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歴史を学ぶことの意義

司法試験が終わりまして、この世の春を謳歌する私は我慢していた趣味に明け暮れています。
まず今話題のルックバックを映画で見ましたが、良かったです。私は藤本タツキ先生の作品の特徴は、基本的にセリフ以外の地の文が無いため物語の解釈が読者に委ねられていることにあると思っていますが、初めて原作を読んだ際と同様の余韻を感じることができた点で素晴らしい映像化だったと思います。友人との感想戦も楽しめました。


逃げ上手の若君

さて、現在歴史クラスタ界隈で盛り上がりを見せているのが、逃げ上手の若君(通称「逃げ若」)です。

鎌倉幕府最後の得宗北条高時の子北条時行が主人公です

アニメの出来を左右するものとしてストーリー性はもちろん大きいですが、作画の要素が介在するのを否定できません。その点、逃げ若は製作がCLOVER WORKSです。同社は恐らく今一番勢いに乗っている製作会社で、作画という点ではまず心配ありません。
そして青少年を対象とするジャンプで、歴史物で勝負している点も興味深いです。しかも主人公は北条時行。南北朝時代の契機を作った人物で、確かに教科書にも出てきますが難関私大の一問一答レベルの人物です。しかも南北朝時代が難解なのも相まって一般人の興味を引きにくいかと思われますが、松井先生は彼を題材にしてアニメ化させるのだから凄いですね。
関西にいる間にあらかた関連史跡には行きましたので原作をどのように映像化するのか楽しみにしたいと思います。
まず、こうした創作物を史実との比較を通じて楽しめるのが、歴史を学ぶ楽しみですかね。

歴史教育の意義

きっかけ

この問題を考えるようになったきっかけは「古文漢文いらなくね?」という趣旨のXのよくある投稿です。古文漢文の必要性となるとだいたい日本史もいらなくね?と引き合いに出されますので、自分なりに考えてみようと思った次第です。もちろんポジショントークになりますので、そこは差し引いて考えていただければと思います。

実社会での必要性

この手の議論では、よく「実社会で使えるか?」という観点から古文漢文、歴史の実用性が乏しいことを理由に科目として不必要であると述べる人が多いように思われます。そして実用性が高い科目の代表として理数系科目も挙げられがちです。
ただ、個人的には別に数学の公式を使った経験は無いですし、将来働く中でも利用することは無いように思われます。そういう意味では、個人的に数学は実社会で使えるものではないです。だから、ある科目が実社会での実用性を有するか自体はその人のバックグラウンドに依存するものだと個人的には思うし、何より社会における実用性なんてものは普遍的なものでなく、時代によって移り変わる不安定なものです。例えば中世ヨーロッパでは神学が重要でしたし、同時期の日本ではそれは有職故実や古典でした。
だとすると今の一瞬を切り取って科目の優劣要否を問うこと自体が近視眼的なのではないでしょうか。教育内容には世代間で大きな差異があるべきでなくいわば普遍性が求められるはずなのに。
ただ、こんなことを言って数学の重要性を否定したいわけではありません。数学は論理性を高める素材としてめちゃくちゃ優秀なものだと思います。数学では答案を書く際には、採点者にとって理解しやすいような論理一貫性がある文章が求められます。公式を利用する場合にはその理由について触れる必要があるし、時には採点者に分かりやすく図示することも必要です。
そして、人間が他者との交流を避けては生きていけない以上自身の考えを他者に伝えるためには論理性が不可欠です。そうした論理性を鍛えるためには数学は重要だし、学ぶ必要も大きいと思います。素人考えですが物理も同じなのではないでしょうか。
じゃあ、古文漢文はどうなんだ、あんなのただの暗記ではないか、という人もいると思います。しかし古文漢文の空欄補充や文意を答えさせる問題は単語の暗記だけで解けるものではありません。前後の文脈が理解できていることこそが大前提であって、その点では論理性が求められるのは他の科目と同じです。その暗記すべき単語が現代社会で利用されているか否かの違いでしょう。まあその単語がそもそも現代で使われないのだから覚える必要が無いと言われたらそれまでですが。

歴史教育の意義

検索エンジンで「自国のことを知らない」と打ち込んでみると「日本人は日本のことを全く知らない」という趣旨の検索結果がたくさん出てきます。外国と比較するとそれだけ日本人は自国のことを知らないと考えられているのでしょうが、現在の日本の街中を歩くとそれではいけないのだろうなと考えさせられます。
今の日本は観光立国化が進み、訪日外国人数も4000万人に迫る勢いとなりオーバーツーリズムが問題になるほどになっています。私の地元宮城県の松島も外国人の数がかなり増えた印象がありますし、先日白川郷を訪れた際にはあんなにアクセスが困難な場所なのにもかかわらず観光客の大半が外国人で度肝を抜かれました。五箇山の方が人数も少なく本来の合掌造り集落の雰囲気を残しているようにすら思われました。
そうした外国人が日本に何を求めているのか?それは東京大阪のような大都市を見学することよりも、衣食住における日本独自の文化を楽しむことのはずです。日本にはギネスに載るほどの歴史をもった王朝と天皇と関わりを有する時の権力者の移り変わりとともに育まれてきた独自の文化があります。古文や漢文だってその文化の一つです。
こうした歴史や文化が日本の唯一無二の特徴なのだとしたら、日本人自身がその歴史文化の教育を無下にしてしまうことは、ひいては日本の歴史文化を次第に失っていくことに繋がりかねません。(例えば文化財の価値を理解せずに安易に毀損消失させてしまうなど)
京都や奈良のような古都に興味を持ち、訪れる外国人がたくさんいるのにそこに住む我々がそこにある建築物の歴史的意義や価値について知らないのは虚しさを感じますし、インバウンドを重要戦略として掲げている国でそうした教育が行われてしまうのは矛盾だとすら思います。

歴史の実用性

最後に個人的な実用性という観点からいうと、歴史や地理が得意であることは日本を観光する中でその経験をより深く刻まれるものにすることに繋がりました。
例えば、誰もが京都に行けばいったであろう清水寺。その舞台から見える南の方角は平安時代に鳥辺野と呼ばれる葬送地であり、現在でも大谷本廟などの大規模な墓地が存在します。そして清水寺がある東山と並んで寺社仏閣が集中する嵐山の北部にも化野と呼ばれる葬送地がありました。だとするとそれらの地域に寺社仏閣が多いことにも意味が考えられそうですし、奈良に話を移すと東大寺の大仏が実は3代目なのには平家と自爆で有名な松永久秀が絡んでたりします。

唐招提寺金堂
唐招提寺には奈良時代創建当初の国宝建築物が数多くありますが、その理由として奈良市街から外れた場所に立地していることから戦火による焼失を避けられたためだと考えられます

京都奈良のような誰もが行く観光地に行って、ただ景色が綺麗だとか建築物が大きいという感想だけでは少々体験として勿体ないと思います。建築物の説明を読むだけでも、例えば創建が鎌倉時代なら「源頼朝が居た時代にはもうできてたんだ」というようにその時代の有名人と関連付けるとその建築物や仏像の凄さを感じるはずです。例えば「人間ってどんなに凄くとも50年で死んでしまうから儚いな」とかね


こういうわけで僕は日本という国だからこそ歴史や文化の教育は重要であると思いますし、できるなら将来の子どもにも学んで欲しいと願っています。そして歴史を学ぶ中で苦手だと感じたなら、もしその時まで残っていたら僕の記事を読んで歴史を少しでも苦手意識を無くしてくれたら幸せです。


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