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天皇陵探索記


初めに

上皇陛下が卒寿をお迎えになられました。大変めでたいですね。記録に残る天皇の中で最高齢とのことです。秋篠宮殿下に命の大切さを身をもって教えるため冬の池に落としたり、新種のハゼを発見する研究者であったり、くまモンの中の人は一人なのか、となかなか踏み込んだ質問をくまモンにかましたり、日本の象徴にふさわしいキャラが立ってる素晴らしいお方だと思います。
ところで、私の趣味は歴史上の偉人の墓参りです。教科書に名前が残る人が眠る場所に一般人でも足を踏み入れ、対面できるところにロマンを感じる(ちなみに、オカルト趣味はないです)のですが、もちろん天皇のお墓(天皇陵)も例外ではありません。関西にいる間に全ての天皇のお墓参りを果たしました。

皆さんは天皇のお墓が日本に何個あるか知っていますか?
宮内庁によると歴代天皇陵の個数は112個あるそうなのですが、その中で参拝して色々とインパクトや記憶に残った天皇陵を5個紹介したいと思います。
(ちなみに私は右寄りの思想は持っていません。と言いますか、何の思想もありません。)

淳和天皇 大原野西嶺上陵

ヘッダー写真の天皇陵です。

淳和天皇は平安時代初期に在位した53代天皇で、かの有名な桓武天皇のお子様です。そして天皇陵巡りをした人全員に最も辿り着くのが過酷だった天皇陵はどこか?と尋ねたら間違いなくここを答えるはずです。

所在地は京都市西京区

地図を見て分かる通り、最寄り駅はありません。公共交通機関を利用しての参拝は困難です。
しかし、地図を見ると陵までくねくねした一般道が続いているから自家用車やバイクを使えば容易に参拝できるのではないか?と思った方もいると思います。私もそう思っていました。

山に入ろうとしたところで通行止めがあります。どうやら通行できるのは土木事務所職員などの限られた方のみのようで、当然ながら自家用車での侵入はできません。そして、淳和天皇陵があるのは小塩山の頂上(標高642m)です。高低差500m以上の文字通りの登山になります。一切休憩を取らず途中で野生の猿や鹿に遭遇しながら往復で3時間かかりました。運が良ければ熊も出るようです。

円丘型の陵墓らしい

当日は雨が降っておりましたので、霧がかかり雰囲気は天皇陵にふさわしい荘厳なものでした。
ではなぜこんな場所にお墓があるのか?
それは淳和天皇が遺言としてこの場所に散骨することを命じたからです。散骨されたと伝わる小塩山の頂上に陵墓を造ったため、遺骨は埋まっていません。強いて言うなら小塩山全体が陵墓です。そして散骨された天皇は歴代で淳和天皇ただ一人しかいません。
淳和天皇が在位した頃は律令体制が崩壊しかけていた頃でした。父親の桓武天皇が徳政論争の結果、二大事業(平安京造営、蝦夷追討)を停止したり、軍団兵士を廃止して健児を制定するなど改革を行っていることからも分かります。そこで疲弊した民を思った淳和天皇は大掛かりな葬儀、陵墓の造営を禁止したのです。
そんな心優しい人だったからでしょうか。お参り後は心が晴れやかになった気がしました。

雄略天皇 丹比高鷲原陵

第21代天皇で、教科書的には倭の五王である「ワカタケル大王」として有名です。結構残酷な方で天皇になるまでに皇位継承のライバルになる兄弟や親戚などを殺しまくっています。

所在地は大阪府羽曳野市

雄略天皇のお墓でインパクトがあるのは何よりその形です。

写真中央の池に浮かぶ小山が島泉丸山古墳、左端の森が島泉平塚古墳の一部

地上から撮った写真を見てみるとただの池に浮かぶ小山にしか見えませんが

上空写真を見ると天皇陵が2つに分断されていることがわかります。しかもこの陵墓は後天的に分断されたのではなくもともと2つに分かれていたものを、当時の天皇陵が前方後円墳ばかりであったために、島泉平塚古墳と島泉丸山古墳を同一陵墓だと捉えたら前方後円墳の形に見えるように島泉平塚古墳の形を修正してできたものです。なので島泉平塚古墳は古墳ですら無いのではないかと言われています。割と何でもアリです。

牽牛子塚古墳

この古墳には、天皇陵であれば付くはずの〇〇天皇〇〇陵という名前がありません。
なぜかというと宮内庁に天皇陵として認められていないからです。では誰のお墓かと言いますと、第37代天皇の斉明天皇です。この斉明天皇は蘇我入鹿が殺された乙巳の変の時には第35代皇極天皇という名前でした。つまり2回天皇になっています。複数回天皇になることを重祚(ちょうそ)と言いまして、他には道鏡と男女のズブズブの関係であったことで有名な奈良時代の称徳天皇(孝謙天皇)がいます。

所在地は奈良県明日香村
宮内庁指定の斉明天皇陵との距離は3km程でしょうか

牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵と言われている理由はその形状にあります。

最近コンクリートでの補強工事によって造営当時の姿を取り戻しました

八角形の形をしています。この当時、古墳時代終末期は巨大な前方後円墳が費用等の面から作られることがなくなり、代わりに大王の墓として特別に八角墳という呼ばれる形態の陵墓が作られるようになりました。他の八角墳は、舒明天皇陵(34代。斉明天皇の夫)、天智天皇陵、天武天皇持統天皇合葬陵など、斉明天皇の辺りの時代の天皇のものばかりです。
宮内庁指定の斉明天皇陵は円丘であり時代に合わないこと、そして当時の史料の記述によると斉明天皇のお墓にはその娘の墓が隣接しているそうなのですが、牽牛子塚古墳にも小型の古墳が隣接していることから牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であることはほぼ間違いないそうです。

他にも中尾山古墳(明日香村)が八角墳であることから、ほぼ間違いなく真の文武天皇陵(42代。大宝律令制定)とされています。

中尾山古墳
風化してただの崩れた小山になっています
宮内庁指定の文武天皇陵との距離は500mくらい?

このことから分かるように、一度決めたら天皇陵は動かさないというのが宮内庁のスタンスなので実際は本当の墓とは違うものが天皇陵になっていることが多いです。

長慶天皇 嵯峨東陵

長慶天皇って聞いたことありますか?普通の人は無いですよね。南北朝時代の南朝の天皇(98代)で、即位したか定かでなかったのですが、1926年になってやっと天皇として認められた方です。

所在地は京都市右京区
嵐山にあります
何の変哲も無いどこにでもある天皇陵

この天皇陵何が普通と違うかというと、天皇の遺骨はありません。お墓の場所が特定できなかったので、近代になってそれっぽい場所にお墓を造りました。擬陵と言います。他には桓武天皇陵(墓の場所の詳細が分からなくなった)、安徳天皇陵(壇ノ浦の戦いで入水した)などが擬陵です。
長慶天皇はそもそも天皇になったか不明だったので資料が少なく、後半生にどこで何をしていたのか不明なのです。それで仕方なく長慶天皇が通称慶寿院と呼ばれていたことから、慶寿院というお寺があった場所にお墓を造りました。
ただ京都は応仁の乱など戦乱で焼け野原になっていることを考えると、むしろ天皇陵に遺骨がある天皇の方が珍しいかもしれません。

後醍醐天皇 塔尾陵

誰もが知ってるであろう建武の新政を行った96代天皇です。足利尊氏と対立して吉野に逃げて南朝を起こしました。

所在地は奈良県吉野町
吉野山の山中です

行くの大変だった天皇陵ランキングをつけたらトップ5には入ります。とにかく山の中を歩くのが体力的にシンドかった。

木がいっぱいキノコのようにニョキニョキ生えてる辺りに円丘があります

さて、「天子は南面す」という言葉があります。これは皇帝は天球で一切動かない北極星に例えられたことから、皇帝は北に居ることになっていたことによります。なので藤原京も平城京も長岡京も平安京も天皇がいるのは都の一番北です。
ですから天皇陵も南向きが原則らしいです。全部行きましたけど、そんなことは無かった気がしますけどね、、、
しかし、後醍醐天皇陵は北向きに鳥居や門が立っています。これは、結局北朝を倒せず、京都に帰ることなく吉野で亡くなった後醍醐天皇の無念さを表していると言われます。
教科書で南北朝や室町時代の記述が薄いのは人物や出来事などがあまりにもカオスであることに要因があると個人的には考えてますが、そのカオスを作り出した要因の1人です。足利尊氏との関係性とか訳が分からないので是非みなさんも調べてみてください。

終わりに

とてもニッチな内容の記事になってしまいました。
他にも物理的な行きにくさでは、崇徳天皇は別格の行きにくさとして、後花園天皇、清和天皇、光仁天皇の陵墓は原付を使っても行きにくかったです。

皆さんもニッチな趣味はありますか?独りでの生活が日常の大半を占めると趣味の多様さがないと日常がとてもモノクロになってしまいます。
天皇陵巡りは別に趣味にしなくていいので、他人とは共通しない自分だけの趣味を見つけてみてください。一人で楽しめるものがあると、後々の人生で便利な気がします。
この記事は、こんなニッチな趣味もあるんだ程度に見ていただければ幸いです。長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。



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