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ビスケット


「ーーさんは、そういうとこずるいですよね」

午前4時。確か、そう、あれは確か下北沢の、名前も知らない公園の広場だった。

何の下心もなく、ただ夜を恐れていた私は、もう少し誰かといたくって終電に気づかないフリをした。
私が都心から遠く離れた家に住んでいることは承知の上、彼の方は、しきりに時間を気にかけていたのを覚えている。

付き合わせてしまって悪かったかな、と少し冷めた気持ちで、ベンチに二人並んで座った。

取り留めのない仕事の噂話。
私にいじわるな先輩の愚痴。
彼にいつも助けられているお礼。

夜勤明け、狭いカラオケの一室で一晩を過ごしたというのに、彼は一切私に触れることもなく隣でスヤスヤと眠っていた。

この人は、私のことを女としてではなく、純粋に友人として慕ってくれる。
もちろん、大学には若くて可愛い同級生や後輩がたくさんいるはずだ。

雨上がり、蒸し暑い初夏の空気の中、ノースリーブから覗く二の腕の肉付きが気になって私は両腕を組んだ。
何となく、この人には見られたくないなと思った。

いつものことだが、こういった判断の後は安堵すると同時に、ほんのひと匙ほどの寂しさを覚える。
下心があったらあったで困るくせに。
随分と勝手なものだな、と自分でも笑ってしまう。

歳は少し離れていても、職場では私よりも先輩にあたる彼は、仕事の出来やその落ち着いた人格から周りの信頼も厚く、
私のお世話係として仕事から飲み会後の送迎まで面倒を見てくれた。

歳下とは思えないほどしっかりしていて、背はすらりと高く、肩幅も広い、サラサラと肩まで伸ばした長めの黒髪はそれでいて清潔感があって、いかにも優男という感じの、しかも最高学府の現役生。
就職活動の一環としてのアルバイトではあったが、頼りない私よりもずっと多くの仕事を任されている。

爽やかなのに、どこか色気があって、優しく誠実で、パーツの一つ一つが控えめに整っていて、どう見たって魅力的な好青年。
こんな人に、私なんかが相手にされるわけない。
当たり前だ。

だけど彼は同じようなことを言った後、好きですと、思ってもみなかったことを口にした。

突拍子もない告白だった。
思いがけない胸のときめきに、自分でも驚く。


「もう一回、言ってください」


そう言って笑う私に、彼は、一拍置いてこう答えた。


そういうとこ、ずるいですよね。


セミの泣き声が止んだ。

辺りはまだ真っ暗で、お互いに正面を向き俯いて、どんな顔をしているかはわからない。

彼の声は冷ややかだった。
そこには、一欠片の愛情も感じられない。

空気はいきなり重く、何の甘やかさも無くなった。
冷水を頭から浴びせられたみたいに、BGMが止んだ気がした。

いや、この流れは違うでしょ。
今の私の役はそれじゃないでしょ。


シナリオを変えようとするな。


わずかな沈黙の後、私も好きです、とだけ嘯いて、明るくなりかけた空の下、手も繋がずにぎこちなく遊歩道を歩いた。
これから色々なところに遊びに行こう、連絡はどのくらいにしよう、誰に報告しよう、歳の差は僕は気にしない、そんな話を片耳で聞きながら、私は恐る恐る、彼がちゃんと笑っているかどうかを確認した。

会社の人には何て言えば、風当たりが弱まるだろうか。
そんなことばかりを考えていた。

この公園から遠く遠く離れた家で、私の帰りを待っている存在のことは、電車に乗るまで思い出さなかった。

聡い彼にも、そこまでは暴かれないことを願った。