なぜ文系は科学を無責任と捉えてしまうのか:書評 「理系のための文章教室」
コロナ禍で科学者のコミュニケーションが話題になっています。10年前、東日本大震災でも、原発の危険性の評価において科学者の説明が市民の不安を煽るように受け取られていました。
一般的に、科学者(ざっくり理系と表現します)は、理系でない人から見ると、説明が無責任とか冷たいとか言われることが多いように思います。そんな中、藍月要さんの「理系のための文章教室」という本がその疑問に答えてくれました。
この本、内容の紹介に入る前に、1点だけ不満があります。「理系のための文章教室」というタイトルにしてしまったために、多分、この本、理系の人しか読みません。それが無茶苦茶もったいない良書です。
「なぜ、私たち文系は、科学を無責任と思ってしまうのか?」というタイトルなら、多くの文系の人にも手に取ってもらい、理系と文系のコミュニケーションの悲しい齟齬が少しでもなくなったのにと、それだけが残念でなりません。
なので、今日のnoteのタイトルはそういうタイトルにしました。
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「文章教室」の本なので、文章テクニックに紙幅が割かれています。正直、理系、文系関係なく、役に立つ文章テクニック満載なので、文章力の教科書としても非常に優れた本です。
ですが、この本の真骨頂は「理系」と「文系」の文章への向き合い方、その背後にある「責任感の違い」への言及にあります。
文章への向き合い方の違い
まず、理系と文系では文章の目的がそもそも違うと指摘しています。
文章には、大きく分けてふたつの種類があります。
・誤解される可能性を過度に恐れず、まずは一人でも多くの人に理解や共感されることを目指すもの
と、
・たとえ理解できる人が少なくとも、絶対に誰にも誤解されないことを目指すもの
本文P19
当然、前者が文系、後者が理系となります。裏を返せば、理系は分りやすさは犠牲にするし、文系は誤解が生じる可能性は目を瞑るのです。
理系が正確さを重んじるために、この本で例示されているもの凄く極端な例を挙げれば「この装置、固定すれば、絶対動かないよね?」と言われたとき、動くどころか量子テレポーテーションすることだって、非常にごく僅か(多分、数京年に1回のレベルと思う)でもありうる。
だから「絶対」とはいわない。出来る表現としては「その可能性が極めて高いと現状では判断している」ぐらいのことしか、正確性を重んじたら言えないのです。
しかし、このような表現が、理系表現に慣れていない人には、「断言しない態度」というのは「責任をとろうとしない態度」という風に受け取られます。
歯切れが悪い、冷たい、責任感が薄い・・・・・・こういった反感を覚えられると、頭ではどうであれ相手の心が拒否してしまい、こちらの説明を聞いてもらえません。(P96)
となります。
「そもそもあんたのいうことは信じられない」のレッテルを貼られてしまうと、そこから前向きで積極的なコミュニケーションは絶望になります。
理系と文系の「責任感」の違い
さて、この「責任感」の方向性が理系と文系では異なります。
「できる限り努力はするが、絶対に大丈夫とは保証できない」
「死ぬ気でがんばる、だから絶対に大丈夫だ!」
どちらの方が、責任感のある態度にみえますか?(P98)
どちらの方が、責任感のある態度にみえますか?
(ちょっと空白を置きます。)
理系なら、当然前者の方が責任感があります。十分な確証がないのであれば、十分な確証がないと真実を伝えることが責任です。間違った情報を与えてしまうのは、理系にとっては倫理レベルで許されない無責任さとなります。
ところが、文系では、、後者になります。言い切れる材料はないけれども、それを承知で敢えて言い切るところに、意志の強さを感じ、信頼感を醸成します。
つまり
感情はさておき、論理的に十分な確証がないと判断できるのであれば、そう言うべき。それが責任感のある態度・・・・・・と考える理系社会(P99)
論理はさておき、自らの意思の表明や聞いている人間の安心のために、敢えて不確実なことでも言い切るべき。それが責任感のある態度・・・・・・と考える一般社会 (P99)
と、なります。
すなわち、
理系が己の倫理観に従って動いて、責任ある言動をしようとしても、一般社会の中では逆の姿に映ります。
と、いうことです。
つまりは、理系は「情報」を共有しようとし、文系は「態度」を共有しようとしている、とも言えるでしょうか。
科学マスメディアの育成
さて、このようなすれ違いに対して、どのように対応すれば良いのでしょう。まず第一に、科学者がコミュニケーショントレーニングを積むというのがあります。だが、私は、これは悪手かなと思います。
理由は、そのトレーニングを積むこと、すなわち思考の厳密性を薄くすることは科学者にとっては非常にストレスだし、もともと厳密な思考が得意だから科学に携わっていることを考えれば、苦手なことを無理矢理やらせても効果は薄い。
むしろ、両方のコミュニケーション作法が分る、コミュニケーション強者、多面的に物事を捉えられる人材を、「科学マスコミの専門家」として育成し、科学者の言葉を翻訳していくことが望まれます。
率直に言って、科学者のコミュニケーション作法が分っていない社会部や政治部、ひどいときには芸能部のレポーターが科学者の記者会見で質問するから、コミュニケーション作法のズレが起きます。マスメディアがもっと理系採用をして、理系コミュニケーションの翻訳家としての振る舞いをする必要があると思います。
そして、翻訳をした上で、批評をすれば良いのですが、「マスメディアは権力の監視役だ」という意識が強すぎるのでしょうか。その上、「末は博士か大臣か」という言葉があるように、科学者というのは大臣(政治家)と並ぶ「権威」だと思われています。
権威に対しては反抗しなければならないというマスコミにとって、科学者は「理解して翻訳してあげる市民の仲間」ではなく、「監視して批判する攻撃対象の権威」なんですよね。
マスコミに、「科学者は有益で正確な情報をもたらす市民の仲間」として認知される日が来るといいなあと思います。
理系コミュニケーションの訓練を
また、一般市民の側も、「とにかくガッツリ正確性を目指した文章トレーニング」を積むことにより、「なぜ、このような断定しない表現になってしまうのか?」ということが理解出来ます。
理系が「可能性がゼロではない」というのは、「ほぼ言い切りたいけど万が一が否定できない」という意味です。
私は、このあと、夕方、くも膜下出血で死ぬかもしれません。なんなら、今日の帰り道に、信号待ちしてるところ、後ろからダンプに突っ込まれるかもしれません。可能性はゼロではないです。
そのレベルの万が一であったとして、「明日、運動会、絶対来てくれるよね?」と愛娘に言われても、「いけない可能性ゼロではないよ」と言っちゃうことさえあるということです。
日常のコミュニケーションとしては破綻しています。常識的に、そんなレベルの可能性は考えないです。でも、「運動会に行けるかいけないか」みたいな常識的で身近なわかりやすい例ばかりではありません。
判断に専門知識が必要で、伝染病や事故、災害などで「死者が出るか出ないか」のようなシビアな問題であればどうでしょう。誠実で責任を持って応えようとすることにより、慎重で歯切れの悪い発言になるのは、ご理解いただけると思います。
一回立場を逆にしたトレーニング、中学校の理科の実験レポートぐらいのところで、「正確さを徹底的に追求する文章の書き方」「不十分で確定していないことを、言い切ってしまわない、可能性がゼロでないことは可能性がゼロでないとちゃんというトレーニング」「見栄張ったり、変に責任感を発動して出来るとか言っちゃわない、正確さを最優先したコミュニケーショントレーニング」を義務教育に取り入れるようなことは、カリキュラム的にも無理なく出来るのではないでしょうか。
以上、藍月要さんの「理系のための文章教室」の紹介でした。コロナ禍における、日本社会において、非常に重要な本だと思います。「理系以外」の方にこそ、是非読んで欲しい名著としてオススメします。
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