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「終わり」は自分で決めるものだった

「いつまでnote書くんだろう」

かれこれ130日近く毎日書き続けているけれど、ふと「終わり」を意識する瞬間がある。

自分で「書く」と決めて書いているだけだから、いつでも「書かない」と決めることができるし、「終わり」を自分で決められる。

「何を終わらせたいんだろう?」

毎日書くことを終わらせたいのか、書くこと自体を終わらせたいのか。

毎日書くことも、書くこと自体も、別に終わらせたいわけではない。

けれど、「終わり」が無いと、モヤモヤする。

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これまでの経験を辿ってみても、終わりがあるから頑張れていた気がする。

正確には、終わりという“区切り”。

今までは、誰かに区切られた終わりを目指して歩いていた。

けれど、「noteで文章を書くこと」に関しては、自分で終わりを決めなければならない。自分で決めた終わりに向かって、歩かなければならない。

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普段何気なく過ごす中で、「終わり」を意識することがどれだけあるのだろう。

大人になれば、向こうからやってくる「終わり」なんてものはなくて、何かを始めることも、何かを終わらせることも、自分の一存だ。

「絶対に明日が来る」と信じてやまない。本当はそんなことないはずなのに。

「終わり」は設定されているものではなくて、自分で設定するものなのかもしれない。

決して抗えない「終わり」もあるけれど、きっと、自分で設定する「終わり」の方が多いと思う。

自ら「終わり」を設定することで、「今」に一生懸命になれる。

未来に絶対なんてなくて、今この瞬間に一喜一憂することしかできない、そんな「今」への狂おしいほどの執着を、ありのままを、感じることができるかもしれない。


ただ、僕はまだ「終わり」を決めることができない。

「終わり」の無い道をもう少し歩いてみたい。モヤモヤしてみたい。


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