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透明人間




法律事務所に就職を決めたのは、この地獄が、どれくらいの罪に値するのかを知りたいと思ったからだった。


「生きていくうえで身を守るための知識を身につけたい」というのも嘘ではなかったけれど、それは私を腫れ物のように扱う両親への建前であって、8割方は単なる復讐心だったと思う。



精神的に追い詰められた人々から毎日かかってくる電話に、私はいつでも親身になって話を聞いた。

元々、人の顔色を窺ったり、相手の弱った心に寄り添うことは苦ではない。
私の場合、綺麗事でなく心の底から相手に同情することができたし、彼らがどんな言葉を求めているのかも、手にとるようにわかっていた。

「付き合った男性が、妻子ある人だったんです」



今年34になるという電話の向こうの彼女は、初めこそ礼儀正しく丁寧な口調だったが、話が進むにつれ、言葉の端々に憎悪の念を滲ませた。

「私は最初は知らなかったけれど、教えられた時にはもう好きになってしまっていて。

別れられないし、私も苦しくて、存在を気づかせたくて、色々ちょっかいを出してたんです。
そしたらバレちゃって。

奥さんから慰謝料請求されているけれど、それは仕方ないと思うけれど、私だってあの人に騙されたのに。

結局あの人は別れなかった。

私がお金を払ったら、つまりそれってあの人の懐に入るわけじゃないですか。意味がわからないですよね。
二人とも同罪なのに。対等な立場のはずなのに。

私はこんな思いをして、あの人には何もダメージがないなんて、絶対に許せない」

現代の法律では、まだまだ不倫は結婚している側に有利にできている。
それでも、わざわざ既婚者に惹かれ、身を滅ぼしてしまう独身者は多いのだということを、私はここに来てほんの2、3日経った頃には学んでいた。

「わかりますよ」

私は、電話越しの彼女には見えないにも関わらず何度も頷いた。
本当は、全くわかってなんかいない。
感情を理屈として理解ができることと、同意するということはまた別の話だ。
私から見れば彼らは間違いなく愚かだけれど、社会的に地位も名誉も持った人々が、毎日これだけ電話してくるのだから、
きっとこれは無理のないことで、特別に愚かなことではないのだろう。

「きっと、ものすごく、おつらいですよね。
 私も絶対に理不尽だと思いますよ。
 同じ女性として、悔しいし、涙が出そうです。

 だけど今はこれ以上、ご自分に不利になるような行動はされないことが大切です。

 ご予約をお取りしますので、まずはそちらで弁護士にお話しいただき、詳しいご事情と、お気持ちをお聞かせください。
 私共も、できる限りお力になれたらと思います」


流れるように案内を終わらせて受話器を置くと、ずっと横で話を聞いていた隣の席の先輩が話しかけてきた。

「今の人、めっちゃ長くなかった?もう30分も経ってるじゃん。
 もう電話相談料、欲しいレベルだよね」


4つ歳上の彼女は、電話応対が苦手だ。

私は逆に事務処理が得意ではなかったので、手が塞がっていない限り、電話は私が取るというのがいつのまにか暗黙の了解になっていた。


「はい…本当におつらそうでした。
 よっぽど追い詰められているんでしょうね。可哀想に」

私が皮肉に気づかないフリをして微笑って見せたので、彼女も今度は取り繕うことなく要件を述べた。

「私も助かってはいるけどさ、あんまり一人に長く時間かけないでよね。
 その間に他の電話来たら困るし、こっちも手いっぱいなんだから。
 あんまり良い子ぶるのも嫌味だし、逆に周りは迷惑するんだからね」

彼女はそれだけ一気に言い終えると、ふんと鼻を鳴らし表計算ソフトに目を戻した。
私にはとても真似できないような速さで、手元の領収書に記された金額を入力していく。


「別に良い子ぶってなんかないのに」
「だって、本当にそう思ってるもの」


そんなことを言ったところで意味がないことはわかっているし、実際、彼女の言い分は正しい。


何か適当に返事しようとしたが、また電話が鳴ったので、私は黙って受話器を取り、お電話ありがとうございます、と応対した。


「もしもし、刑事事件での相談なのですが。
 なにぶん初めてのことで、勝手が分からなくて。
 こちらでお間違いないでしょうか」


今度は、低く深く、貫禄のある、どっしりとした男性の声だった。

「お問い合わせありがとうございます。
 もちろん、こちらでお話伺わせていただきますよ。
 刑事事件の弁護についてのご相談ですね。
 まず、被害者側と加害者側、どちらになりますか」

「一応、加害者側です」

「かしこまりました。ご本人様ですか、それともご家族の方ですか」

「私です。それと、娘も」

「ご本人様と、お嬢様…ですね?
 ご在宅ということでしたら、まだ容疑は固まっていないと思いますが、罪状は何になりますでしょうか」

「強姦…なんですかね。準強姦というか」

「…お客様とお嬢様に強姦の容疑がかかっているということでよろしいでしょうか?
 恐れ入りますが、被害者の方はお知り合いですか」

「いえ、私が加害者で、娘が被害者というかたちになります。一応」

一応、という単語が、頭の中で反芻し、私は言葉に詰まってしまった。

「だけど、ほとんど合意の上だったんです。
 彼女は私のことを好いてくれているし、嫌がる素振りも特段見せなかった」

「失礼ですが、お嬢様はおいくつになりますか」

「今年15になります」

「実のお嬢様ということでよろしいでしょうか?つまり、血の繋がりはありますか。
 それに奥様は…奥様は同居していらっしゃいますか」

「実の娘です。妻は5年ほど前に出て行きました。
 先週、親戚と妻が一緒にやってきて、保護シェルター?っていうんですか?
 娘をそこへ連れて行きました。私のことを告訴するとか、なんとか」

ふと横を見ると、先輩が私と聴取シートを交互に見比べ、これでもかというほど目を見開いている。

「承知いたしました。
 そうしましたら相手方からの連絡内容と、
 期日等ございましたら、お教えいただいてもよろしいでしょうか」

「向こうの弁護士から、きのう書面が届いたんです。
 これが自分には難しくてよくわからなくて…
 さっき電話も来たんですけど、やっぱり何を言われているか、私には理解できなくて。
 また今週末に電話が来るらしいから、それまでには先生とお話しできたらと」

「なるほど。そうしましたら、今日明日にでもご予約をお取りしましょう。
 ちなみに事件の概要につきまして、簡単に、時系列でお聞かせ願えますか」

「あいつが、妻が出て行ってから、家は本当に大変で。
 あなたみたいなお嬢さんにはわからんかもしれませんが、男手一つで女の子を育てるって、本当にあなた、大変なんですよ。
 娘は、妻に顔は良く似てるけど、性格は私似なんです。
 優しくて、私を責めることもないし、仕事で毎日疲れて帰る私のことをいつも支えてくれて。

 だけどやっぱり男と女がね、同じ屋根の下にいるとね、変な情が湧いてしまうんですよ。
 これは私と娘の、二人にしかわからない感覚だと思うんですけどね。

 それでこないだ、3週間前くらいかな、娘も満更でもない感じで、肩なんか揉んできて。
 私は仕事で落ち込んでいて。

 それで私も変な気分になって、酒も飲んでたし、そのまま…」

聴取シートに内容を打ち込んでいると、先輩がそれを食い入るように見つめていて、また私の方を見て大袈裟に口を手で覆ったのがわかったが、私は無視して話を続けた。

「承知しました、お話しいただきましてありがとうございます。
 最後に、ご自身では、この件に関してどういった解決方法をお望みですか?」

「私はただ、娘に戻ってきてほしいだけです」

「それは、お嬢様と同居を続けたいということでしょうか」

「はい、もう私には娘しかいないんです。
 私は彼女を女性として愛しているし、今の法律では結婚できないことはわかってるけど、それでもそばにいてほしい。
 彼女も、私のことを好いてくれているんです。あれは結局、合意の上だった。
 なのに連れて行かれてしまったんです。
 妻も、親族も、どうして放っておいてくれないんだろう。これは、私たち二人の問題なのに」

「ええ、わかります。おつらいですよね。
お嬢様は何と言ってらっしゃるかは、お分かりになりますか」

「いいえ。
 娘と話したいんですが、妻が絶対にダメだと拒否しているらしくて。妻も妻で、私と話したくないからといって電話に出てくれないし…
 だけど絶対、私たち、二人で幸せだったんです。
 娘も私と暮らしたいはずです。本当なんですよ」

受話器の向こうで、鼻をすするような音と、続いて小さくしゃくりあげるようなうめき声が聞こえたような気がした。

「お気持ち、お察しします。おつらいでしょうね…。
 ただでさえ苦しい状態なのに、お父様は、たったお一人で耐えてらっしゃるんですものね。

 かしこまりました。難しい問題ではありますが、少しでもお気持ちが軽くなるよう、できる限りのことはさせていただきます。

 本日の19時からでしたら空きがございますので、そちらで詳しくお話お聞かせいただけますと幸いです。
 相手方の弁護士からの書面と、念のためのご印鑑だけご用意のうえ、お気をつけてお越しくださいませ」

電話を切ると、周りの目も気にせず先輩が叫んだ。

「ちょ、何今の!信じられない!
 頭おかしいでしょ、自分の娘って!
 しかも自覚ないし。あんた、良く黙って聴いてたわよね」

「ええ、可哀想な方でしたね」

「可哀想って何よ、可哀想なのは娘さんでしょ」

「確かに…お父さんもですけど、奥さんとお嬢さんも、本当にお気の毒。
 さぞかしおつらいでしょうね。自分の身近なところで起こったらと思うと、胸が痛みます」

「お父さんも、って何よ。
 その可哀想にした張本人の父親の肩持つなんて、どうかしてるわよ」

「うーん、お父さんもお父さんで、本気で娘さんのことを愛してらっしゃるんでしょうし。
 悪いことをしているっていう自覚が無いんですよ。
 それに本当にお互い愛し合ってらしたとしたら、それが悪いことだと言い切っていいのか、自信がありません。
 ご本人も、何が悪いのかもわからないのに、加害者になって、愛する家族から引き離されて、周りから、奥さんからも残虐非道な人間として扱われて。話さえしてもらえなくて。
 それって何だか、少し可哀想だな、と思って」

「あのさあ…良い子ぶりっ子も良い加減にしなさいよ。
 あんた、気持ち悪いよ」

見るに耐えない、といったように私から目を逸らした後、先輩はこう吐き捨てた。


「どっかおかしいんじゃないの」

そして少しだけバツが悪そうに立ち上がり、書類を抱え、彼女は上司のデスクへ小走りで向かって行った。

そうか、私はおかしいか、とポーっとしたままその背中を見つめていると、再び電話が鳴ったので、一拍置いて受話器を取る。

今度は、若い男性の声だった。

「もしもし、弁護士さんに相談をしたいんですが」

低すぎず高すぎず、どことなく爽やかな、好感の持てる声だと私は思った。

「かしこまりました、お電話ありがとうございます。
 民事と刑事ですと、どちらになりますでしょうか」

「民事…いや、刑事なのかな?よくわからないです」

「そうしましたら、被害者側と加害者側ではどちらになりますか」

「加害者側です。一応、暴行か傷害になると思います」

私がキーボードを叩く手を止めると、ちょうど先輩が上司のところから戻ってきて、また席に着いたところだった。

「承知いたしました。被害者の方は、お知り合いですか」

「はい、以前付き合っていた交際相手の女性になります。
 付き合ったり別れたりで、初めに手をあげてしまった時はまだ交際中だったんですが」

私が息を大きく吸い込んだので、先輩は訝しげにこちらを見やり、そのまま私が入力している調書の方に視線を滑らせたようだった。

「かしこまりました。
 そうしましたら、簡単にでよろしいので、事件の概要をお話しいただけますと幸いです」

「すみません、僕もよく覚えてないことが多いんですけど…
 半年くらい前、彼女が、浮気をしてるのがわかりました。
 僕と付き合ってるのに、元彼とまだ切れてなかったみたいで。
 スマホを、本当にたまたま、何となくチラッと見たら2人で映画に行く約束をしてて。
 それで僕、カッとなってしまって、手を上げてしまったんです。
 問い詰めたら、誕生日にゲームを買ってくれるっていうからとか言ってて。
 そこでもう僕、頭が真っ白になって。
 手を出したのは悪いと思ってるけど、信じられなくないですか。
 それ以来、本当にたまになんですけど、口論になると手を出してしまうようになったんです。
 近頃ではあまり、そういうことはなかったんですが」

私は、パソコンのディスプレイの向こう側にかかっている時計を意味もなく見つめていた。
先輩が調書をチラチラ覗いているのが何となくわかったが、私の手はもう動いてはいなかった。

「恐れ入りますが、手を出したと言いますと、どのような強さで、だいたい何回くらい、どれくらいの時間、お相手の女性に対して暴力を振るわれたのかを教えていただいてもよろしいでしょうか」

それは決して大きな声ではなかったはずだが、なぜか周りは静まりかえっていて、私の声がフロアに響き渡ったような気がした。

私は頑なに見ないようにはしているが、先輩は完全に作業の手を止め、私の電話に神経を集中させているのが何となくわかる。

「そんなこと覚えてないですよ。
 だけど、大袈裟なものではないはずです。
 顔の形が変わるまでボコボコにした、とかではないですし」

「拳ですか?平手ですか?」

「…覚えてません」

「覚えていないくらいに理性が飛んでいたとしたら、拳かもしれませんね。
 お相手の女性は、何か証拠のようなものは用意されていますか?」

「彼女には何も証拠なんかないはずですよ。
 手を上げてしまったのもけっこう昔の話だし、僕としても、何を今更という感じで」

「そうなんですね。女性に暴力を振るった方は、みんな口を揃えてこう仰います。
 『手を上げた』。
 これ、かなり印象が変わりますよね。
 顔が腫れたり血が滲むまで殴りつけたとしても、『手を上げた』と言ってしまえば、嘘ではないですものね。
 あなたはどうでしょうか?
 殴っただけですか?蹴ったりもしましたか?
 髪の毛は掴みませんでしたか?
 血は出ましたか?彼女は泣いていましたか?
 やめてとは言われましたか?
 もしかすると、彼女は喜んでいましたか?」

「…あなた、失礼ではないですか。
 これって本当に必要な話なんですか?どうしても今、言わなくてはいけませんか」

「裁判となれば、もっと細かく聞かれるでしょうね。
 まあ、覚えてらっしゃらないとしても無理もないかもしれません。
 やられた方は絶対に忘れられないけれど、やった方は違いますからね。
 やった側は適当に自分の行動を正当化して、自分に酔ったり、そのまま水に流してしまえるけれど、
 やられた方にとっては地獄はそのまま続くんです。
 負債を何も取り返していないのに、自分はまだ地獄の中にいるのに、そんな状態で忘れられるわけがないんですね。
 加害者側は、いくらでも記憶を改竄するし、都合が悪い部分には蓋をして、見ないフリだってできる。
 でも被害者の方は、そういうわけにはいかない。

 絶対に、忘れない。

 あなたがどう説明づけたって、どう完結させたって、どう自己流に整理したって、相手の中では何も変わらない。
 チャラになんてならないんです。

 彼女の前で『手を上げた』と表現することはお勧めしません。
 きっと、彼女は許してくれないと思いますよ」

私は一気にそれだけ言い切ったが、すでに電話は切れていた。
実はほとんど最初の方で切れていたし、私もそれをわかってはいたが、そのまま話し続けたのだ。

受話器を置いて、一度深く息を吐き、顔を上げると、先輩だけでなく、周りに座っていた周りの人々も私を見つめているのがわかった。

夢から覚めたように、私はフロア全体を見回した。
この事務所に勤めて2年ほど経ったはずだが、こんな場所は初めて目にしたような気がする。


私は、この日のためにここに来たんじゃないのか?
私は、こんな日が来るのを、待っていたんじゃなかったか?

今まで私は、何をしていたんだろうか。


「お手洗いに行ってきます」

先輩に向かって声をかけたが、返事は聞こえなかった。


私はフロアを出て、まるでせめてもの救いのように美しく洗練された、パウダールームの鏡台に両手をつき、

鏡に映る、そのまま消えてなくなりそうなほど透き通った、真白い顔を見つめた。

見たこともない女性だった。
目が合うと、それは気味悪く嗤った。