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公家の恐ろしさをナメてはいけない

なぜ織田信長は将軍にならなかったのか、という素朴な疑問について。
これについては、実は既に朝廷側から次の3つの候補を打診されていたようだ。
①将軍
②太政大臣
③関白
で、この三択に答えを出す前に信長は本能寺で倒れたわけで、ようするに本能寺の変さえなければ彼はこの3つのうちのどれかになってた、ってことね。
でも、妙な話である。
①は「武家のトップ」という意味で十分理解できるんだけど、②と③は「公家のトップ」である。
それを朝廷側から打診されるのは明らかにおかしい。
公家が「我々の上に立ってください」と尾張の大名ごときに打診なんてするわけないじゃん?
これは明らかに信長が恫喝したとしか考えられないわけで、当然公家たちにとっては屈辱だっただろう。
なるほど。
本能寺の変に黒幕がいたという説は昔からあるけど、こう考えると【黒幕=公家】説がグッと高まってくるね。

ちなみに、秀吉は③の関白になった。
ここで面白いのは、関白になるために彼はわざわざ公家の近衛家の「猶子」になったことである。
猶子というのは、養子縁組のようなもの。
そもそも関白という役職は、五摂家にしか許されてないわけね。
五摂家というのは、近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家のことであり、要はみんな「藤原氏」なんですよ。
びっくりするわ。
あの藤原氏が、まだ健在だったんなんて。
いやいや、その健在は明治以降もまだまだ続いていて、たとえば近衛文麿が首相になったし、戦後では近衛家現当主である細川護熙が首相になったよね。
あの大化の改新から千数百年たってもいまだ中臣鎌足の血統が権勢を保ってるとは、藤原氏、おそるべし。
これだけ長く続くということからして、どうも公家というのは権謀術策に長けた人種のようだ。
我々からすれば公家なんて、ただ語尾に「おじゃる」を付ける人というイメージしかないんだが、いやいや、ナメちゃいかん。
あの明治維新だって、我々は薩長主導という部分しか見てないけど、ホントの黒幕はどうやら公家だったっぽいしね。
事実、明治政府でも矢面に立ったのは薩摩の大久保利通だったけど、どうも大久保は公家の岩倉具視に取り込まれてた様子。
裏から仕切るという点で、やはり公家は日本のハプスブルク家である。

公家

さて、秀吉の件に話を戻すが、彼は後に②の太政大臣にもなって公家のトップに立つんだが、不思議なほど朝廷にタッチしないんだよね。
②と③の名目でありながら、やってることは全て①の範疇。
もとから公家を統制する気などさらさらなく、それどころか公家の禄高を上げており、ご機嫌をとってるかのようにさえ見える。
多分、武家としての格が全くない秀吉としては、権威として公家になることが必須だったんだろうね。
武骨で粗野なサムライ社会の中で、自分だけ頭ひとつ抜きんでた高貴な存在になりたかったんだよ。
田舎者ほど高級ブランドに弱いから、彼には公家の紋章がルイヴィトンのロゴのように見えたに違いない。
絶対、彼は一時期マイブームで語尾に「おじゃる」を付けてたよね。
「殿、北条を討ち取ったでござる」
「うむ、分かったでおじゃる」
そんな「ござる」と「おじゃる」に大した差はないんだが、田舎者はどうしてもそういうディテールにこだわるのよ。
ホント、秀吉ってばカワイイ。

こうして秀吉の治世では公家との関係は良好だったんだが、これが徳川の治世になると話が少し変わってくる。
そう、家康が作った「公家諸法度」だよ。
これは十七条におよんで色々と規定しており、たとえば第一条で「天皇がまずやるべきことは第一に学問。第二に和歌。そして第三に勉強すること」と全く意味分からんことが書いてある。
他にも服装の規定とかまであって「お前はお母さんかよ!」とツッコみたくなるんだが、それよりひとつ興味深いのは、この諸法度で五摂家、およびそれに準じる清華家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭の七家)の立場を保証してることなんだ。
五摂家と清華家以外が重要な役職についてはいかん、と。
これ、明らかに何か裏で取引があったよね?
このへんはさすが藤原氏、抜け目がないというか何というか・・・。

家康は、三傑の中で最もキャラの立ってない男である。
信長ほど強烈なカリスマ性があったわけじゃないし、足軽から成りあがったという秀吉ほどのエンターテインメント性もない。
よく考えれば、幕末の三傑でも最後に政府の主導権を握ったのは大久保だったわけで、彼もまた三傑の中では最もキャラ立ちしてなかったと思う。
西郷のカリスマ性、デブキャラ、そしてホモ的な意味での兄貴キャラ、どれをとっても大久保は遠く及ばないし、また木戸孝允の天才剣士・桂小五郎キャラ(あの近藤勇が手も足も出なかったらしい)、そしてあの松下村塾の塾頭という吉田松陰の一番弟子キャラにも大久保は遠く及ばない。
案外、日本史ってキャラが立ってない方が最後はうまくいくのかな?
まぁ、家康に話を戻そう。
彼のキャラを敢えていうなら、読書家キャラだったらしい。
ああ、ようするに陰キャね。
孔子や老子などの思想本、孫子などの兵法書、仏典、古今東西の歴史書にいたるまで、ありとあらゆる本を読んでいたそうだ。
よって日本史にも詳しく、当然のことながら公家のことも熟知してたんだと思う。

徳川家康

家康は考えた。
あの藤原氏の末裔か・・・。
思えば、日本で初めて中央集権体制を作ろうとしたのは天智天武ブラザーズだったわけで、でも結局彼らの目指した律令制は形骸化し、最後に勝ったのは荘園を抱えて栄華を極めた藤原氏である。
つまり、大化の改新で勝ったのは中大兄皇子でもその弟でもなく、藤原氏の祖・中臣鎌足だったんだよ。
これを読んで、家康は「そうか」と思ったんだよね。
俺、中臣鎌足になればいいんじゃね?と。
仮に、強烈なパワーで蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子が織田信長だとすれば、その遺志を継いで律令制を作った弟の天武天皇がまさに豊臣秀吉であり、でも天武亡き後には藤原氏がいつの間にか王朝の主導権を握ってたことを考えれば、ああ、そうか、俺はそういう藤原氏的に、ただ秀吉が死ぬのを待てばいいんだ、と思ったんだろうな。
発想が、実に陰キャである。

司馬遼太郎なんかは、この徳川の陰キャ体質が大っ嫌いみたいだね。
わかる、わかるわ~。
自分の家を安泰にするには「じゃ、他の家が困窮すればいいんじゃね?」的な発想が徳川の根本にあり、これは陰キャ特有の「リア充爆発しろ」的発想に近い。
自分が主体的に皆から抜きんでるのでなく、逆に突出したものを叩いて全体を低くし、総じて自分の地位を守るという発想だ。
これは、信長や秀吉の思考回路では絶対出てこない発想だろう。
そもそも、信長や秀吉は陰キャではない。
信長は典型的な番長キャラだし(席は決まって窓際最後列)、秀吉は家は貧乏だけど、お弁当の時間になると愛想よく「ねねちゅわん、今日もきゃわうぃいねぇ~」「もう、秀吉君ったら~♡」というやり取りをして毎回オカズをしっかり貰う、まぁ要領だけはいい男なのでリア充の部類にカウントしてもいい存在だ。
一方、家康は違う。
お昼休みもず~っと本読んでるし、時々デスノートみたいな黒いノートを机から出して何かブツブツ言いながら書いてるし(後にそれは武家諸法度だと発覚する)、正直キモイ。
そんな家康が、ふっと隣を見たら自分と同類っぽい、妙に顔が白くて眉のない男がいることに気付いた。

家康「・・・あの、公家君?」
公家「何でおじゃるか?」
家康「信長君が明智君にタレこまれて少年院に行ったらしいよ」
公家「うむ、気まずくて明智は転校したでおじゃる」
家康「以来、秀吉君がデカい顔してるよね」
公家「そう長くは続かんでおじゃる。秀吉はわらわのパパの会社の社員みたいなものでおじゃる。なんとでもできるでおじゃる」
家康「えっ!公家君ってそんな凄い家の子だったの?」
公家「まぁ、千年ほど続いてる古いだけの老舗でおじゃる」
家康「うっそ!じゃさ、ちょっと提案があるんだけど」
公家「何でおじゃるか?」
家康「秀吉君がいなくなった後のクラスのことなんだけど」
公家「気が早いでおじゃるなぁ。ん?その黒いノートは何でおじゃる?」

というふたりのやり取りがあり、やがて関ヶ原の戦いを経て、その後300年近く続く徳川体制ができたんだ。
徳川の台頭の陰に、公家の存在あり。
私は、そう見ている。























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