『縦の多様性』と『横の多様性』の分断、そして、処方箋
昨年来『分断』ということばが世間を賑わしています。
『分断』の生々しさとして長崎県諫早市の女子高生『山邊 鈴』さんのnoteが秀逸なので、まだの方は是非お読みください
さて、今日は結論から書きます。『多様性』には『縦の多様性』と『横の多様性』があり、その分断が、社会の分断になっていると、私は考えます。
※今日は、割と長文になります。リンク先は必要に応じてどうぞ!
横の多様性・縦の多様性
『多様性』と聞いて、どんな概念を思い浮かべるでしょうか。先日、あるブログが話題になりました。
つまり、『多様性』の意味合いが違っているわけです。『多様性』の意味するところの違いについて、多様性には『縦の多様性』と『横の多様性』があるという概念を、WiL共同創業者兼最高経営責任者の伊佐山元さんが書かれています。
そう、敢えてざっくり言えば、『縦の多様性』とは所得や年齢など、『横の多様性』とは価値観の多様性というところでしょう。
地方は『縦の多様性』、都市は『横の多様性』
さて、地方は、社会階層という『縦の多様性』があるが価値観など『横の多様性』に乏しく、都市は『横の多様性』はあっても『縦の多様性』に乏しいのではないでしょうか。
もちろん、都市と言ってもその中には色んな社会階層が包摂されていますが、ここでは、いわゆるアッパークラスの生活環境を『都市』というラベリングで議論していきます。
実際のところ、日本はそれでも街区ごとの貧富の差が極端な国ではないですが、同じ東京都内であっても『横の多様性文化圏』と『縦の多様性文化圏』はあるように感じますが、議論を簡便にするため、今回は、主語を大きく取ります。
イメージを図にするとこんな感じです。
ものすごく、荒っぽいことを言えば
自分の中学校のクラスメイト・あるいは自分の子どもの中学校のクラスメイトを思い浮かべたとき、7割以上が四年生大学に進学・進学予定であれば『横の多様性文化圏』、4割以下であれば『縦の多様性文化圏』というところが目安と思います。
都心部の私立中高一貫校の多くが、9割以上が大学進学する進路になります。一方、日本全体の大学進学率は約50%、とすると、話を単純化すれば、片一方に90%があれば、もう片一方に10%がなければバランスしません。
『縦の多様性文化圏』
特に有力な私立中高がない地方では、『縦の多様性』を感じる機会は多くなります。同じ学級の中に、地元の公立進学高校に進み、東大や京大に進学する人もいれば、中卒で就職する人もいる。そして、平均すると四大に進学するのは3分の1ぐらい、それらが一学級に集まっている。
初婚年齢も大幅に早かったりします。10代での出産は少数ではあるけれども、目を見張るほどの珍しいことでもない。その一方、4大を出て地元に帰って30代で結婚する人もいる。下手をすると、同じ45歳の同級生の『子ども』と『孫』が、小学校で同じ学年で揃うなんてことがあったりする。そういう『多様性』の幅は大きい。
冒頭紹介したブログの描写です。長崎県諫早市の状況になります。
しかし、地方は『横の多様性』は少ない。『女に学問をする必要はない』というような典型的な男尊女卑価値観を引きずっていたり、あるいは、勉強が出来ること(及びそれに繋がる興味関心の持ち方)が素直に認められなかったりする。
「あの子の家は貧しくて、苦労してるからえらい。あいつは金持ちで苦労してないからダメだ」とか、「あの子は勉強できないけど、人間的に魅力がある。あいつは勉強できるけど、人間としてクズだ」とかですね。
もちろん、そういう人もいるでしょう。でも、価値観として強調されすぎると、将来的に、『そもそも勉強頑張ることに躊躇がうまれる』という弊害も生まれます。
このあたりの理屈は、前川ヤスタカさんの『勉強できる子卑屈化社会』が生々しく状況を伝えてくれます。
また、趣味関心の幅が狭い、いわゆるヤンキー文化なので、ヤンキー言語で言う『陰キャ』に属する趣味に対する理解が薄い、理解が薄いどころか、蔑視の目線だったりする。
『地域の常識』の同調圧力から外れると、一気に生きづらくなる。
これが地方の『多様性』といえるかと思います。
図にすると、こんな感じです。
『横の多用性文化圏』
では、『横の多様性』はどうでしょうか。ベネッセの記事を引用します。
見事なまでの『横の多様性』です。他にも子どもの頃からバイオリンだったり、バレエだったり、あるいは海外に赴任して海外生活を体験したり、、そんな人がゴロゴロ、少なくとも同じ学校の同級生にはいる、ぐらいの頻度では出会えるという確率です。
一方、『縦の多様性』はどうでしょうか。こういった生活をするためには、その段階で、ある程度の経済力がないといけません。所得階層としては均質化しています。日本の大学進学率が50%ちょっと。でも、この階層の人はほとんど(90%以上は)大学に進学するという偏りは厳然としてあります。
東工大「8・7・6問題」
東工大に「8・7・6問題」というものがあります。平田オリザさんの記事に詳しいです。
東工大の場合はジェンダーバランスも崩れていますが、6割が中高一貫出身というのは、まさに『縦の多様性』の乏しさ、ではないでしょうか。東京の有名大学の多くが、こういう現状になっており、打開するための『地方枠』や、あるいは『奨学金』などの取組みが始まっています。
実際、私も慶應義塾大学の出身ですが、仲良かった友達(付属校出身)が、学生時代に、『正直、自分たちが恵まれているなんて分からないんだよね、世帯年収1000万円なんて、庶民じゃん。中学の時からまわりがそうだもの。』、そして、別の人は卒業後子どもを抱える年齢になって、『夫婦で年収2000万はほしい。そうじゃないと、子どもの教育資金が出せない』などと言っていたのを今でも覚えています。
同調圧力は田舎だけでなく都会にもある
ところで、同調圧力は田舎だけのものではありません。都会にも同調圧力はあります。これは個人の感覚ですが、例えば、田舎だったら許される比較的早い時期での結婚、妊娠に対する偏見は都会の方が強いと感じます。仮に私立の中高一貫校で16歳での妊娠が分かったら、その騒ぎ方は、地方の比ではないと思います。
そして、高い教育を受けていることは、役割期待の裏返しでもあります。大企業勤務者には大企業勤務者なりの生活様式、スタイル、価値観があり、そこから脱出、ドロップアウトするのは容易ではありません。
そして、このような制度設計は、マインドにも影響を及ぼします。
東大卒日経記者、そして、現在ではフリーのジャーナリストとして活躍する中野円佳さんは、著書『育休世代のジレンマ』の中で、高学歴女性の「男並みの働き方や社会的地位獲得への競争意識」を『マッチョ志向』と呼んでいます。
そして、あとがきでは、自らも当事者としての心境を以下のように吐露しています。
もちろん、これは『女性が男性と対等ではないという現実』に対する吐露だと思いますが、そもそも、男性であっても女性であっても、職業(平たい言葉で言えば就職と昇格昇給)を通じての『社会的地位獲得』が重要な社会だからこそ、『そこから降りるのが悔しい』ということになるのだと思います。
仮に、高学歴男性も『降りる』ことが普通であれば、女性側も『降りる』ことが受け入れやすくなると思いますが、現実はそうではなさそうです。そもそも、『変わる』ではなく、『降りる』という表現が用いられること自体に、『競争社会から抜け出す』ことへの心理抵抗が現れているともいえるでしょう。
この「降りること自体の自己肯定感低下がものすごい」ことが、『縦の多様性のなさ』であり、これは、ひいては、女性活躍の阻害要因にもなっています。
最近でこそ、テレワークなど、地方移住を勧奨する動きも見られてはいます。それでも、地方移住や製造業の現場職に向かうことは、Wantedlyやnoteなどで「地方のものづくりを再生する」とか、「これからの地球のために農業が大事だ」など、志を掲げて、エクスキューズを必要とする進路、「せっかく良い大学出ているのに、何でそんな進路に行くの?」と、進みづらい進路ではあることは否めません。
要するに、都会は、「乗った(乗せられた)レールから降りる選択肢がなく、その選択を採ると経済面だけでなく、マインド的にも大きなエネルギーがいる」社会ではないかと感じます。
それぞれに見えない多様性
では、地方の人が意識できる『多様性』とは、どの程度でしょうか。
先ほど、『横に外れると地方では生きづらい』と書きましたが、逆に言えば、そのギリギリ範囲にいくまでであれば、『変わった人』ぐらいで納めてもらえる。イメージとしてはこういうところでしょうか。
バリバリキャリアの女性でも、例えば『実家から通う』とかエクスキューズがあれば『まあ、あそこのお嬢さんはおてんばだから』みたいな感覚で大目に見てもらえる、というと実感がわくでしょうか。
それに対して、『横の多様性』グループが意識できる多様性にも偏りがあるように感じます。シンプルに言えば『貧困層』『ジェンダーマイノリティ』『難民・途上国の方』など、『トピックとして上がりやすい弱者』は、可視化されるの、見えやすいと言うことになります。
『横の多様性』グループの視野に入っている世界を図にするとこうなります。
ご覧の通り、真ん中がすぽっと抜け落ちます。確かに、貧困層やジェンダーマイノリティの方など、社会福祉の枠組みでは決して無視してはいけないですし、社会全体として視野を配り、福祉の手を行き届かせなくてはいけないと思います。
しかし、『分断』を理解するには、『多数派』『普通の人』にこそ目を向ける必要があります。そして、それぞれの多様性を重ね合わせるとこうなります。
これが、分断の構造です。『分断』の解消には、青色ゾーンの人は青の幅を広げていくこと。
そして、黄土色ゾーンの人、多くは都会に住むリベラル志向の強い人たちが分断を理解するには、『目立つ弱者』ではなく、この青の面積の大きい『普通の人』のところをイメージできるか。
例えば、
みたいなストーリーが、自分の交友関係の中において、リアルに手中に入るかどうかということでしょう。
『リベラルの敵はリベラルにあり』の著者倉持麟太郎氏は、書中で
と、指摘していますが、まさに『弱くない普通の集団』を意識できるかどうかが、『分断解消』の鍵となるでしょう。
知らない世界を意識し始めた人たち
さて、この分断に意識を持ち気づいている人も、出始めています。むしろ、多くの人がそうではないでしょうかとおもいますが、ここでは、noteを2つほど紹介します。
一つは帰国子女のみゃびぽけさんのnote
もう1つは近未来予想図編集部さんのnoteです。
なぜ分断が起きるのか
では、この重なりあわなさが『分断』にまでなってしまうのはなぜでしょうか。
そのヒントが徐東輝(とんふぃ)さんのnoteに書いてあります。
もう、ここに書いてあることがすべてで、お察しの通りですが、分断というのは、『多様性が重ならない』ことで、3ホップの範囲に相手が入ってこないため、互いに共感や想像力が働かない、ことなわけです。
都市と地方の人間関係的距離が離れすぎて、3ホップでは交わらなくなってしまった(元々交わっていなかったのかもしれませんが)。そして、概ね都市はリベラル志向、地方は保守志向が強いので、リベラルと保守が大きく引き裂かれる『分断』になっている。
であれば、『分断』を解決して行くには、『日頃の人間関係の3ホップの中に、意識的に分断相手を取り入れる』ということが解として見えてきそうです。
分断を解消するためのアートの力
『3ステップ』の中に『横の多様性文化圏』も『縦の多様性文化圏』も、両方を入れていくためにどうすればいいか。
その解決策を、 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんが述べています。
と、『横の多様性』の裏にある世界の狭さを指摘し、
横ではなく、縦への関心の必要性を説かれています。
そして、
その解決策を、芸術の立場から述べられています。
では、その主体者になるのは誰か。
私は、『横の多様性の世界』も『縦の多様性の世界』も両方が分かっている人が、これからの社会の分断解決においてでキーを握ると思います
つまり、この二つの色が重なったところにいる人。
『横の多様性の世界』も『縦の多様性の世界』の両方に属するような経歴を持ち、それぞれの様子をリアリティーを持って把握できて、そして、互いの状況をそれぞれに分かるように言語化することができる人。
このゾーンの人が、政治・言論の場であったり、経済・企業活動の場であったり、あるいは芸術の場であったり、そういった場において、両方の社会をつなぐ動きを、リーダーシップを持って意識的にできるかどうか。
そこに、これからの社会が『分断』になるのか『融和』になるのかがかかっていると思います。
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