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レモンの木 給食のにおい

レモンの木

実家には祖父母が世話をしていた畑がある。今は母が面倒を見ていると思う。
10年以上前の四月か五月のある日。地元で毎年開かれる植木祭りで、祖母がレモンの木を買ってくれた。何かのプレゼントという名目だった。
わたしはレモンが好きで、すいかが嫌いな子供だった。というか今となっては考えられないが食に興味がなく(小さい頃なら当たり前か)、好きな食べ物があまりなかったのだと思う。強いて言うならという感じでレモンが好きだったのだろうし、好きとはいえそんなに量を食べられるわけでもなかったはずだ。もしかしたら、レモンが好き、と言うと珍しがってくれる大人たちの反応が嬉しかったのかもしれない。
そういうわけで、畑の一番奥にはレモンの木が植えられた。そこに成るレモンはすべてわたしのものだった。最初はよかった。数個しか成らないので、大事に食べた。
数年後、それはもうたわわに、レモンが実るようになった。
しかし、その頃にはもう自我が目覚め、好きな食べ物は大学芋であり、さっぱり派ではなくこってり派だった。まかり間違ってもレモンが好き、と言う少女はいなくなっていた。さらに悪いことに、これは誤算というか、わかっていたことだが、うちにレモンを食べる人はわたし以外にはいなかった。
レモンを食べてくれるのでしょうという期待の目が、レモンのまぶしく、みずみずしい光が、レモンを育てた畑が、わたしを見つめた。わたしはレモンの木を直視することができなかった。冷静に考えれば、レモンの木なんていらないのだ。必要なときに一個あればいい。いくら好きとはいえ、皮をむいて一房ひとふさ食べるようなものではない。
今、そのレモンの木が近くにあったら、友だちになりたい。
休みの日には葉の緑と、レモンの実のまぶしさを見つめたい。
小さい頃、わたしにはわたしのためのレモンの木があった。

給食のにおい

小学校なら12:20、中学校なら12:35のチャイム。時計の針の形で覚えている。
最近、向田邦子さんのエッセイを読んでいて、幼い頃の描写がすごく鮮明で驚いた。そんなこと覚えているのか、わたしにも書けるだろうかと思い、ふと書いてみようと思ったのが給食のことである。
給食で一番好きなのは焼きそばだった。ちくわが入っていた。食い意地を張っていると思われたくなくておかわりはできなかったので、最初から少しでも多く盛られているのを選んだ。それにしても、焼きそばは必ずコッペパンのような物と一緒に出てきたが、あまりに炭水化物過多なメニューではないだろうか。それはまあいい。では当時の自分に問うが、なぜ焼きそばパンにして食べなかったのか。わたしはそういう美味しい楽しみをしなかった。細長いのを半分に切れ込みを入れて、そこに焼きそばを挟んで食べなさい。わかったかい。そして、必ずと言って良いほどそのメニューの日は杏仁豆腐が出てきたね。それを焼きそばの青のりがついたスプーンで掬うのが嫌だったでしょう。そういうのは、今でも、嫌です。そして、牛乳は冷たいうちに飲むと味が誤魔化せるから、最初に一気飲みするのを9年間続けたね。牛乳は、今も、嫌いです。
給食当番が好きだった。待ち遠しかったと言ってもいい。気になる男の子が他のクラスにいた時は、その子と被ったりしないかなと期待していた。エプロンを着て廊下を歩くとなんだか特別感があった。給食当番のエプロンは、その週の当番の人数分あって、週末になると各自持って帰って洗濯してもらう。わたしの家庭では当時柔軟剤を使っていなかったので、洗濯物は太陽の匂いがした。小さい頃はそれが嫌で、枕やパジャマを予告なしに洗濯されると怒ったものだ。給食当番のエプロンは、前使った人の家の、柔軟剤のいい匂いがした。清潔感のある、甘美なにおいだった。
毎日食べていたはずの給食の記憶はあまりないが、それを飛び越えて、小学校に入学する前にお母さんと見たNHKの番組で給食づくりの様子が紹介されていたのを覚えている。しかも、これは捏造と言われても仕方ないのだが、この記憶はにおいつきで、実際にその給食センターのにおいを思い出せるのだ。小学生になると毎日こんな給食を食べるのか、とキラキラと思い描いたのが、その実感はなんとなく通り過ぎ、もう一生給食を食べないことだけ確実になって10年近く経つ。
もう一つ。給食のワゴンと一緒に、ヤカンを持っていた気がするが、これはいつの記憶か。ヤカンのお茶は何に注いで飲んでいたのか。いや、書きながら蘇ってきた。ヤカンのお茶は毎日のように残り、けれど空にして返さなければならなかったので、廊下の水道に捨てた記憶。

意外と思い出せるものだ。しかし最も致命的なのは、こういうしょうもないことのこまごまを、思い出話として語り合えるような人とは、もう誰とも連絡を取っていないこと。


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