えるだけで、そのものたちが新鮮な光を放ち、甦った P175

・自分ではない人間に成りすまし、嘘をつくのは気持ちがいい P180

・いつどこで何をしてもいいっていうのは、
楽園から追放されたようなものだから(略)
自由って、安息をあたえてくれる場所から
大海にひとりで泳ぎだすようなものじゃないか(略)
大海から追放されて、長い間、泳ぎ続けてきた。
だけど、今は疲れてしまって、
ほどよいところで心地よく溺れてしまうことを望んでいる P186

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