佐藤夜々子

切り取って、貼り付け

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透明人間

法律事務所に就職を決めたのは、この地獄が、どれくらいの罪に値するのかを知りたいと思ったからだった。 「生きていくうえで身を守るための知識を身につけたい」というのも嘘ではなかったけれど、それは私を腫れ物のように扱う両親への建前であって、8割方は単なる復讐心だったと思う。 精神的に追い詰められた人々から毎日かかってくる電話に、私はいつでも親身になって話を聞いた。 元々、人の顔色を窺ったり、相手の弱った心に寄り添うことは苦ではない。 私の場合、綺麗事でなく心の底から相手に同情

    • 無造作紳士 ーL’aquoiboniste-

      「神様、どうか助けてください」 物心ついたころから、わたしが朝起きて一番にすることといえば、繰り返し繰り返し、頭の中でこう唱えることだった。 パパとママが死んだすぐ後は、まだよかった。 叔父と叔母は優しかったし、家は前よりも広くなった。 でもしばらくすると、わたしがリビングにいる間、2人はまるでそこに誰もいないかのように振る舞うようになった。 子供の頃一番いやだったのが、授業やら病気やらで、どうしても必要なお金を叔母にせがまなければいけないことだった。 当時、わたしに

      • 少年期

        時間は絶対に戻らない。 どれだけ漫画や映画の設定に想いを馳せても、当時の思い出を手に「もし時間をこの時点に戻せるなら」と空想にふけろうとも、だ。 少なくとも僕は、今まで時間を戻せたことはないし、また実際に戻せたという話を聞いたこともない。 時間は、絶対に、戻らない。 時の流れというものはあくまで一方通行であり、残酷なほど平等で、 何かを失くしたからといって取りに戻ることも、忘れてしまった記憶を確かめに行くことも叶わない。 けれども子供の頃の僕は、本気で願いさえすれ

        • Décolleté

          悩ましげな吐息が、耳鳴りのように充満している。 私は日がな一日、眠り続ける彼女をただ眺めていた。 ぴくりとも動かないその寝顔に飽きると、自分の身なりを整えるなどして時間を潰す。 どれだけ必死にいじくったところで、鏡に映るのはしょぼくれた醜い老人の姿でしかなく、整髪料で無理に撫で付けた髪の流れは、ひどく滑稽に見えた。 彼女の胸が上下にちゃんと動くのを確認しながら、私は黒く艶やかな髪を恐る恐るすくってみた。 それは絹糸のようにするすると指から滑り落ち、彼女の白く豊かな胸元には

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          ヴィラン

          子供の頃、嫌いな女の子がいた。 クラスでもやや孤立気味の彼女は、人との適切な距離感を保つことが苦手で、 とりわけ、相手にとって冗談の通じるラインを見極めることが壊滅的に下手だった。 私は趣味が似ていたこともあり、本籍のグループこそ違えど、表面上それなりに仲良くしていたと思う。 そこまでくだけた関係性とはいえなかったけれど。 しかし初めはぎこちなかった彼女の態度も日を追うごとに馴れ馴れしくなり、 最終的には、教室の黒板に、私と私の仲の良かった男子との相合傘を書き晒すまでに

          シラノ・ド・ベルジュラックの聖域

          おはようございます。 こちら2952年、10月2日のトーキョーです。 聞こえますか? 調子はどうですか? 幸せにはなりましたか? *********** 聴き慣れたような、聴き慣れていないような、嫌な目覚まし音で目を覚ました。 再起動は滞りなく済んだようだ。 僕はベッド脇のスツールに置いてあったマグカップを手にとり、匂いをかいだ。 プンと深いコーヒーの香りが鼻をくすぐる。 そんなに前のものではないはずだ。昨夜の僕が、今日の僕のために用意しておいたのかもしれない。

          シラノ・ド・ベルジュラックの聖域

          今宵、月が見えずとも

          タバコの先に火を灯し、家に持ち帰った仕事に手をつけようとベッドの上でMacを開く。 デザイン性に惹かれて買った、ガラス製の椅子はどうにも座り心地が悪い。 三畳一間のぼろアパートに住んでいた学生時代であれば、どんな環境だろうとそれなりに快適に過ごせたものだが、随分とこの身体は贅沢を覚えてしまった。 あの頃は頑として酒を飲まない主義だったし、ギャンブルなんか毛嫌いしていたし、 最新のメーカーで煎れたばかりのこのコーヒーだって、昔なら苦くて飲めやしなかったはずなのに。 部屋の中

          今宵、月が見えずとも

          ビスケット

          「ーーさんは、そういうとこずるいですよね」 午前4時。確か、そう、あれは確か下北沢の、名前も知らない公園の広場だった。 何の下心もなく、ただ夜を恐れていた私は、もう少し誰かといたくって終電に気づかないフリをした。 私が都心から遠く離れた家に住んでいることは承知の上、彼の方は、しきりに時間を気にかけていたのを覚えている。 付き合わせてしまって悪かったかな、と少し冷めた気持ちで、ベンチに二人並んで座った。 取り留めのない仕事の噂話。 私にいじわるな先輩の愚痴。 彼にいつも

          ビスケット

          欠陥製品

          あの祖父の部屋のことは、子供の頃から今に至るまで、頻繁に夢に見ている。 少女時代の私にとって、彼の部屋はまるで宝物庫だった。 古く朽ちかけた山程の洋書、 若い頃に外国で買い漁ったという懐中時計や葉巻の数々、 私の家にはなかった古いドット絵のファミリーコンピュータ、 分厚い望遠レンズの付いたずっしりと重いカメラも、 全てが独特の空気を纏い、何故かいつも西陽を受けたイメージで、魅力的で。 特に、祖父のネクタイピンがずらりと敷き詰められた重厚な宝石箱が、私のお気に入りだった。

          CANDY

          真っ暗だ。 何も見えない。 気が遠くなりそうな程の閉塞感。 「ママ、おなかすいた」 「そうね、おなか、すいたね」 真っ暗だ。 何も、見えない。 腕の中に抱え込んだ温もりと、その僅かな息遣いだけが、ギリギリのところで自分の生を実感させてくれている。 「もう、ここ、いやだよ」 「ごめんね、もうちょっと、がまん、してね」 「もうちょっとって、いつ」 「もうちょっと、もうちょっとだから」 まだ幼い息子は、ひどい空腹のためだろう、それ以降また言葉を発さなくなった