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今宵、月が見えずとも


タバコの先に火を灯し、家に持ち帰った仕事に手をつけようとベッドの上でMacを開く。
デザイン性に惹かれて買った、ガラス製の椅子はどうにも座り心地が悪い。

三畳一間のぼろアパートに住んでいた学生時代であれば、どんな環境だろうとそれなりに快適に過ごせたものだが、随分とこの身体は贅沢を覚えてしまった。
あの頃は頑として酒を飲まない主義だったし、ギャンブルなんか毛嫌いしていたし、
最新のメーカーで煎れたばかりのこのコーヒーだって、昔なら苦くて飲めやしなかったはずなのに。

部屋の中には、自分への償いかのように買い集めた洒落た調度品や家電が並ぶ。
大学を中退後、漠然とした「成功したい」という気持ちだけで色々と努力もしてきたが、結果として手に入れたこの部屋はまるで借り物みたいだ。
もう、ひと月の収入だけでも2、3年は大学に通えるだろう。本当に欲しかったものが何なのかは今でも良く分からない。

何かに追い立てられるように毎日黙々と仕事をこなし、徹夜もざらで、寝られたとしても日に2、3時間。
食事は思い出したら摂るのみで、体重はついに50キロを切った。もちろん、身長はそこそこある方だ。
「ぼんやりとした不安」を抱えながら首を吊る勇気もなく、闇に潜んで俺は、死神が迎えにくるのを待っている。


2台持ちのスマートフォンのうち、ひとつが光った。あの女だ。

学生時代からもう10年近い付き合いになるだろうか、気が向いたときにだけ連絡を寄越す。

一旦無視したってお構いなしで、しばらくすれば何事もなかったかのようにまた電話がかかってきては、夜通し愚痴に付き合わされる。
とはいえ連絡が途絶えたら途絶えたで、謎の焦燥感に居てもたってもいられなくなる、そんな自分にも嫌気が差してしまう。

結局のところ「無視をしたって連絡が来る」という“称号”を手に入れたいだけだと、
何年経っても変わらず俺がこの女からの連絡を待っているのだと、
そう思われているだろうことが、どうしようもなく勘に障る。そう伝えると「そういう素直なところが好き」と的外れに嗤った。


オンラインのゲームを口実に、通話しながら近況を報告するのがいつものパターンだ。

「今日、上司に褒められたの」

「私が担当になってからは進捗が必ず達成できるって。
うまくみんなを回してくれるって、要領がいいって、頼りにしてるって。
私のことを。信じられる?」

「仕事をしてるとね、ぜんぶ嫌なことを忘れられるの。生きてても大丈夫って思えるの」

よかったじゃん、と素っ気なく相槌を打つと、彼女はすぐ明後日の方向に話題を変えた。
反応はどうだっていいのだ。例え罵倒したって、さして問題はない。
俺は単に、彼女の物語の記録帳なのだから。

「同じチームにね、ちょっと素敵な人が入ってきたの」

「背が高くて、3つ歳上でね、いつも私を助けてくれるの。とにかく優しくって頭もいいの。今度、ランチを食べに行くの」

「着てく服がないから買いに行きたいの。明日一緒に行ってくれる?」

ああ、いいよ、ついでに俺の服も選んでよ、と
思いっきり朗らかに応えてやった。
つい先ほど、睡眠時間が週で10時間を切ったと伝えたはずだが、こいつにそんな気配りは期待しない。そして“気分を害したと思われたくない”俺が断れないことまでも、多分お見通しなんだろう。要するに、詰んでいる。
わざとらしいんだよ、やり口が。昔から何も成長していない。相変わらず人を苛々させるのが上手い女だ。

あの頃も毎晩のように電話に付き合わされた。
三畳一間のぼろアパートで、小さな窓から綺麗な月が覗くのを見上げながら、
水道水片手に、掌の届かない場所で彼女が泣くのをただ聞いていた。

呼び出されたらすぐに馳せ参じ、眠れない夜には外に連れ出して散歩に付き合ってやったものだ。家の掃除や、消し忘れた火の始末まで世話をしたこともあったな。

「あなたは、私の永久名誉お世話係だから。
もしあなたがつらくなった時には、私も助けに行くからね」

へえ、そいつはありがとうと笑って、あの頃は飲めなかったコーヒーをグイと飲み干した。
空っぽの胃がキリキリと痛む。助けが来たことなんて、一度もない。

ガランとした広い部屋の、無駄に大きな窓から、ぼんやりと濃紺の空を見上げた。
この部屋の方角からは、月は見えないみたいだ。


お前なんかの言葉で、今でも俺に傷を付けられるだなんて、どうか思い上がらないでほしい。

段々と減りゆく便りも、何度も変わってきた男の名前も、もう心を揺さぶることはない。
今まで通り、気が向いた時にでも電話をかけてくるくらいが丁度いい。

だけど、どうか終わらせないで。
それが俺の物語です。


僅かに煌めいた星々か、本当は未だに慣れてはいないコーヒーにでも酔ったのだろう、もう何度目かにもなるそんな戯言を呟くと、

まるで彼女は何も聞こえなかったかのように「おやすみなさい」と電話を切り、そして二度と連絡は来なくなった。