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日本のシャープペンシルの歴史5(震災の影響)

はじめに

前回は日本でシャープペンシルがブームになった、大正10年頃の事を紹介しました。アメリカから輸入されたエバーシャープペンシルに似たシャープペンシルを、様々な日本のメーカーが製造し始め、一大ブームとなりました。今回はその後、更にシャープペンシルが広まっていく中で、製造メーカーが多くあった東京で起きた関東大震災により、どのような影響がもたらされたかを紹介していきたいと思います。

関東大震災前後

1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こり、東京にあったシャープペンシル製造メーカーは大打撃を受けました。震災後に発刊された「日本文具新聞」9月25日号には各社の震災御見舞広告や、文具業者の安否や仮営業場所の情報が掲載されていました。

1923年(大正12年)9月25日の「日本文具新聞」に掲載された【早川兄弟商会】の御見舞広告

日本文具新聞に広告を掲載しているメーカーを、震災前後で比較すると、震災後には製品の広告を出していないメーカーが数社ありました。アルスシャープペンシル(三田大佐製作所)、ウォントシャープ(明工社)、オーステンシャープ(古川製作所)、ジルコンシャープペンシル(手島製作所)、機関筆(機関筆総本舗)、エバーレデーシャープ萬年鉛筆(早川兄弟商会)など古いメーカーから、去年広告を出し始めた新しいメーカまで様々です。多くは東京の東側に工場があったメーカーになります。

エバーレデーシャープ萬年鉛筆

関東大震災で被災したシャープペンシルメーカーには、エバーレデーシャープ萬年鉛筆の製造元である【早川兄弟商会】もありました。後のシャープ株式会社の創業者となるの早川徳次と、その兄 早川政治の二人で経営していた【早川兄弟商会】は、震災で工場が焼け落ちてしまい、関東地区で販売委託していた日本文具製造株式会社から、特約販売の解消及び契約金と融資金の返済要求があったため、会社を解散し、事業を日本文具製造に譲渡することになりました。
早川徳次は技術移転のため、大阪に移り、日本文具製造で技術指導を行った後、そのまま大阪で再起を図り、早川金属工業研究所を設立しました。そこでラジオの開発に成功し製品化、シャープ株式会社の礎を築きました。
兄の早川政治は東京であらためて【早川商事合名社】を設立し、文具関係の販売を続けていました。昭和4年の「全国文具界大観 仕入編」には、”エバーレデー「コンビネーション」シャープ両用萬年筆”などが掲載されていました。また、弟の徳次が設立した早川金属工業研究所とも関わりがあったことがわかります。

1929年(昭和4年)の「全国文具界大観 仕入編」に掲載された【早川商事合名会社】の広告

技術を譲渡された日本文具製造株式会社は、1924年(大正13年)に社名をプラトン文具株式会社に社名変更しました。1929年(昭和4年)頃までは金属製のプラトンシャープ鉛筆を製造していたようです。しかし、それ以降はシャープペンシルの広告はあまり見られないようになりました。会社自体は1946年(昭和21年)プラトン株式会社に社名を変更し、1954年(昭和29年)まで続いていました。

1929年(昭和4年)の「全国文具界大観 仕入編」に掲載された【プラトン文具株式会社】の広告

このように"エバーレデーシャープ萬年鉛筆"は関東大震災により、失われてしまうことになりました。もし、震災がなかったらシャープペンシルの新作を出し続けていて、シャープペンシル業界、ひいては文具業界の勢力図も変わっていたかもしれません。その分、日本の電機業界は数年、技術の遅れをとることになったかと思います。

おわりに

今回は大正時代にシャープペンシルのブームが来て、いざ広まっていこうとした時に、震災があり出鼻をくじかれた形となってしまった事を紹介しました。しかし、この震災に耐えたシャープペンシルメーカーもありました。次回以降はこの震災を乗り越えたメーカーの発展や、日本独自の技術技術の進化を紹介していきたいと思います。

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