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大学生のレポート:歴史(帝国主義、東方問題、朝鮮戦争、奴隷制度、アメリカ独立、公民権運動)

2020年7月6日 月曜日
2020年8月4日 火曜日 

今回はタイトル通り、歴史を薄く広くカバーする内容です。毎回恒例、大学生のレポートシリーズです!では早速内容に入ります!



帝国主義

レーニンの「帝国主義論」で挙げられている【ヨーロッパ列強の八カ国(イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・イタリア・ロシア・アメリカ・日本)】が【アジア、アフリカ、中近東、太平洋諸島】を対象として対外膨張および植民地・勢力圏獲得を行ったこと。

帝国主義
19世紀後半から20世紀前半にかけて、欧米諸国がとった領土や市場の拡大政策を指す言葉。軍事侵攻だけでなく、経済力や技術力などの優位性を背景に、他国を支配することも含まれる。一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、強大な国家をつくろうとする運動・思想・政策

1877年にイギリスがインドを完全に植民地化した時代から、日本が朝鮮半島や台湾を植民地化した時代までをも包括している。

帝国主義の背景には、①政治的、②経済的、③文化的背景がある。

① 政治的背景
普仏戦争で負けたフランスが威信回復のために海外での植民地獲得に乗り出した。ロシアは不凍港が欲しかった。また、各国内で勃発した階級闘争の捌け口として植民地が必要だった。

【普仏戦争】(1870〜1871年)
ドイツ統一をめざすプロイセンと、これを阻もうとするフランスとの間で行われた戦争。 スペイン王位継承問題をきっかけに、プロイセンの挑発に乗ったフランス側から開戦したが、プロイセンが圧勝、統一を完成してドイツ帝国の成立を宣言した。

②経済的背景
新しい「投資先」としての植民地が注目された。そして、列強国で起こった第二次産業革命により重化学工業が発展したため、石油、ゴム、鉛などの天然資源が必要になった。それらを安く手に入れるため、安価な労働力を使用して植民地から自国へ調達する方法が取られた。列強国での余剰生産物を処理する市場としても植民地は利用された。

③文化的背景
ダーウィンの「進化論」が悪用された。白人は進んだ人種であり、有色人種に優越するという思想から、彼らを啓蒙していくことが必要だと信じられた。その啓蒙・文明化のために、植民地化して統制することが正義だとされた。「本来の目的」である資源の獲得などに付随して、現地のインフラ整備などが行われただけで、「文明化」は真の目的ではなかった。

これらの①〜③の背景から植民地化が進み、世界の陸地の半分以上が列強によって牛耳られた。列強と植民地の間の搾取の関係が領土分割を通して確立されていった。そして列強間での植民地争いも過激化したことで第一次世界大戦の火種ともなった。

ダーウィンの進化論

生物が変化を続けており、その結果、生き残って多くの子どもを残す上で有利な形質を持つ個体が、不利な形質を持つ個体を押しのけて世の中のメジャーとなり、最終的に不利な形質を持つ個体が滅ぶという理論。

ダーウィンは、生物の種は本来多産性を原則とし、そのために起こる生存競争のため、環境によりよく適応したものが子孫を残して、その変異を伝える確率が高くなるという「自然淘汰説」を樹立しました。

ダーウィンは「種の起源」という著書の中で「最も強いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残る」という言葉を残しています。

東方問題


ヨーロッパ内での帝国主義の衝突を意味する。当時の列強の戦略上、バルカン半島は何としても手に入れたいエリアだった。アフリカやインド方面への植民地政策を進める上で、地理的に鍵となっていた。

この一帯で力を持っていたオスマン帝国の権力が衰退したタイミングで、ロシアは黒海を凍らない港として手に入れるため、南下政策を進めた。

しかし、バルカン半島はもちろん英仏にとっても重要な土地であった。だから、クリミア戦争でロシアがオスマン帝国に勝利して、バルカン半島を手に入れられることを懸念していた。英仏はオスマン帝国側について連合軍として戦い、勝利を収めた。

その後、敗戦したロシアは体制を立て直した。「同じスラブ系を独立させる」という口実で露土戦争を仕掛けた。

露土戦争(1877年4月24日 – 1878年3月3日)
ロシア・トルコ戦争。18~19世紀を通じて,ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。 不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。

ロシアはオスマン帝国に勝利して、ブルガリアを保護国にし、ルーマニア・セルビア・モンテネグロを独立させた。しかし間もなく英仏がから目を付けられて、ベルリン条約で獲得領土は大幅に削減された。

ベルリン条約
1877年の露土戦争の結果締結されたサンステファノ条約 (1878.3.) によるロシアのバルカン進出を恐れたイギリス,オーストリア,ハンガリーの要求で,ドイツが仲介に入り,オスマン帝国とロシアの間で締結された。 (78.7.) 

決められた内容
・モンテネグロ,セルビア,ルーマニアの独立
・ボスニア・ヘルツェゴビナのオーストリアへの併合
・ブルガリアの自治

ロシアの南下政策は阻止され、イギリスとドイツの東方進出への足場がつくられた。

朝鮮戦争

第二次世界大戦終戦から間もない1950年に始まった。基本的な構造としては、「北朝鮮(ソ連の後ろ盾)と韓国(アメリカの後ろ盾)の戦争」だ。戦争開始時は北朝鮮が優勢だった。ソ連による急襲でソウルは陥落して焼け野原となった。それをきっかけに国連軍にマッカーサーが投入された。元の38度線まで押し戻すだけでは飽き足らず、更に北へ攻めた。再び北朝鮮側が不利になった時期に中国人民義勇軍が参戦した。

そこでアメリカは日本を参戦させたかったが、絶対的平和主義のせいでそう簡単に兵力を動員することは出来なかった。だから、警察予備隊を作った。これは後に保安隊となり、自衛隊へと姿を変える。

この戦争では民間の犠牲者が多く出た。非常に激しい戦争だったため、軍需品生産を請け負っていた日本には朝鮮特需が訪れた。朝鮮半島が苦しい状況の中、日本は経済成長を果たした。

戦争の勢いは収まらず甚大な被害が続き、米トルーマンが休戦を提案した。しかし当初ソ連も中国もそれには反対したが、スターリンの死去をきっかけとして一気に休戦へと傾いていった。

当時は終わりの見えない状況から、原爆の使用も検討されていた。日本の原爆投下時と違ってソ連も核を持っていたから相互確証破壊となってしまう危険性があったため核の選択肢は免れた。そして、1953年、休戦協定が結ばれた。未だに休戦中だ。

公民権運動の経緯とその結果

公民権運動に繋がる黒人奴隷制度の歴史を遡れば、16世紀後半から盛んになったイギリスから清教徒が渡ってきた時期に行きつく。(欧州とアフリカ間での奴隷貿易は15世紀にもうすでに始まっていたが。)

イギリスの植民地だったアメリカへの入植が進められていった。ネイティブアメリカンの土地が奪われていった。当初は奴隷化への強い反発があり、ヨーロッパの貧しい移民に移動費を貸し、その返済のために数年間働かせるというやり方が取られた。

しかし、綿花やタバコなどの大規模生産のために、西洋の船がアメリカ東部にアフリカ人奴隷を連れてきた。格安で手に入る労働力として重宝された。無理に奴隷船に詰め込まれて運ばれ、鎖に繋がれたまま食べ物もろくに与えられず目的地に到着する前に死者が多数出ていた。だが、残酷な奴隷制度は続けられ、米南部では黒人の人口増加が著しかった。

白人上流階級は「黒人が団結することへの危機感」を覚え始めた。そこで、「白人が黒人を支配する構図を推し進めるための差別」が進められた。

1776年に、アメリカはイギリスから独立したため北部では徐々に奴隷制廃止が進められた。しかし、南部を含めた全体としては1865年まで奴隷制が続いた。

アメリカ独立
1776年にイギリスから独立。1775年4月に始まったアメリカ植民地のイギリスからの独立の戦いは、フランスの支援などもあり、1783年のパリ条約で独立が承認された。1776年7月2日、第二次大陸会議においてアメリカ独立宣言が批准された。7月4日には独立宣言が承認。英国とのつながりを正式に断ち切って、新たな独立国家、アメリカ合衆国を形成した。1776年7月8日には、独立宣言が初めて公に読み上げられ、市民はこれを祝った。独立宣言では、革命権が盛り込まれたほか、すべての人が平等であること、生命・自由・幸福を追求する権利を与えられていることなどが謳われた。

1760年以降、イギリスは産業革命を迎え、蒸気機関で効率的に綿織物を作れるようになった。これをきっかけとした綿花栽培拡大に伴い、黒人奴隷の使用も増えた。農業中心の南部では特に、奴隷制度が経済を支えていた。

1861~65年の南北戦争では、北軍が勝利して奴隷解放が名目上行われた。この時点での奴隷解放はあくまでも北軍の戦略的なもので、「南部の戦闘員を黒人奴隷が支えるという仕組み」を打倒しようとしたものだった。

事実上の奴隷解放宣言が行われたものの、黒人差別を大前提とした社会構造はそう簡単には覆らなかった。経済構造上、他に行き場が無い黒人奴隷は、引き続き農家で低賃金労働を続けることになった。表面的な平等を謳う制度が維持されて、黒人が白人に利用される構図が続いた。

1875年の公民権法で平等な扱いが連邦により規定されたが、これも本質的な人種差別を志したものではなかった。

1896年には「分離すれども平等」を掲げるジムクロウ法が制定され、あらゆるものを白人と非白人用で区別する人種隔離が行われた。米最高裁判所も「隔離しても平等ならば差別ではない」というスタンスを取っていた。社会全体で、黒人差別は当たり前のように行われてきた。

この一連の流れから、公民権運動が始まった。キング牧師をはじめとし、様々な活動の成果として、1964年には法的な平等を認める公民権法が実現された。不条理な黒人差別に対してやっと最高裁は違憲判決を出すようになった。奴隷制、人種隔離の歴史から法の下の平等を獲得するという快挙が成し遂げられた。

アフリカ系アメリカ人公民権運動
1950年代後半〜60年代前半に活発となったアメリカの黒人の基本的人権を要求する運動。 キング牧師らが努力した非暴力による運動が広範な支持を集め、ケネディ大統領が公民権法制定を準備し、その暗殺後の1964年に公民権法が成立、さらに翌65年に選挙権法が制定され、選挙権の平等などが実現した。

黒人国務長官、大統領の誕生もあり、確実に状況はいい方向に向かっている。しかし、BLMで見られるような白人警官による黒人の殺人は横行している。社会構造的に黒人が不利益を被る現実は未だ顕著だ。本質的平等を勝ち取れていないのが現状だ。

講義で一番記憶に残った点・学んだ点

ステレオタイプの危険性を思い知った。人間が信じ込んでいる事の脆さに気づけた。これが、この近現代史を通しての一貫したメッセージだったと感じる。

作り上げられた「ユダヤ人」、戦時中のプロパガンダ、日本のナショナリズム、アラブナショナリズム、そして今回の公民権運動等、どれをとっても「洗脳」的な要素を感じた。

先生の質疑応答での言葉を借りるとすれば「当たり前のように」不条理で、なんの理論的整合性もない事を人々に強制してきた歴史は数えきれない。

今自分が「こういうもんだろ」と思っている事でも、信じ込んでしまってはいけない。自分が育ってきた環境では普通だと信じ続けてきたことでも、違った環境で育ってきた人からすれば「自分の常識」「非常識」かもしれない。ウォルター・リップマンの言うように、人が情報を取り込む際の「フィルター(ステレオタイプ)」のせいで世論は歪んでいる。

だからこそ、物事を常に批判的に見る必要がある。世の中の歴史をはじめとする様々な事柄はそう簡単に理解できるものではない。一つを理解するのにも数えきれないほどの要素が関係しているから、時間をかけた調査と思考が必要だ。

今は一昔前からは少し進歩して、黒人差別を不条理で理解不能なもの、として扱えるようになりつつある。だが、今自分たちにとって当たり前となっている事は、将来はおかしい事として扱われるのかもしれない。LGBTQの問題がわかりやすいが、今現在も世界は倫理道徳、そして正義観に基づいてよりよい姿を目指している。

その方法は、大きい範囲で言えば国際法だし、小さい範囲で言えば個人のあげる声だ。だから、現状をよりよくしていくためにも正しく学んで発信していく事が必要だと感じた。(綺麗ごとみたいになってしまいましたが、本当にそうだと思います。)

だが、この学んで発信するという行為を出来ることも「当たり前」ではない。日本という生活環境に恵まれた国の、大学に通わせてもらえるような家庭に生まれた自分が今享受している「ある種の特権」に感謝しつつ、その権利をいい方向に向かうために使っていく必要がある。


最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。