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「子育て」の目的は、子供の可能性を邪魔しないこと。

うちには小学校低学年の娘がいる。
最近ますます可愛い。

娘がまだ小さくて上手にお話も出来なかった頃、周りからは「子供が可愛いと思うのは今のうちだけ。そのうち色々なこと言い出して、すぐに生意気になるから!」なんてよく言われた。まあ、そんなこと言ってる人に限っていかにも子供好きそうな雰囲気を漂わせたりしてるものだか、娘が小学生になった今も生意気だなんて一度も思ったことがない。

満面の笑顔で無邪気にはしゃぎまわる娘を見て、遠慮なく自由にいたずらをしてくる娘を見て、運動が大好きな娘が新しく出来るようになった体操技を自慢げに見せてくる様子を見て、

そのまま育ってくれたら、
それだけでいい、

そんな思いに駆られる。

可能性のままに育ってくれたら。

歳を重ねても自分が可能性の塊だってことを忘れることなく育ってくれたらって。


「しつけ」のこと

たまに公園などで、横で見ているこちらが引くぐらいの勢いで小さな子供を叱りつけている親がいる。もちろん子育ては各家庭の考え方、価値観そのものだし正解はないとは思うけれど、たとえ何があったとしても、そこまで強く子供を叱りつけなきゃいけない場面なんてあるんだろうかと思う。

しつけが、社会のルールや「して良いことと良くないこと」を子供に分かってもらうのが目的なのであれば、まずは子供の言いたいことやしたかったことを聞いてあげるのが先な気がする。親の言いたいことを聞いてもらいたいのであれば、子供の気持ちをしっかりと横で観察してあげるのが先だと思っている。

親の言うことを言い聞かせることが、
しつけの目的ではないと思う。

親の言うことをきっちりと守れる子供にする、それがしつけの目的ではないと思う。

社会のルールを伝えてあげることがしつけの目的なのであって、親が叱り飛ばした後すぐに親の言うとおりに動く子供というのは、逆に心配になってしまう。何か自分の気持ちを押し殺して無理してるんじゃないかと思って心配になる。この子はちゃんと自分の気持ちを表現してるんだろうか、と不安になる。

別に親の言うことなんて守れなくてもいい。

むしろ、親の言うことなんて聞かなくていいとさえ思っている。

そもそも、何でもかんでも親の言うことを素直に守れる完璧な子供になんてなって欲しくない。そんな子がもしいたら、そんなの不自然だ。どっかで無理してるだけだ。

子供はみんな例外なく天才だと思う。

可能性の塊だと思う。

だから、親が真剣な顔で伝えようとしていることぐらい、子供は瞬時に理解してると思っている。それだけで十分。

その通りに行動できないのは仕方ない。
子供なんだから。

子供なんだから仕方ない。
ただそれだけのこと。


「子育て」の目的

子供の面倒を見ていて、大切なことを教えられるのはいつも親のほう。

だから「子育て」という言葉自体がおこがましいとは思うけれど、世間一般の「子育て」というものに目的があるとしたら、それは「しつけ」ではないと思う。

間違っても「親の言うことを聞くという意味での『素直な良い子』を育てること」ではない。そんなの子供からしたら親の勝手だし、親の欲求を圧倒的な力関係で突きつけられているだけだ。

親の威厳を見せる。親に従わせる。
そんな必要は全くないと思うし、むしろ、そんな価値観は子供にとっては有害でさえあると思う。

子供を育てることに意義があるのは、歳を重ねたいい大人が、まだ人生始まって数年しか経っていない存在から、人生の真理とも呼べる大切なことを沢山学べることだと思う。

あの子供のピカピカの純粋さや巨大な可能性の塊は、「普通に」これまでの人生を過ごしてきた大人が損ない続けてきたもの。

「社会性」なんてノド越しのいい言葉を身に付けるうちに、自分の大好きさえも素直に表現できなくなる。そんな重大な矛盾を教えてくれる。

だから、「子育て」に目的があるのだとしたら、大切なことを教えてくれる子供の可能性をできるだけ邪魔しないこと

それに尽きる。

そもそも、「子育て」なんて立派なことぼくには出来ない。この歳になってもぼくは全然立派な人間じゃない。そんな未熟なぼくに出来ることは、娘の楽しそうな顔を1秒でも多く見てられるようにひたすら一緒に遊んであげること。

そして、ぼくの楽しそうな姿をそばで見せてあげること。それだけだ。

立派じゃないぼくが娘に出来ること。

温かく辛抱強く見守り続けること。
娘の気持ちを感じ続けること。

そして、

その可能性を邪魔しないこと。

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