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【小説】蓮が咲く10

【十】
 
「…ギルさん…ギルさん……」
薄い意識の中で、どれくらい前からか分からないが、自分の名を呼ぶ声がしていた。若い女性の声だった。
「塚原サガミチさん」
 不意に本名で呼ばれ、反射で朦朧としていた意識の霧が突然消えた。
 目を開けると、そこに若い女性が立っていた。目が合うと、その女性はほっとしたように微笑んだ。ギルはここで、彼女が自分の手を握っていることに気付いた。
「月香……」
ギルは力ない声で彼女の名前を呼んだ。
「お前さんがいるってことは、ここはあの世だな?」
「いいえ」
 目を閉じて首を横に振った月香は、ギルの手を握ったまま、ベッド横でしゃがんだ。二人の顔が近くなった。
「ギルさんはまだ生きてるの。私は言いたいことがあって、ここに来たの」
 月香の吸い込まれそうな黒い瞳にギルの顔が映っていた。月香はギルの手を握ったまま、両肘をベッドの上に乗せ、ギルの手の甲に唇を押し付けた。柔らかく、少々化粧品でべたついた感触をギルは感じた。
「生きて」
月香は言った。
 ギルは思わず噴き出した。
「今更何を言うかと思えば……」
 月香は表情を変えずに、ギルを見つめていた。
「ギルさん、あなたが一番分かっているはずよ」
 ギルが笑うのを止めた。
「前にも話したが、俺はこれまでに何人も殺してきてる。そこに道理があっても、背負うべきものがある。ある意味、宿命みたいなもんだ」
「私が言いたいのは、その話じゃないの。ギルさん自身は、そう簡単に割り切ることはできないかもしれないけど」
 淡々と、月香が話した。
「どういうことだ?」
 ギルが尋ねた。
ふ、と月香が笑い、ギルは小さな鼻息を手の甲に感じた。
「素直になって、ギルさん」
 そして、月香は続けた。
「あなたは幸せになる権利があるわ」
「ねえよ」
 ギルは即答した。
「いいえ、あるわ」
 優しく、はっきりと月香は言った。
「何度も夢に見た。お前さんをな」
 ギルが言った。
「知ってるわ。でも、もう夢には出ない」
「なんでだ」
 ギルはやや語気を強めた。
「自分が一番分かっているはずよ」
 ギルの気迫に臆することなく、月香は穏やかなまま続けた。
「私はもう死んでるわ。でもあなたは生きてる。だから、幸せになる権利があるわ」
 ギルは何も言い返せなかった。何も言葉が浮かばず、涙が目尻から一筋流れた。
「サガミチさん」
 月香は再度、唇をギルの手に押し付けた。
「幸せになって」
――はあっ」と息を大きく吸うと同時に、ギルは目を覚ました。
 急に心拍が上がり、汗が噴き出た。
 そこは病室の集中治療室だった。常駐している看護師がすぐにやってきて、コードネームであるギルの名を呼んだ。
「ギルさん、ご気分、いかがですか」
 体に繋がった様々な管をチェックしながら、看護師が続けた。
「すぐにドクターが来ますからね」
 呼吸を整えながら、ギルは天井を見ていた。看護師に応える余裕がなかった。
 
幸せになって
 
それが、月香の最後の言葉だった。
 
 
「あなたを襲った機動隊員、『フレンズ』利用者じゃなかったわ」
 ギルの意識が戻ったと連絡を受けたナギサが、病室を訪れ、看護師が出て行ったのを確認して言った。
「じゃあ……」
「そう。彼自身の意志だったみたい。それも、障害者がらみで嫌な思いをさせられたわけでもなく、報道や体験談に感化されただけのね」
 はー とギルは天井を見てため息をついた。
「事前の人選で見抜きようがねえな」
「今回は不運だったのよ」
「俺も、リダツが使えればなあ」
「ないものねだりするくらいなら、弾が貫通しないくらい鍛えたら?」
 ナギサがさらりと言った。その後ナギサは、ふ、と微笑むと、言葉を続けた。
「私たちは一人じゃない。補い合えばいい。今回は本当に運が悪かったのよ」
 ナギサはふと窓の外に目をやった。
「いや、不幸中の幸いだったとも言えるかもね。あなたは死ななかったんだから」
 ギルは黙ってナギサの言うことを聞いていた。
「なあ」
 ギルがナギサに話しかけた。
「何?」
 ナギサが窓の外から視線を戻した。
「今度、俺の家で食事に呼んだら、来るか?」
「何よ、突然」
 からかいを警戒する表情で、ナギサが訊いた。
「食事でもしながら、下らねえ話でもしようや。料理の腕にはそこそこ自信があるぜ」
 ナギサは数秒考えた後、口を開いた。
「下らない話には付き合う気ないけど、食事には行ってあげてもいいわよ」
 ナギサはいたずらっぽく笑って言った。
「じゃあ、決まりだな」
 ギルもいたずらっぽく笑って答えた。


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