見出し画像

ヴィラン




子供の頃、嫌いな女の子がいた。

クラスでもやや孤立気味の彼女は、人との適切な距離感を保つことが苦手で、
とりわけ、相手にとって冗談の通じるラインを見極めることが壊滅的に下手だった。

私は趣味が似ていたこともあり、本籍のグループこそ違えど、表面上それなりに仲良くしていたと思う。
そこまでくだけた関係性とはいえなかったけれど。


しかし初めはぎこちなかった彼女の態度も日を追うごとに馴れ馴れしくなり、
最終的には、教室の黒板に、私と私の仲の良かった男子との相合傘を書き晒すまでにエスカレートしていった。

これが彼女なりのコミュニケーションなのだろうと、頭では何となく理解していたのだが、
気がついたときには、私はもう、彼女の存在自体が不快そのものとなってしまっていた。


それから、私はあからさまに彼女と距離を置くようになった。
業務的な返事の必要性を感じない限り、彼女の言葉は聞こえないように振る舞った。

自分自身の名誉のために言っておきたいのだが、それは決して、報復のための無視などではなかった。
ただ私は、もう彼女の顔を見ることも声を聞くことも全てにおいて我慢がならず、
単純に彼女との関わり合いそのものを、その不快な存在を、自分の世界から排除したいと考えていた。

あれは多分、私が人生で初めて「人間関係を切った」瞬間だったと思う。



しばらく経って、さすがに様子がおかしいことを察したらしい彼女は、授業中、ノートを破りとったメモを私に回して寄越した。
そこには、ひどく拙い字でこう書かれていた。

「私のこと、嫌い?」


この時感じた吐き気がするほどの鬱陶しさと嫌悪感を、私は今でも忘れることができない。
私は観念し、正確な内容までは覚えていないが、友人関係を続けるつもりがない旨を裏面で簡潔に述べ、メモを後方の席へと戻した。
そして次の日には、この話はクラス中に広まった。


彼女は、他のクラスメイトたちにも同じような手紙を出していたらしい。
私が彼女を拒絶したのを皮切りに、皆が彼女を「切り」はじめた。
クラスメイトはそれぞれが、私よりも辛辣に、私よりも残酷に、私よりも無機質に、
彼女への嫌悪と拒否を紙切れに並べ、突き返していった。


彼女は、学校に来なくなった。
家まで赴いて話を聞いてきた担任によれば、彼女は、不登校の原因を私からのいじめだと話していたそうだ。

私は、自分で言うのもなんだけれど、当時それなりに発言権のあるキャラクターだった。
他のクラスメイトたちは私を擁護し、主張する顛末が皆一致していたこともあってか、私は咎められることはなく、親にさえ話もいかなかった。

彼女とはそれから一度も会うことはなかったが、
卒業後ずいぶんと経ってから、風の噂で、彼女が定時制の高校へ進むことになったと聞いた。




彼女にとって、私は間違いなくいじめっ子だったと思う。
たとえ積極的に害を加えなくとも、存在の強い人間からの存在否定は、悪意がないからこその悪質な暴力なのだ。
これについては、私も今は理解している。

にもかかわらず、私は反省するべき点を今でも見つけることができない。逆立ちしたって、罪悪感も出てこない。
それは決して「私は何も悪いことはしていない」という誇りだとか、一本筋の通った信念のようなものではなく、ただ理解したくとも理解が及ばないだけなのだ。

私にとってこの話は、「私のせいで学校に来れなくなった人間がいるらしい」という不名誉な一説の域を出なかった。
そして、そういう自分自身への初めての失望が、ただそれだけが、今でも私を苦しめている。



昔読んだ小説に、こんな一節があった。

「やった側は、幾らでも自分の行為に理由をつけて正当化することができる。
被害者のことを簡単に忘れてしまえる。
しかし、やられた側は一生忘れることはできない」

何となくではあるが、彼女はもう私の存在自体、覚えていない気がする。
ただ、私がそう思っている。

もう顔も名前も思い出せない彼女のことを、私はきっと、死ぬまで忘れはしないだろう。