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少年期



時間は絶対に戻らない。


どれだけ漫画や映画の設定に想いを馳せても、当時の思い出を手に「もし時間をこの時点に戻せるなら」と空想にふけろうとも、だ。

少なくとも僕は、今まで時間を戻せたことはないし、また実際に戻せたという話を聞いたこともない。


時間は、絶対に、戻らない。

時の流れというものはあくまで一方通行であり、残酷なほど平等で、

何かを失くしたからといって取りに戻ることも、忘れてしまった記憶を確かめに行くことも叶わない。


けれども子供の頃の僕は、本気で願いさえすれば叶わない望みはないと、いざという時は何事もどうにでもなるものだと、

心のどこかでこの世界を、物語の一部のように捉えていたような気がする。


最後には、必ずすべてが許されると信じていた。



******************


老舗といえば聞こえの良い、古びた店内には不釣り合いな大型液晶テレビの中、ニュースキャスターがどこかの国の戦況を淡々と報告している。

僕はカウンターに座り、先付けの白子を箸でちょびちょびとつまみながら、ぼんやりとその画面を眺めていた。

父と店主は今年のマグロの漁獲量について話し込み、母の方はまだ幼い妹の口元に付いたごはん粒を取ってやっている。

そういえば、今日はコハダの良いのが入ってますよ、と店主が言うと、

父は満足そうに顔をほころばせ、家族全員分のコハダを注文した。


テレビに目を戻すと、いつのまにかニュースは次の話題に切り替わっていた。今月の中高生の自殺率が過去最多となったことについて、コメンテーター達が論戦を交わしている。

父はそれを何気なく見やりながら、カウンター越しの店主に向かい「今の世の中は狂ってますね」と苦笑して見せた。

「いや、最近の子供がいったい何を考えているのか、僕には全くわからんもので。
 ケータイやらゲームやら、インターネットやら…贅沢に育ち過ぎてる」

「本当にねえ」

まな板から視線は逸らさず、軽やかな手つきでコハダに飾り包丁を入れながら、店主が答えた。

「今の若いもんは、何だって恵まれているでしょう。
 あたしらの子供のころには、家にテレビがひとつあるってだけで、学校ではヒーローになれたもんですがねえ」

そう言って笑うと、店主は目にも止まらない速さで切身とシャリとを握り合わせ、父、母、妹、僕の目の前へ、見事なコハダの鮨を次々と置いていった。

父はプックリと肥えた太い指でそれを摘みあげ、口に放り込んで咀嚼しながら「大将、旨いよ」と、世辞だか何だか分からないようなことを言った。

父が、母が、そして妹が次々とコハダを口に入れていくのを横目で見ながら、僕は1000円、2000円、3000円と数えていた。

店主が「坊ちゃん、光物は苦手かい」と僕に声をかけたので、父と母、妹、味噌汁を運んできた女将まで、皆が僕をじっと見つめた。

慌てて僕はニッコリ笑い、父に倣って目の前のコハダをそっと指でつまんで一口に頬張る。

磯の香りが口いっぱいに広がった。



背後で、玄関の引き戸が勢いよく開く音がした。

振り返るとそこには、ホームレスのようななりをした、ひどく小汚い男が息を切らして立っていた。
右手に、鈍く光る出刃包丁を携えている。

母が甲高い悲鳴をあげ、父は持っていた湯呑みを落とし、割れてこぼれた茶が石畳の床に薄く広がった。

僕も椅子から立ち上がり後退ったが、男は一目散にこちらめがけて走ってきた。
その瞳はどう見ても焦点が合っていないし、完全に血走っている。

あわやというところで父が僕の手を強く引っ張り、その反動で僕はカウンターの後方にあった座敷の畳に転がりこんだ。しかし男は僕には目もくれず、そのままカウンターを飛び越え、厨房の中へと乗り込んでいった。

何事かと顔を出してきた女将が小さく悲鳴をあげ、こちらからは見えない厨房の奥の方に引っ込んだ。店主も慌ててそれに続く。

男は二人を無視し、カウンター沿いにあった大型の冷蔵庫を見つけると、素早く扉を開けた。乱暴に中を漁り、奥からマグロの塊を見つけ出すや否や、男はそれをひっ掴んで引きずり出し、がぶりと食らいついた。

全員が呆然として見守る中、包丁をこちらに向けたまま、男はマグロを一心不乱に貪り続けた。
こんな状況でなければ、見ていて気持ちが良くなるほどの食べっぷりだ。

それはきっと、ほんの数秒の間のことだったと思うが、僕には、少なくとも僕にとっては、永遠にも感じられるほどの長い沈黙だった。



やがて我に返った父が、意を決したようにカウンターの向こうへ乗り込み、男に飛びついて覆い被さった。

男は驚いてマグロから手を離し、父の巨体から逃れようと、じたばた苦しそうにもがき始めた。母が再び悲鳴をあげる。

二人は、しばらくのあいだ揉み合っていた。

緊迫した空気の中、皆が二人の様子を固唾を呑んで見守っていたが、
僕は何故だか、ずっと流れ続けているニュースの音声が気になって仕方なかった。


ナイカクハジュウゴニチノアサ、ロウドウホウカイセイアンニカンスルアタラシイホウアンヲテイシュツシ、シュウギインハコレヲジュリシマシタ…


しばらくすると男はついに父を振り払い、息を切らしながら立ち上がった。父の方は倒れたままで、ニ、三度ほど奇妙に大きく痙攣したかと思うと、やがて動かなくなった。


その胸に、深くナイフが突き刺さっている。


母が3度目の悲鳴をあげた。

店主は女将に向かって何かを叫び、女将が慌てて誰かを呼びに行った。普段泣きじゃくってばかりの妹は、まだ何が起こったのかもよく分かっていないのだろう、歪んだ母親の顔と倒れている父親を交互に見比べた後、不安そうに僕の方へと擦り寄ってきた。

男は狼狽えながら、よろよろと玄関に向かって歩き、その途中チラリと僕に目をやった。

ほんの一瞬の間だが、僕らはお互いに目を合わせた。


男の瞳はらんらんとして、小さな炎を灯したように輝き潤み、

そしてその頬は、薄汚れた服装にそぐわず、触れたら心地良さそうなほど上気していた。

その時初めて僕は、男が思っていたよりもずっと若いのだということに気が付いた。



男はそのまま何も言わず、開いたままの引き戸から逃げていった。


ヒステリックに続く母の悲鳴と、店主の怒声を遠く聞きながら、

僕はもう一度、動かなくなった父を見た。


さっきまでまな板の上にいたコハダに似ている、と思った。