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否定するということ|「ということ。」第24回

近頃、大変うんざりしていることがある。他人、とりわけ私のことをよく知りもしない年配に、否定されることだ。「葉さん、海外行ったことないでしょう」だとか「葉さんが分かっていないだけで、これは普通だよ」だとか。ああ、もう、心底うんざりする。はたして、人は歳をとれば勝手にものを知り、えらくなれる生き物だっただろうか。

我が家では、「罪を悪んで人を悪まず」の教えだった。これは、単に人の言動における善悪の話ではなく、「いっこの出来事で人を勝手に分別するな」ということ。この人はああだとか、あの人はこうだとか、側面どころかたった一点を見ただけで、その人そのものを分かった気になるなということ。

この教えのせいかおかげか、私は人やものを否定するのが苦手だし、しない。とても言い切れないからだ。ただし、元来ものをはっきり言わないと気が済まない質でもあるので、そういう時は「君のその行動一点、それだけはだめだと思う」と言う。その行動、その一点。あくまで私のものさしでは、それは悪だと。

そりゃあ、みんながみんな、お綺麗に育つわけでもないので(仕方ないか)。私自身、比較的すれず逞しく育った自覚はある。それが周囲のおかげであり、私は生まれつき運が良いことも分かっている。私の言うことは、誰かにとってはお花畑の綺麗事に聞こえるそうだ。実際、そうかもねとも思う。

けれど、よく考えもせずものを否定する奴ら、「何かを否定した瞬間、まるで自分が正しく映ってしまう」ということをちゃんと分かっておけよ、と思う。否定する時は、それ相応の責任を持てよ。万人が頷く正誤を持たないことごとに、正解ぶって大きな声を出すなよ。ましてや、自分を正しく見せるために、わざわざ人を否定するなよ。小賢しい真似をするぐらいなら、否定せずに自分は正しいと周りに分からせる、スマートなやり方を身につけなよ。(自戒の念を込めて)


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